DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

アンナ・カヴァン『氷』B、池平八『ネグロス島戦記』A

【最近読んだ本】

アンナ・カヴァン『氷』(山田和子訳、ちくま文庫、2015年、原著1967年)B

 異常な寒さが続き、終末が予感されている世界を舞台に、ある少女と彼女を追って旅する男を描く。少女と呼ばれているが読んでいたら21歳ということがわかってちょっとイメージが狂うが、アルビノであることや、現実とも追う男の夢ともつかない幻想的な描写により、この世のものではないかのような美しい存在になっている。

 読書家の間では評価の高い作品だが、正直なところ途中で退屈になってしまった。描かれるのは、ストーリーというよりも「気分」である。ただただ「終末」の雰囲気と、少女を追い求める男の切実な希求が印象に残り、J・G・バラードの破滅三部作を読んだ後のような沈んだ気持ちが残る。

 少女を追う過程で、スパイめいた暗躍、軍から逃れるための活劇的なアクション、同じく少女を追う「長官」との謀略や駆け引きなどが描かれるものの、それらは断片的なものにとどまり、世界の全体像を明かしてくれるわけではない。どうせ最後まではっきりしたことはわからないんだろうと思うと、熱心に読もうとする気持ちも薄れてしまう。ネット上での感想を見ても、具体的にどこが魅力なのかはわからないままに絶賛されている印象を受ける。

 冷静に考えれば、異常な寒さが続くのと世界が終焉することは必ずしも結びつかないものの、終末を望む「私」の気分と世界の様相がぴったり一致しているというセンチメンタリズムに説得力を持たせる手腕はかなりのものである。しかしその果てに、少女を手に入れ、世界の滅亡と自身の死の想像に安らぎを見出すというラストは、あまりに自己満足に過ぎるとは思った。よくカフカ的世界観と評されているが、決定的に違うのはセンチメンタリズムの有無だろう。

 読んだときの気分にもよるのかもしれないが、正直自分がいま求めるのはこういう話ではなかった。

 

池平八『ネグロス島戦記』(光人社NF文庫、2007年、原著1990年(私家版))A

 レイテ、ルソンに続くフィリピン第三の激戦地ネグロス島にあって、奇跡的に生還した男の手記。

 実際のところアメリカ軍との戦闘はほとんど描かれない。太平洋戦争末期の1944年、ネグロス島に赴任した著者の陣地は、満を持して迎えたアメリカ軍との決戦にひとたまりもなく敗れて崩壊し、生き残りは立て直しを図りジャングルの中を敗走することになる。所属部隊の副官の当番を命じられた著者は、病気になった彼とともに置き去りにされ、その死を看取ったあとは独り友軍との合流を目指す。

 山を越えた先の陣地にたどりつくまでは、ひたすらジャングルの彷徨と、飢餓との戦いが描かれる。期間にして、1945年の6月から終戦をまたいで8月過ぎまでの2か月近く、分量の3分の1以上を費やして描かれるそれは、濃密な冒険小説めいて確かに読み応えはある。そうして死ぬ思いで合流したのに、著者が陣地に着いてみると既に戦争は終わっており、捕虜になっていた上官たちには、著者が臆病に逃げ回っていたものと誤解され、人々の前で殴り倒されてしまう。本書のハイライトは、その無情さだろう。味方の白骨化した死体ばかりの中で、あれだけ生きた人間と会うことを求めていたのに、出会ったとたんに人間関係はしがらみとなって著者を縛るのである。

 幸いに大きな怪我も病気もなかった著者は、重病人と重傷者ばかりのジャングルでは圧倒的に有利だったが、基地においては死人寸前の弱者でしかないのである。それを知った時、それまでいた地獄が、実は生を謳歌する自由の空間だったという劇的な転換が起こるのだ。

 実は著者自身は、山をぬけて友軍との合流を果たす寸前で筆をおいたのを、娘に請われて続きを書くことにしたというが、確かに思い出したくなかっただろう。本書は編集の過程でか、あちこちで詠嘆調の回想が入るのが鼻につくものの、厚さのわりに読みやすい良書である。

津本陽『わが勲の無きがごと』B、レス・スタンディフォード『汚染』B

【最近読んだ本】

津本陽『わが勲の無きがごと』(文春文庫、1988年、単行本1981年)B

 短いながら密度の濃い作品。ニューギニアに出征して帰還した義兄が戦争で何を見てきたのか――武道に優れた尊敬する義兄が、度を越した慇懃さと用心深さ、人間不信を兼ねそなえた得体のしれない人間に豹変したのは何故かを、義兄の遺した談話などを通して探る過程で、心的外傷や、戦争体験の記憶の変容といった問題を描く。

 途中から人肉食を示唆してきたので、そういうのは食傷気味だと思っていたのだが、読むうちに段々様子が変わってきて、持ち前の武道と強運と機転で勇敢に戦い抜いてきたと思っていた義兄が、実はかなり周到に味方の死を利用し、人肉食も計画的に厭わず行ない、その犠牲の上に生き延びていたことが明らかになってくる。その過程は、初期の作者の本分たるミステリ的なスリルがある。これはもしかしたら大岡昇平の『野火』(1951年)へのアンチテーゼ的な意図があるのかもしれない。ここにはキリスト教的なヒューマニズムや罪悪感は存在せず、生きるためには手段を選ばない強い意志のみがある。もっとも戦後はやはり罪悪感に苦しめられ続けてはいるが。

 しかしこの小説は短いがゆえの効率化はあって、義兄の談話からうまく虚偽を嗅ぎつけ、遺されたメモから芋づる式に判明した戦友を訪ねてあっさり「真実」*1を突き止めるあたりは少し安易にも思える。

 こんな凄惨な戦場を生き抜いてきた義兄が、海で波をかぶって鼓膜が破れ、平衡感覚を喪って浅瀬でおぼれ死ぬという呆気ない最期を迎える運命の皮肉こそが、どちらかといえば肝なのかもしれない。義兄の真実を知れば知るほどに、その落差が胸に迫る。

 

レス・スタンディフォード『汚染』(槇野香訳、創元ノヴェルズ、1994年、原著1991年)B

 本編よりも印象に残るのは、尾之上浩司による解説である。タイトルから「病原菌パニックもののブーム到来!」とテンションが高い。これが書かれたのは94年7月、6月に起こった松本サリン事件に言及してなおこの浮かれようである。この後95年1月に地下鉄サリン事件が起こり、社会も彼も冷水を浴びせられることになるわけだが、この時点の彼は何かカタストロフを待望しているようにすら見えてしまう。それは当時の社会の気分でもあったのではないか。

 本作が書かれたのは1991年だが、「7月18日 月曜日」から始まることから判断して、作中の年代は1994年である。邦訳が出た年と一致しているのは偶然か、あるいは翻訳の際に調整したのか。舞台はイエローストーン国立公園。実際に行ったことがある人は面白いのかもしれない。ここに迷い込んだ運送トレーラーが事故で大破するところから話が始まる。実はその中にはある企業が極秘開発していた細菌兵器があった。それが流出して次々に感染者が出る中で、企業の幹部たちは公園の封鎖と感染者の抹殺を指示する。

 国立公園が舞台なので被害者がレンジャーやキャンプの客にとどまり人数が少なく、大都市が舞台のようなスケールの大きさはない。しかし行動の短絡的な企業、送りこまれる破滅願望を持つ殺人狂、対抗するインディアンの戦士の末裔や大自然に潜む猛獣たちなど、悪と正義がはっきり対照されたうえで妙にキャラが立っていて、それぞれが見せ場を発揮しながら戦い抜いては退場していき、短くまとまっている。それがまるで神話や寓話のような不思議な読み心地である。超能力者が出てこないのが不思議なくらいであった。

*1:記憶や語りの変容を描いている割に、最後の場面で明かされる「真相」は疑う余地のないものとして描かれているように見える。証言が次々に覆されて行って真実がわからなくなるというポストモダン小説的な結末を予想していたのだが

柚木麻子『終点のあの子』B、ビル・グレンジャー『ラーゲリを出たスパイ』B

【最近読んだ本】

柚木麻子『終点のあの子』(文春文庫、2012年、単行本2010年)B

 都内にあるプロテスタント系女子高に入学した生徒たちの青春を描いたデビュー作「フォーゲットミー、ノットブルー」(オール讀物新人賞受賞作)と、その続編にあたる3作品を収録した連作短編集。「フォーゲットミー、ノットブルー」は、ごく平凡な女の子が奔放に生きる型破りな女の子に出会い、憧れと友情、そしてふとしたきっかけからの幻滅と破局へと至る物語。つづく「甘夏」と「ふたりでいるのに無言で読書」は脇役だった友人たちが主人公となり、最後の「オイスターベイビー」は「奔放な女の子」の4年後の現実を描く。

 同じ時期の出来事が、その場にいた人それぞれの内面から語りなおされることで、ある学校の、あるクラスの、あるクラスメイトたちの青春の姿が立体的に浮かび上がってくる。語り手のタイプも引っ込み思案、読書家、ギャルなど、定番ではあるものの、色々な視点や価値観を巧みに描き分けている。最近の学園もの同様にスクールカーストが重要なテーマになっており、中高一貫校で内部進学か外部からかということや、どの駅の近くに住んでいるかがそのまま校内のヒエラルキーにもかかわってくる――それどころか電車という小道具は全編を通して、タイトルにまで影響を与えている――という構図は、都会育ちの読者には共感のわく描写なのかもしれない。

 解説の瀧井朝世が絶賛しているように、観察力と繊細な描写は群を抜いている。自由で才能に溢れるクラスメイトに対する崇拝や羨望のような感情が、些細なきっかけから失望や憎悪に変わっていくような、感情や友情の不安定な揺れ動きが、この本に一貫した著者のこだわりであり、それは他の3作品にも共通している。そこにかつての自分自身を見出せるかどうかが、この本を気に入るかどうかの分かれ目だろう。

 ただミクロ的な描写は優れているものの、マクロ的な視点になると少し雑になっていた気もする。「フォーゲットミー、ノットブルー」の主人公の女の子は、クラス全体を巻き込んだ事件で友情が破れてからは、ずっと地味に埋没し、別の友人もできつつ、勉強に専念して生きていくという風に、一応その後もフォローされてはいる。しかし高校1年の出来事の密度に比してあまりにおざなりに流れている印象がある。それだけにこの物語で描かれる事件が大きなものだったということになるのだろうけれど、どうも物語に描かれない「外部」が時折ひどく薄くなることがあって、そこは気になった。あくまで細部の繊細さに比して、ということではあるけれど。

 

ビル・グレンジャー『ラーゲリを出たスパイ』(井口恵之訳、文春文庫、1985年、原書1983年)B

 おもにフィンランドヘルシンキを舞台に、陰謀あり、ロマンスあり、アクションありで、ジェームズ・ボンドの衣鉢を継ぎつつ荒唐無稽には流れない、正統派のスパイ小説……と言い切りたいところだが、過度に複雑に書かれているようなところがあってどうも読んでいてわかりにくい。

 全体の構図はむしろ単純かもしれない。鍵を握るのはトマス・クローハンなる男。アイルランド独立運動の英雄とされる彼は、独立運動アメリカの援助を得るためスパイとしてナチス支配下のウィーンで暗躍し、侵攻してきたソ連軍に逮捕されて収容所で死亡したとされていた。しかし実はひそかに生きながらえており、40年経った1984年、極秘に出所しての亡命をアメリカに打診してくる。アメリカの情報部Rセクションは主人公たるデヴェロー――コードネーム「ノヴェンバー」を派遣するが、この情報はソ連やイギリスにもキャッチされていた。どうやらトマス・クローハンには、世界情勢を揺るがすような秘密が隠されているらしいのである。かくしてイギリス情報部やKGBも動き出し、世界各地で熾烈なスパイ戦が始まる。

 で、この戦いが非常にわかりにくい。いくつもの組織がそれぞれ最低二つの派閥に分かれ、めいめいに殺し屋を送り込んだり政治的手段で交渉を妨害したりと様々にかかわってくるので、ある場所では凄惨な殺しが起こったが別の場所では職場をクビになる程度で済むなど、場当たり的な展開が続く。現地の警察もかかわってくるのでより事態は混迷をきわめる。あとまあ、アメリカの読者はアメリカ陣営に肩入れして読むのだろうが、日本人だとアメリカの名誉にかかわるといわれても少々実感に乏しいきらいはある。

 クローハンが何者なのか、末端のスパイはおろか上層部もよくわかっていないため、それぞれの国ごとに違う見解をもっており、少しずつ明かされていく「クローハンの正体」も二転三転するのでややこしい。実は本心からナチスを支持する反ユダヤ主義者だったとか、実はそれはアメリカの命令で演じたものであったのにアメリカは名誉回復に動かず黙殺したとか、実はそれがカムフラージュであり、ナチスに協力するふりをしてユダヤ人救済に尽力していたとか、その人望を危険視したイギリスの陰謀により投獄されたとか……次から次へと、公表されたら英米ソ各国に都合の悪いクローハン像が提出されたすえ、実はクローハンは暗殺されていて、今収容所にいるのは暗殺者がなりかわった偽物だという可能性までもが浮上してくる。

 さながらポストモダン小説のように真相は定まらず、最終的にはヒロインのジャーナリストが世界に向けて発表した「真相」が事実として確定されるあたり、マスコミが事実を作り出すというメディア論的なオチとも見える。データベースで「トマス・クローハン」と検索しただけで当局に捕捉されて転落のきっかけになったりもして(これが伏線となり、三谷幸喜の『振り返れば奴がいる』を想起させるラストはなかなか良い)、情報化社会のスパイ戦をうまく描いている。

 本書は特に、冬のヘルシンキの陰鬱な描写がよかった。

灰色の、陰鬱な、しびれるような日日がやってきた。これこそフィンランドの暗い冬なのに、そのきびしさを身にしみて感じている者はすくない。人びとは太陽でさえも、はるか彼方の別の太陽系に属している惑星ででもあるかのように眺めているだけであった。星のない夜は長い。夕暮れの灰色の雲の彼方に陽は沈んでいく。凍った港のかなたに拡がる浅い海、フィンランド湾を閉ざす雲は月光も星影のありかも遮ってしまうのである。(pp.9-10)

 クライマックスのロンドンにいたるまで全編こんな調子で、独特の暗い雰囲気を与えている。

 

 本書は実はシリーズものの3作目だったらしく、

『ノヴェンバー・マン』 The November Man (1979)矢野浩三郎訳、集英社文庫

『スパイたちの聖餐』 Schism (1981)井口恵之訳、文春文庫

ラーゲリを出たスパイ』 The British Cross (1983)井口恵之訳、文春文庫

チューリヒ・ナンバー』 The Zurich Numbers (1984)加藤洋子訳、集英社文庫

ヘミングウェイ・ノート』 Hemingway's Notebook (1986))加藤洋子訳、集英社文庫

となっている。作中を通してしょっちゅう前の事件の回想が入るので、順番に読むべきであったとは思う。

岬兄悟『あたしがママよ』B、清水一行『毒煙都市』A

【最近読んだ本】

岬兄悟『あたしがママよ』(角川文庫、1986年)B

 見事にワンパターンな短篇集である。まず、

  ①現状に不満を持つ人がいて、

  ②それを脱出する糸口としての超常現象が起こるが、

  ③最後にしっぺ返しを食らう。

 不満を持っている人の性別や境遇、物語の視点人物などを変えて工夫してはいるが、結局すべてはこのパターンに集約される。その代わりに冒頭から引き込む力があって、だいたい売れないバンドマンや作家が多いのだが、これは解説の高井信が、「岬さんの作品からSFを取り去ったら、これはもう、ほとんど私小説になってしまうのだ」と述べているように、①の「現状への不満」に、彼自身の鬱屈を反映させることで発端の部分に現実味を与えているのだろう。

 しかしワンパターンだからといって、つまらないのではない。むしろどれも面白い。パターン化というのは、それを言ったらドラえもんも同じことで、結局アイデア次第で面白くもつまらなくもなるということでもある。この場合、毎回巻き起こる超常現象がバラエティに富んでいることと、右往左往する人々がうまく描けているためどれも楽しめる。文章もシンプルで読みやすい。

 能天気なドタバタを予想していたら意外に暗い作品が多かったが、特に印象に残ったのは「瞑想昇天」。社会で瞑想がブームになり、主人公の妻や子もはまって、やがて瞑想に熱中する人々がカルト化して集まり、ついには集団で瞑想して天に昇っていくが、それから数日後……という話。思わぬブラックなオチで、「本当に悟っているのはだれか」という新宗教ブームへの批判として、現在にも通用する秀逸な作品である。

 岬兄悟は、当時はSFマガジンで増刊特集が組まれるくらいの人気作家で、10年くらい前まではブックオフでも1冊くらいは作品が見つかったものであるが、今ではそれすらも滅多に見なくなってしまった。寂しいものである。

 

清水一行『毒煙都市』(角川文庫、1979年)A

 タイトルから水俣病あたりをモチーフにした公害小説かと思ったら、少し違った。公害といえなくもないが舞台はなんと戦前、九州の地方都市で実際に起こった集団赤痢事件をモチーフにした、ノンフィクション的なパニック小説である。調べると「大牟田爆発赤痢事件」として有名らしく、ネット上にもいくつか情報がある。これは軍が秘密裏に開発していた赤痢爆弾が原因とみられているが、いまだ未解決で現在に続いているという。

 この小説を読むことで、篠田節子の『夏の災厄』が触れなかったものが見えてくる。疫病に見舞われた地方都市を描くパニック小説という点で二作品は共通するが、篠田が疫病(日本脳炎)の原因追究に主眼をおき、感染経路が突き止められたところでほぼ物語が終わるのに対して、清水は原因以上に、一体この事態の責任追及の様子を執拗に描く。もちろん軍は秘密兵器を開発していたなどと認められるわけがない。代わりに犠牲として選ばれたのが市の水道課である。後半、何者かの意志により水道課の過失がどれだけ否定しても次から次へと、あの手この手で執拗に調査される。このあたりはほぼサイコホラーである。内務省赤痢予防薬と称して赤痢菌の混入した薬を配布し、事件を攪乱するなどということまでしている。

 否定しても否定しても水道課への責任追及はやまず、あらゆる検査や権威を投入した果て、原因は上水道への赤痢菌混入と断定され、上水道の機構からありえないという反論もむなしく、課長が責任をとって辞任するという形で「解決」を見る。現実にも同様の経過をたどったらしく、遺族は今でも真実の解明を求めた告発を続けているらしい。Wikipediaの事件の記述はあたかも清水の小説のあらすじのようでもあり、清水がかなり詳しく調べて、かなり忠実に小説化したことが窺われる。当時はかなりスキャンダラスだったのではないか。

 戦前が舞台とはいえ作中では軍部はほとんど姿を見せず、何者かの思惑に翻弄される水道課員をはじめ、突発的な赤痢にわけもわからないまま子を失っていく親たち、事態を見極めようとする医者、秘密兵器開発にかかわっていた軍と企業の暗躍などが描かれ、あまり戦前という時代性を感じさせない。水道課長と軍上層部のささやかな「対決」が一応のクライマックスだが、理不尽な敗北のラストはやはり物足りないものがある。現実の事件に材をとっている以上しかたのないことであるが……

 『夏の災厄』も小松左京の『復活の日』もそうだったが、この手の話で一番面白いのは、序盤の誰も気づかないうちに疫病が広がっていき、それに人々が気づくまでである。のどかに晴れていた街や公園がにわかに曇ってくるような不安の正体を、読者たる自分のみが知っているという優越感とそれをどうにもできない無力感、やがてくるカタストロフへの緊迫感など、作家の力量はここでこそ発揮される。

 徳間文庫版も出ているようだが、やはり角川文庫版が、生頼範義の表紙で良い。爆煙に包まれる工業都市を背景に、亡くなった幼い娘を抱いて怒りに震える父親を描き、黙示録的な迫力がある。

酒見賢一『泣き虫弱虫諸葛孔明 第壱部』B、篠田節子『夏の災厄』 A

【最近読んだ本】

酒見賢一泣き虫弱虫諸葛孔明壱部』(文春文庫、2009年、単行本2004年)B

 タイトルは井上ひさしの『泣き虫なまいき石川啄木』のオマージュか。「泣き虫弱虫」などというから、いくじなしの孔明が、追い詰められてヤケクソの策がうまくはまって、歴史に残る大軍師に――といった展開を想像していたのだが、まったく違った。確かによく泣くのだが、多分に自己陶酔の気味があり、弱虫なのかどうかはよくわからない。

 面白いけれど、王欣太の『蒼天航路』の衝撃をこえるものではなかったと思う。日本の『三国志』像は、長く吉川英治に支配されてきて、『蒼天航路』に至ってようやく乗り越えられたが、今度は『蒼天航路』が新たな支配者として君臨しているという印象が、個人的にはある。

 本書における絶対的な天才としての曹操や、親分肌の劉備、神仙の世界に自在に遊ぶかのような孔明といった人物像、さらには孔明に全く興味を示さない曹操といった要素は、やはり『蒼天航路』の影響と思える。『蒼天航路』を知らずに読めば革命的であったかもしれない。

 とはいえ劉備孔明の絆の引き立て役に甘んじてきた人々――諸葛均、姉、黄承彦、黄夫人、徐庶、崔州平、ほう徳公、ほう統ら――彼らの立場からの言い分を描いての「人間的再構築」など、見るべきところも多い。特に徐庶は、地方の一書生に過ぎない彼が何故あんなにも鮮やかな指揮を取れたのか、独自の解釈を施しており、なかなか楽しめた。彼こそ読む前に想像していた「泣き虫弱虫」の姿だったかもしれない。

 変に皮肉っぽい文体がやや鼻につくが、それさえ受け入れられれば楽しめる。 

 

篠田節子『夏の災厄』(文春文庫、1998年、単行本1995年) A

 平穏なニュータウンに突如日本脳炎らしき病気が蔓延し、やがて町全体が恐慌に陥っていくバイオパニックホラー。

 疫病が誰にも気づかれずに発生して社会を浸蝕していくというネタは、小松左京の『復活の日』(1964年)を思い出すが、あれが未知のウィルスによる世界滅亡を描いたスケール大なSF小説だったのに対し、本作は舞台をほぼ一地方自治体に限定した上で、緊迫感あふれるドラマを構築している。もしかしたら『復活の日』へのアンチテーゼ的な意識もあるかもしれない。ひとつひとつの事象に市の職員たちが対応していく地味なシークエンスの連続が、手に汗握る病原菌と人類の攻防劇になっていくというのは、とにかく話のスケールの大きさを競い合う「大作」群に慣れ切った頭にはひどく新鮮に映る。

 書かれた時代が携帯電話やインターネットの普及前で、テクノロジー的な古さはいかんともしがたいが、冒頭で反ワクチン運動の話題が出てくるなど、現代でもメッセージ性として決して古びるものではない。最近になって角川文庫で再刊したのもうなずける。できれば時代に合わせたリファインをしてほしいとも思うが……

 疫病の原因は人為的なものもかかわっていたということで、終盤になると文献の調査などで割とスムーズに「真相」が判明してしまう。そのあたりは話をまとめるための方便という感じで多少不満もあるが、そうでもしないと600ページにすらおさまらないであろう。

東野圭吾『天空の蜂』B、ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』A

【最近読んだ本】

東野圭吾『天空の蜂』(講談社文庫、1998年、単行本1995年)B

 爆薬を載せた無人のヘリが原発の上空をホバリングし、日本の全原発の停止を要求する――という、地味に工作員が忍び込むのと比べて派手で効果も高そうな「その手があったか!」という鮮烈なビジョンのもと、謎のテロリストと阻止しようとする人々の攻防を描く傑作――なのだが、「来たるべき破局」への警告というメッセージ性が強すぎるあまり、「破局後」を生きる現在において読むと、どうしても踏み込みが弱い気がしてしまう。

 作中で技術者たちが悩むのは、ヘリが落ちても原発は暴走しないだろうが、しかし万一のことが起こったらどうしよう――ということなのだが、しかし3・11を経た今の我々には、ヘリが落ちても大丈夫とはとても思えないだろう。ニュースで原発の危機を知ってもエアコンが停められたことくらいしか気にしない人もいて、我々の原発をめぐる意識が決定的に変化したことを思い知らされる。しかしそういった不満が出るのも、原発の危機の際のシミュレーションがしっかりしていたために、今見ると「普通」になってしまったためともいえる。そこは作家の力量を示すものである。

 エンタテイメントとしては、犯人との真っ向からの頭脳戦というより、犯人の過去や家族、恋人などから絡め手で攻めていく感じで、個人的にはちょっと期待外れ。最初に子どもが一人ヘリに乗ったまま上昇してしまうというハプニングは、解説の真保裕一はラストにも効いていると絶賛しているが、それがあの写真のことを言っているのだとしたらとてもそうは思えず、いっそもう少し子どもを活躍させてもよかったのではないか。どうも女性や子どもが男の都合の犠牲になっている印象があった。

 

ソルジェニーツィン煉獄のなかで 上・下』(木村浩・松永緑彌訳、新潮文庫、1972年、原著1955~1964年)A

 煉獄というのは、天国と地獄の間にあり、魂を清めるところらしい。「煉」という字から勝手に地獄のもっと苦しいところを想像していたのだが違った。原題はThe First Circle(第一圏)となっており、ダンテの神曲に由来しているそうで、訳者が理解しやすいタイトルに苦心したことがあとがきで述べられている。

 ソルジェニーツィンを初めて読んだのだが、意外に面白かった。小説というより、あたかもソ連社会の百科事典的な趣である。作中で流れる時間はたったの4日間――1949年12月24日から27日という、スターリン時代末期のクリスマスである。その間のあらゆる階層の人間模様が、1000ページもかけて描かれる。

 一応中心になるのは、ソ連で進められていた極秘の研究――人の声の録音データからそれが誰の発言か特定する「声紋法」などと呼ばれる理論――その研究部署がろくに成果を挙げられないまま存続も図るも遂には解体されるまでの物語であり、そしてその部署の調査対象となったある外交官が順調な日々から一転して逮捕されるまでの物語であるという大枠はあるのだが、とにかくそこに至るまで、彼らの同僚や家族、そのまた同僚や家族、部下や上司のそのまた部下や上司といった具合に、章ごとに連鎖的に中心人物が移っていき、収容所、政府、市民社会に至るまでのあらゆる階層にわたってスターリン体制下の社会生活が浮かび上がってくる。

 そこで描かれるのは、体制にがんじがらめになりながら、与えられた環境の中でせめてもの生の楽しみを見出そうとする哀れな人々である。その息詰まるような社会は誰かが意志を持って操っているのでもない。誰もが自分の職分を全うしようとするだけである。頂点にいるはずのスターリンでさえ、もはやボケかけた老人に過ぎず、勢いで書いた論文はともすれば共産主義の思想から逸脱してしまう有様である。

 ソルジェニーツィンは、収容所で無気力に生きてきた人々がせめてもの抵抗を試みて敗北していくドラマを、四日間に凝縮して描いている。彼らの心が折られていく顛末がいちいち皮肉に満ちていて、おかしくも哀しいエピソードの集積となっている。特にラスト、他の収容所に移送される際に乗せられるトラックが、食料用の車に偽装されているせいで、それが街を走っているのを見た外国の特派員が「国内の食糧事情は良好」とレポートするのは、ブラックなユーモアに静かな怒りを感じた。

 この作品を論じた論文を探すとポリフォニーから語っているものが多いのもむべなるかな(作中で鍵になるのが、盗聴した「声」から発言者を特定する研究というのも符合していて面白い)といったところ。個人的には繰り出されるエピソードの集積で世界が浮かび上がってくる構成は井上ひさしを連想した。ロシア文学愛好は語っていたことでもあるし、実はかなり影響を受けているのではないかと思ったりするのだが、ソルジェニーツィンについては語っていたかどうか。遺作となった作品の一つ『一週間』が日本人捕虜収容所が舞台だったのを考えあわえて気になった。

奈良本辰也『もう一つの維新』A、藤本ひとみ『聖戦ヴァンデ』上・下 A

【最近読んだ本】

奈良本辰也『もう一つの維新』(徳間文庫、1985年、単行本1974年新潮社)A

 尊王と佐幕、攘夷と開国の対立を乗り越えるヴィジョンをもった「航海遠略策」を提出し、一時は幕末の政局を主導するかに思われた長州藩重臣長井雅楽の一瞬の栄光と没落を描く。

 わずか一年で失脚したとはいえ、普通の小説だと数行で済まされることを350ページくらいかけて書いているので、ほとんど日単位で目まぐるしく移り変わる情勢が描かれ、正直途中で追いきれなくなってしまった。ただただ些細なすれ違いやタイミングの悪さ、言いがかりに近い非難から最悪の状況に追い込まれていく様は、何か手品でも見ているようである。

 久坂玄瑞周布政之助らが(珍しく)悪役となり、安政の大獄吉田松陰を見殺しにしたことへの復讐として追い落としたという筋が中心になっているが、藩の外でも島津久光の上洛や寺田屋事件へといたる不穏な情勢下で、佐幕と尊王の複雑な勢力争いが繰り広げられており、長井もまたそれに翻弄された面が大きいようである。久坂たちも陰謀で長井を追い落としたよりは、苦し紛れに出した非難がタイミングよくはまってしまった印象。

 しかし「航海遠略策の建白書に朝廷を侮辱する文言があったらしい」という誰も根拠を示せない中傷から長井の失脚と切腹まで行くとは、現代の風刺のようでもあり恐ろしいが、長井自身は個人的には松陰らに悪感情は抱いておらず、ただ松陰を江戸に送ることを伝える使者になったことで恨まれたというのがそもそもの悲劇の発端になっているあたり、史料に基づきながら悲劇を構築する歴史家と小説家の才が存分に発揮された隠れた力作といえる。

 

藤本ひとみ『聖戦ヴァンデ』上・下(角川文庫、2000年、単行本1997年)A

 『もう一つの維新』が明治維新の暗部とすれば、こちらはフランス革命の暗部。革命勃発後、革命軍に追われる王党派貴族は、宗教を禁じられ反発する農民たちを糾合してヴァンデ地方で反乱を起こす。最初は優勢に戦いを進めていた王党軍は人望篤いリーダーの不慮の死をきっかけに劣勢となり、数万の勢力はやがて全滅への一途をたどることになる。革命軍は貴族も農民も容赦なく虐殺し、この事件は指揮官の暴走として歴史の闇に葬られることになる。

 バスティーユ牢獄襲撃事件を起点に、貴族の青年と平民の少年が、やがて反乱軍の指導者と革命軍の指揮官としてクライマックスで対峙し、見下す側が追われる側に、足蹴にされていた側が追う側に転じる――という「本筋」がどうでもよくなるくらいに、壮大なスケールの群像劇が描かれる。時として主人公のようになるロベスピエールをはじめ、その崇拝者のサン=ジュストら国民公会メンバー、一方の反乱軍の歴代司令官やその仲間、彼らと袂を分かち独自の戦いを続ける者、一時的に支援者となる忍者みたいなふくろう党など、実在の人物も多数まじえて描かれ、ヴァンデ反乱に物語を制限した関係でその後の運命が描かれない者も多数いるが、それぞれに鮮烈な印象を残す。

 また印象に残るのがフランスの地理的なスケールの大きさで、どうしても明治初期の士族反乱と比較してしまう。日本では蜂起後は数日ももたずに鎮圧され首謀者は逃亡を図ってもすぐに逮捕・処刑となってしまうのに、フランスでは怪我さえしなければどこまでも逃げ続け、各地の反乱勢力や外国の援助のもと何度でも盛り返す。江藤新平前原一誠がもっと広大な国で反乱を起こしていたら……まああまり変わらなかったかもしれないが。

 しかし読んでいて思うのが、ロベスピエールの描き方の難しさである。本書では徹底した虐殺を指揮したのはロベスピエール自身ではなく、ロベスピエールを崇拝する(おそらく架空の)少年指揮官の独断専行というワンクッションが置かれる。彼は最後に虐殺の罪の責任を負って切り捨てられ、ロベスピエール本人が指揮していたらどうなっていたかは曖昧にされる。思えば長谷川哲也の『ナポレオン』でも、ロベスピエールは非情な政策を断行しつつ裏では「これも革命のためだ」とナイーブに傷つく姿がいちいち描かれ、言い訳がましく感じた。「正義」の立場だった人物の悪行を描くのは藤本ひとみでさえもどうしても腰が引けて見えるというのは、日本では西郷隆盛西南戦争をどう描くかという問題にも通じるものかもしれない。