DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

二階堂黎人『聖アウスラ修道院の惨劇』B+、梅原克文『サイファイ・ムーン』B

【最近読んだ本】

二階堂黎人『聖アウスラ修道院の惨劇』(講談社文庫、1996年、単行本1993年)B+

 実は二階堂黎人を初めて読んだ気がするのだが、予想していたより面白かった。これは日本で宗教ミステリを試みた、稀有な例である。野尻湖畔にある日本とは思えないような修道院を舞台に、明らかに『薔薇の名前』やゴシック小説を意識した道具立てで、正直なところ暗号や殺人トリックといったところは身を入れて読んでいなかったが、最後に明かされた修道院の秘密は日本ならではのもので、全部持っていかれた感じがある。

 不満をいえば探偵である二階堂蘭子・黎人コンビのキャラクターがよくわからず、ただの説明役にしかなっていない感じがあったが、これは第一作を読んでいなかったためということか。600ページの厚さをものともしないリーダビリティで、作者の力量を十分に示すものである。あの『人狼城の恐怖』もいずれ挑戦したいものだ。

 

梅原克文サイファイ・ムーン』(集英社、2001年)B

 かつてSFからサイファイというジャンル名を主張した梅原克文の中短編集。偏愛する作品にXファイルが挙げられているように、都市で起こる超常現象や怪奇事件を解き明かしていくホラー的な話が主。ただ、その「解明」のために持ってくるのがニューエイジ・サイエンスだったり梅原猛だったりして、多分当時でも「新しいSF小説」というよりは昔懐かしいガジェットを駆使した佳作というところだったのではないか。論争的な面は触れないで楽しんで読みたい作品である。

今邑彩『そして誰もいなくなる』B、辻仁成『海峡の光』B

【最近読んだ本】

今邑彩『そして誰もいなくなる』(中公文庫、2010年、単行本1996年)B

 名門女子高で、演劇部の生徒たちが『そして誰もいなくなった』になぞらえるように次々に殺されていき、殺された生徒たちがそれぞれに犯していた「罪」が明らかになっていく。人の心のいやな面を暴きだしていくのがこの作者の本領と思うが、ちょっとキャラが多すぎて、どれも好感を抱くほどでもなく、二転三転する真相や若者たちの独善的な「正義」といった要素もそれほど楽しめなかった。作中に「青酸カリを注射して殺す」というシーンがあるが、実際はそれでは死なないということがあとがきで書かれていて、そこは面白い。

 

辻仁成『海峡の光』(新潮文庫、2000年、単行本1997年)B

 芥川賞受賞作だが、それほど面白いとは思えない。陰険なエゴイストの顔を優等生の仮面に隠した偽善者と、彼に一か月間激しいイジメに遭っていた男が、囚人と看守という立場で再会する、という設定は面白いものの、ものすごく意外な事件が起こるわけでもなく、どこかで見たようなお話の範囲内で終わってしまう。やや期待外れである。

 ただ、看守たる主人公が、彼は自分のことに気付いているのだろうかとやきもきしている一方で、立場が逆転した囚人たる彼は、その皮肉を気付いてもたいして気にしてもいなかったらしいというすれ違いが最後に示される。そこに、いじめられっ子は人生をイジメの記憶に支配されているのに、いじめっ子にとっては人生の些末な一エピソードにすぎないという非対称性がリアルに示されているように思った。

機本伸司『メシアの処方箋』A、邦光史郎『源九郎義経』B

【最近読んだ本】

機本伸司『メシアの処方箋』(ハルキ文庫、2007年、単行本2004年)A

 SFというジャンルのひとつの極北と言えるかもしれない。

 「技術的に可能だからやる」というSFのひとつの原則をつきつめた、読者をも置いてきぼりの思考実験小説である。

(以下ネタバレ)

 ヒマラヤの氷河湖の中から古代の「方舟らしき構造物」が発見されるという伝奇SF系の出だしから、中から発見された木簡を解読して「これは「神」のDNAデータなのでは?」ということが判明するまで知的な雰囲気で読ませるが、そこから一気に「ではそのDNAを持った生物をつくろう」となって、代理母を募集し、読者おいてきぼりで生命倫理無視のデザイナーチャイルド作成プロジェクトが進行していく。やがて生まれた子どもは観音像のような複数の腕をもち、不思議な力で周囲にいる人々を癒していくが、その子どもを狙って各国の組織が暗闘をはじめる。

 90年代に書かれていれば、スピリチュアルな人類進化のビジョンまで行っただろうが、その夢から覚めたゼロ年代において、こういう物語を書くことの難しさを感じさせる、意外に常識的な終わり方を見せる。やっていることはめちゃくちゃであったかもしれないが、読後感はけして悪くない。

 解説は中村桂子。ごく普通のあらすじ解説にとどまっており、もっとSFの歴史から語れるようなものが読みたかったものである。

 

邦光史郎『源九郎義経』(上下巻、徳間文庫、1986年、単行本1980年)B

 上下巻、ほぼ1000ページの堂々たる大長編である。さぞ源平合戦の模様が微に入り細を穿って描かれているのかと思いきや、そうではない。上巻の終わりでようやく頼朝と義経が再会し、義経の伝説的な活躍はその後である。連載は9年かかったというが、つまり5年目くらいでようやく人が期待する「義経」らしくなってきたわけで、連載で追っていた人は大変だっただろう。

 では上巻ではなにが書かれているのかというと、そもそもの頼朝兄弟の運命の出発点である、平清盛源義朝信西たちの戦い、そしてそれによる子どもたちの運命の流転がことこまかに描かれている。さらに、鞍馬山で成長した義経が山を脱出して平泉に到達するまでに、人買いに騙されて奴隷の境遇に身を落とすというオリジナルエピソードがながながと挿入されている。

 お遊びのようでいて、このエピソードが果す役割は大きい。頼朝にせよ義経にせよ、よく描かれるように心を人間不信にむしばまれており、それが兄弟の悲劇や幕府内の内紛へとつながっていく。頼朝は平氏系である北条氏や三浦氏の協力を得ながら源氏の人間として生きていく孤独が何度も語られ、義経もまた、頼朝の第一印象をかつての人買いとだぶらせたことで不信を覚えながらも付き従い、しかしあくまで家臣としての扱いであることに徐々に不満を覚えていく。この辺、あちこちに後の悲劇の伏線が張ってあって、さすがにベテランというところである。

 木曽義仲など敵側の悲劇もしっかり描かれ、十分に楽しめるが、しかしいかんせん義経はかなり中途半端な時期に、しかも辺境の地で死んでしまうため、源平時代を見渡すにはものたりない。鎌倉時代全体をカバーした小説は書いていないのだろうか?

島田雅彦『カオスの娘 シャーマン探偵ナルコ』B、野城亮『ハラサキ』B

【最近読んだ本】

島田雅彦『カオスの娘 シャーマン探偵ナルコ』(集英社、2007年)B

 シャーマンとしての力を持ち現代に生きる少年が、凶悪な犯罪の犠牲んになって、自身もまた凶悪な犯罪者となった少女を助けるべく、巨大な悪と自身の運命に立ち向かうスピリチュアル・ミステリー。

 正直なところ、島田雅彦が書いたということでもなければ注目もされなかっただろう。ラノベやミステリでよくみるような道具立てで、なんとなく中沢新一の影響を受けていそうなシャーマン論が展開され、一応テロをしたり風俗の話が出たりというところで政治や経済みたいなお話が入るあたりに、大江や石原に通じる文学っぽさが出ていないこともない。しかしそれほど頭に残るものでもない。続きもあるようだがどうしようか。

 しかしいつも、島田雅彦は小説の装丁がカッコいい。毎回期待してしまうのだ。

 

野城亮『ハラサキ』(角川ホラー文庫、年)B

 読んでみて驚いたのだが、妙にゲームっぽい。見知らぬ町に降り立った女性が、誰もいない町を探索し、死体や謎のメモなどを見つけ、怪異に襲われて逃げるうちに、少しずつ町にひそむ恐怖に近づいていく。別に小説にだってそういう話はないわけではないが、読んでいるとやはり、ゲームのほんの序盤、どういう性格のゲームかもわからないまま、手探りで周囲を探索していく様を、文章で見せられている気がしてならなかった。実際、アマゾンレビューで見ても「『サイレントヒル』っぽい」という感想が多く、まあ誰もが考えることのようだ。

 話は、幸せな結婚を前にした女性が、自身の暗い過去を乗り越えていこうとする物語、と言えるだろうが、ホラー小説大賞読者賞を受賞しただけあって、読み手を引っ張っていく謎をが散りばめてあって楽しめる。主人公が記憶喪失で、乗り越えるべき過去がなんなのか思い出せないという設定は、読者と同じ立場に置くための仕掛けと見せかけて、明かされる真相にそれなりにかかわってもいる。最後に、順当に終わると見せかけてひっくり返されるところも良い。

 作者も書きたいものは書き尽くしてしまったのか、これ一作で沈黙したようである。

周木律『眼球堂の殺人』B、マシュー・メイザー『サイバーストーム 隔離都市(上・下)』B

【最近読んだ本】

周木律『眼球堂の殺人』(講談社文庫、2016年、単行本2013年)B

 新本格の王道である館もの。面白かったのだが、放浪の数学者という主人公にあまり魅力がなく、館も見た印象がなんだかスカスカな感じで、圧倒的な存在感というものがなく、ちょっと物足りない感じ。しかし怖いほどの読みやすさでどんどん進んでいけた。

 

マシュー・メイザー『サイバーストーム 隔離都市(上・下)』(林香織訳、ハヤカワ文庫、2018年)B

 ある日突然、全米のネットサーバーが大規模なサイバー攻撃を受け、次々にダウンする。コンピュータの制御に依存していた現代都市のインフラはあっという間に機能を喪失し、マンハッタンの住人たちは交通やガス、電気、水道を絶たれる。時はクリスマスを控えた12月23日、マンハッタンを記録的な大寒波が襲い、雪に埋まった都市で人々の生き残りを賭けた戦いが始まる。

 マンハッタンのマンションに住む主人公は、小さな子どもと妊娠した妻を抱え、友人や隣人たちと力を合わせて乗り切ろうとするが、飢餓と疫病、いつ終わるとも知れない都市機能の麻痺から、人々は暴徒化し、やがて殺し合いから人肉食にまで走る人間が出て来る。マンションで持ちこたえるのは限界と見た主人公たちは脱出してワシントンを目指すが、そこで見たのは中国軍に占拠されたらしき政府であった――

 特色としては、最初から最後まで庶民の目から描かれているということだろう。こういったテーマの小説として(寒波ではなく地球寒冷化だが)邦光史郎の『大氷結』や眉村卓福島正実の『飢餓列島』などが思い浮かぶが、これらは政府の立場から、俯瞰的な視点が語られていた。本作では、右往左往する人々からの視線しかないから、今まで書いたあらすじにも、状況をわかっていないがゆえの主人公の勘違いが含まれている。読者も主人公の目を通して世界を理解するしかないあたり、リアルである。

 こういう災害小説の読みどころは読んでいる間の閉塞感で、どこにいっても逃げ場のない、「もう飽きたからやめる」ということができない恐怖が募ってくる。ワシントンに向かった主人公が雪のないところに行きついたときは心底ほっとしたし、一方で主人公は暴徒に襲われたときに既に死んでいて、途中からすべて死にかけた彼の夢にすぎないのではないかという恐怖に囚われ続けていた。幸い、訳されてはいないものの続編もあるようで、とりあえず主人公たちは無事に生き延びたらしい。

 しかしこの小説、表紙はマンハッタンの夜景らしき写真なのだが、これは間違いだろう。雪に覆われた都市にすべきだったと思う。

ブレイク・クラウチ『パインズ 美しい地獄』B+、今村昌弘『屍人荘の殺人』A

【最近読んだ本】

ブレイク・クラウチ『パインズ 美しい地獄』(東野さやか訳、ハヤカワ文庫、2014年)B+

 ある男が路上で目覚めるところから始まる。彼は記憶を失った状態でふらふら歩きだすが、やがて自分がシークレットサービスの特別捜査官であること、失踪した同僚を追ってある街に潜入したところで事故に巻きこまれたことを思い出す。外界からの連絡手段を絶たれ、街の住民も彼に不自然な態度をとるなかで、彼は事件の真相と街からの脱出手段をもとめて彷徨する。

 シャマランがドラマ化した小説で、原作からシャマランらしい、という評価を見ていたが、確かにシャマランらしい。それがどこかというと、自己のアイデンティティを求めてさまようというカフカ的な悪夢世界よりも、動ける程度に傷だらけでずたぼろになって、頭痛に苛まれながら、人々の冷たい仕打ちに堪えつつ街をさまようところが、シャマランらしいような気がする。特にずっと頭痛に苛まれているところがとてもシャマランぽい。この彷徨が執拗に描かれる間、主人公のいらだちが伝わってきてとても良いのである。

 明かされる真相は賛否両論で、どちらかというと不評な感じであるが、期待値を下げて読むとそんなに悪くはない。むしろ、『進撃の巨人』のようにネタが割れてからが本領発揮になるか、それとも『約束のネバーランド』のように失速するかが注目だろう。

 

 

今村昌弘『屍人荘の殺人』(創元推理文庫、2019年、単行本2017年)A

 まったく内容を知らずに読んで、こんな話だったのか、と驚いた。ミステリ研究会に背を向けてミステリ愛好会をつくった探偵志望の変人と、それに入ってしまったワトソン的立ち位置の若者が、こちらは既にプロの探偵のようにいくつも事件を解決している女性の先輩に誘われ、不穏な気配のある映画研究会の合宿に参加する――という、まあ青春ミステリらしい発端から、ある事件が起こって物語が一変する。

 これはやはり、何も知らずに読んでこそ楽しめるというものだろう。

(以下ネタバレ)

 むかし映画版の予告編を見たことがあるが、いかにネタバレをせずに見どころのシーンをもってくるかにかなり気を遣っていたかがわかって、そこに感心した。

 ゾンビの襲来、探偵の死と、定石を外す展開の連続で前半は息つく暇を与えず、その後は本格物としてちゃんと終わるところもすごい。ただ個人的には本格物の宿命として、不合理なはずの人間の感情まで次々と論理的に説明されてしまうので、明かされる世界がやや小ぢんまりとしてしまう気がする。あとは、みんな状況への適応が速すぎるというか、ゾンビというものの性質への理解がありすぎる気がするのも、まあゾンビものへの批評的な視点といってしまえばそれまでかもしれないが、やや素直すぎるのでは?とも思った。

 これが出たときに読者がみんな考えたのは、これは続編が出るのか?ということだろうが、一年以上の間をおいているとはいえ既に3作まで出ている。ミステリとして続くのか、それともパニックものや謀略ものに比重が移っていくのか、気になるところだ。

 

井上夢人『オルファクトグラム(上・下)』A、カザケービチ『青いノート』B+

【最近読んだ本】

井上夢人『オルファクトグラム(上・下)』(講談社文庫、2005年、単行本2001年)A

 これは絶対に面白いと思って、万全のコンディションのときに読もうと思いつつ、機会を得ずに15年くらい積んだままになっていた本を、ようやく読んだ。

 そして、やはり面白かった。もっと若いころに読んでいれば、1、2週間はこれのことばかり考えていただろう。ある若者が事故にあったことをきっかけに異常なレベルの嗅覚に目覚めるという話は、嗅覚を文章で表現するのが難しいのは誰でも考えることだが、嗅覚を視覚に変換して知覚するというアイデアによって、よりイメージしやすく、かつ新鮮なものになっている。

 1000ページ近い文庫本の大半がその能力の「説明」に費やされて、そのせいでサスペンス・ストーリーや謎解きがやや弱くなってはいるが、この特異な世界観を楽しむのが主目的だろう。

 

カザケービチ『青いノート』(西本昭治訳、新日本新書、1964年、原著1961年)B+

 時は1917年7月、長い亡命からロシアへと帰還したレーニンが、激しい政治活動の末に敗れて再び逃亡し、フィンランド国境近くの湿地帯に草刈り人夫に変装して潜伏していた時期を描いた小説である。彼はこのあとすぐに復活して10月革命となるわけで、激動の時代のつかのまの小康期間にあたる。

 実際に彼をかくまった農民、首都のボリシェヴィキとの連絡員など、実在の人物が多数出ており、中でもレーニンに付き従うジノビエフが、レーニンに心酔しながらも未来が不安でならずおろおろする若者として描かれていて、なにやら萌えキャラめいている。その愛はときに重すぎて、

 彼(ジノビエフ)は、レーニンにたいして、ほとんど女のような、嫉妬にみちた、自分かってで打算的でもある愛情をいだいていた。レーニンのほうは、自分ではそうした愛情をもたせているとは、つゆ思わなかった。彼はつねに、自分に示される献身を、党の根本方針にたいする献身として受けとっていた。(p.29)

 などと書かれる。一方のレーニンは、こちらは極限まで美化された英雄的革命家であり、連絡員たちの評によれば、

「彼(レーニン)はひかえめで、功名心をまったくもたない。これは、指導者としてはたいへんめずらしいね」とスベルドロフが往った。

「彼は、たいまつのように、清らかに輝きながら燃えている」とジェルジンスキーが言った。

「彼は、敵にはきびしい、しかしただ敵にたいしてだけだ」とジェルジンスキーが言った。(p.120)

 話はほとんど、革命の未来を自信をもって語るレーニンと彼を羨望するジノビエフ、そして女子供に至るまで、彼らをかくまうことで革命の理想を悟っていく農民たちの姿を描くことに費やされる。ケレンスキーカーメネフトロツキーといったおなじみの名前は、伝聞で出て来るのみである。

 実際に調べてみるとこのときレーニン44歳、ジノビエフ34歳で、それほど微笑ましい年齢でもないのだが、読んだだけではふたりとも20代の若き革命家といった風情に見える。

 それでも潜伏が長引けば、ジノビエフは精神の平衡を崩してレーニンに当たるようになり、レーニンも有望な弟子の豹変にショックを受けて次第に悲観的になる。隠れ家も政府の手が伸びて危険になり、次の潜伏先に向かうところで終わる。

 やや唐突ではあるが、これ無理もないことで、本当は続編の予定があったようなのだが、カザケービチがこのすぐ後に死んでしまったのでこれきりになってしまったらしい。生きていれば、レーニンの生涯を描いた大巨編になったのかもしれない。

 しかしそのおかげで、(そんな年齢ではないが)革命家たちの青春の一瞬を切り取ったような、忘れがたい一編となっている。