DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

神林長平『太陽の汗』B、北方謙三『楊家将』B+、 同『血涙』B

【最近読んだ本】

神林長平『太陽の汗』(ハヤカワ文庫、1990年、光文社文庫1985年)B

 久しぶりに読んだが、大学で翻訳論、コミュニケーション論、メディア論などを多少ともかじったのを踏まえて読むと、非常にわかりやすい。

 世界中にウィンカという情報収集機械によるネットワークが張り巡らされ、高性能な翻訳機で外国人とも容易に意思疎通な、世界にわからないことなどないような近未来で、ペルーに設置されたウィンカが破壊されたとの情報が入る。ジャーナリストと技師が調査のために現地に入るが、現地の軍にははぐらかされ、目的地も見つからない中、技師が熱に倒れ、いったい何が起こっているのか、現実と夢があいまいになっていく。

 映像が見ている現実と違い、翻訳機械も間違った情報を相手に伝えている――かもしれないとなったら、一体何を信じれば良いのか? という、メディア論的にはおなじみのテーマを、うまく小説の形に落とし込んでいる。優れたメディア論SFと見せながら、インカ帝国の亡霊がよみがえる幻想伝奇小説の趣もあって、一筋縄ではいかない。

 

北方謙三『楊家将(上・下)』(PHP文庫、2006年、単行本2003年)B+

同『新・楊家将 血涙(上・下)』(PHP文庫、2009年、単行本2006年)B

 中国では大人気だが日本ではほとんど知られていない『楊家将演義』なる小説があって、それは小説があまり面白くなくて、演劇の世界で有名だからということのようなのだが、それを北方謙三が大胆に翻案して「漢」の小説にしたのが本作。

 まずびっくりしたのが、兄弟の名前が、長男以外は二郎、三郎、四郎、五郎、六郎、七郎、八娘、九妹と続くので、なんとわかりやすいのだ、北方も大胆なものだと驚いたが、これは原典がすでにそうであるらしい。

 本作は、『楊家将』は良かったが、続編の『血涙』はダメだった。

 『楊家将』は有能ながら場所を得ずに非業の死をとげる楊業とその息子たちの物語であり、これは結末を知っていながら、自分の信じる道を突き進む楊業とそれぞれに個性を持ち成長していく兄弟の物語として興奮して読んだ。続編の『血涙』は、楊業以下一族と軍団が壊滅して2年後に、生き残った息子たちが再起をはかる話である。

 で、兄弟のうちで生き残った四郎は記憶喪失になり、敵軍の将として戦っているという設定なのである。遼でそれなりな地位を得た矢先に自身の素性を知って苦悩するのだが、このくだりはいかにもウソばなしという感じで、しらけてしまった。思えば『機動戦士ガンダム ORIGIN』も、キャスバルのそっくりさんのシャア・アズナブルが出てきたところで、あまりの陳腐さにがっかりしてしまったが、なんでこんな、つまらない設定にしてしまうのか。

 おかげで後半は話のほとんどが、楊家軍と遼に引き裂かれながら戦う四郎の苦悩に食われてしまった感じがある。

 そうはいっても、最後はやはり感動してしまったのだが。ほとんど会話ばかりで進むという、一見すると馬鹿にされそうな小説なのに、これだけ読ませるのはすごいものだ。

白河三兎『もしもし、還る』B、霞流一『災転』B

【最近読んだ本】

白河三兎『もしもし、還る』(集英社文庫、2013年)B

 ある青年がふとめざめると、砂漠のどまんなかにいた。ここはどこなのか、なぜこんなところにいるのか途方に暮れていると、空から電話ボックスが降ってくる。その電話は、試行錯誤の末に、海を漂うボートの上で目覚めたひとりの女性につながる。彼らはなんとかこの状況から抜け出そうとして、ここにくるまでのことを思い出していく。

 安部公房とか眉村卓とか、こういう不条理な始まりの話は昔は好きでよく読んだので、むしろ懐かしい気分で読みだしたが、確かに面白かったけどああいうのとはちょっと違う。

 昔の、おそらく実存主義的な文学の影響下で生まれたのであろう不条理小説群というのは、主人公はほぼ無個性である。星新一のエヌ氏のごとく、誰でも代入できそうな記号にすぎない人間が(そういう考え方は日本の男性中心の傲慢な見方とも言われそうだが、中学生の頃の自分でさえ、なんだか知らないが自分とは似ても似つかぬサラリーマンたちの不条理劇に「これは自分自身でもある」という感想をもったのだ)、なんとも説明のつかない事象に遭遇して、現実や自我の不確実性に直面していく。それは人生のある時期には救いでもあったのだ。

 本書はそういうものとは一線を画していて、主人公はこの人にしかできない。セックスフレンドな関係の女性がいたり、気の合わない上司がいたり、なにかわだかまりのある親や姉がいたり、そういうことが、砂漠のパートと回想のパートを交互にくりかえすことで明らかになっていく。

 その過程は確かにおもしろいのだけれど、自分が求めていたものとはちょっと違っていたのだった。

 

霞流一『災転』(角川ホラー文庫、2010年)B

 タイトルは「サイコロ」と読むのが気に入った。墓石がゴムのかたまりみたいにぐにゃりと曲がるという、奇妙な事件に始まるというので、これも不条理小説を期待して読みだしたが、ヤクザっぽい人たちが入れ替わり立ち代わり現れて、暴力でもってこの怪現象をどうにか理解のできるものに押し込めようとしてくる。ちょっと頭の悪い、あまり楽しくないどつきあいが続くので、はずれたかなと思ったが、だんだん彼らを翻弄するバケモノが見えてくると、面白くなっていく。

 カイジに出て来た金持ちがアブノーマルな見世物を楽しんでいるような、そんな舞台設定の中で、次々に異常性癖やそれに犠牲になった人々の物語が繰り出され、あくまでホラーの文脈ですべての現象が説明されて急にスケールの大きなオチがつく。

 いきなり人類が滅びるみたいな大風呂敷をひろげて終るのはあまり好きではないが、読んでいる間は予測不能なエログロ展開を楽しめる。

若木未生『われ清盛にあらず』B、デイヴィッド・ファインタック『銀河の荒鷲シーフォート 大いなる旅立ち(上・下)』B+

【最近読んだ本】

若木未生『われ清盛にあらず』(祥伝社、2020年)B

 アニメ『平家物語』は、源平合戦のなかで消えていった平氏の若者たちを、もう一度浮かび上がらせた。多くの物語で、清盛や頼朝たちの戦いのなかで右往左往するだけだった若者たちが、それぞれの志をもち、生きようとしていたことを、見るものに思い知らせたのだ。平氏政権が存続していれば、そうでなくても彼らが生きていれば、いったいどんな成果をこの世に残したか考えてしまうが、源平合戦はそれを暴力的に押し流してしまった。戦争はおおきな流れとして個人の夢などやすやすと呑み込んでしまう。

 若木未生の『われ清盛にあらず』は、平清盛の弟で、ナンバーツーの地位にありながら、決して兄に逆らわず、清盛死後は一門の都落ちから離れ、平氏滅亡後も生き延びた、平頼盛が主人公である。ビジュアルイメージとしては大河ドラマの『平清盛』が合いそうな感じで、保元の乱平治の乱あたりが手際よく語られていく。

 清盛と頼盛の関係に影を投げかけるのは、清盛と並びたち平氏棟梁の地位を望む位置にあった平家盛で、私生児の噂のある清盛と異なり間違いなく直系である彼が若くして謎の死を遂げたことから、清盛と頼盛の二人は、自分たちが彼を死なせたのではないか、彼が生きていればもっと違う未来がありえたのではないかという責を背負っていくことになる。それは頼朝が家盛に似ている(と他人に言われた)からという理由で助命したことで、彼らのみならず一族の運命を決定づけていくことになる。

 やや感傷的な文体ではあるが、源平合戦の裏面史として平家盛・頼盛に光を当てている点は面白い。家盛が内省的な人物で、兄弟仲良くすることを望みながらも家督も諦めきれないという複雑な心情を吐露するなど、若木未生らしい繊細な心理描写も良い。

 

デイヴィッド・ファインタック『銀河の荒鷲シーフォート 大いなる旅立ち(上・下)』(野田昌宏訳、ハヤカワ文庫、1996年)B+

 おもしろかったのだが、あまり積極的には認めたくない。

 それはこういう「体育会系のしごき」に拒否反応があるからなのだろう。ある種の人には、懐かしいものなのかもしれない。

 お話はスタンダードともいえる。遠い植民星をめざす宇宙船に乗り込む若き士官候補生シーフォートが、思わぬトラブルで上官が全滅したことによって、臨時の艦長として船を統率することになる。思えば機動戦士ガンダム佐藤大輔征途など、こういうパターンはいろいろ思いつくが、海外にもちゃんとあるということだ。で、若き士官候補生は、にわか艦長となってなんとか宇宙船の人々を統率しようとする。その苦労が延々と描かれる。おそらく実際の軍隊をモデルにしているのだろうが、上官には絶対服従、どれだけ理不尽な命令にも従い、従いますと宣誓しても信じてもらえずに無意味なトレーニングや掃除作業をいいというまで休みなくやらされるのである。

 もちろんそれだけでなく、なぜ上官がことごとく死んだのか、植民星で彼らを待ち受けるのは何なのかなど見せ場はあるのだが、しかし印象に残るのは異常なまでのしごきだろう。

 しかしこの話がすごいのは、開始時点で主人公は17歳なのである。日本でいえば高校2年、少年とも青年ともつかない年齢である。それが、オトナたちの中にあって、艦長として権力をふるう。なめられないために、一度死刑判決を下したら決して覆さずに死刑にしなければならない。普通に考えて、高校生がお前は死刑だと判決を下してほんとうにそうしたら、気が狂ったと思う以前に誰も耳を貸さないと思うのだが、軍隊という組織はそれを可能にするのである。

 本来はこういうものは嫌いなはずなのだが……そういって切り捨てきれないものがこの作品にはあった。

 しかしこの作品、異様に誤植が多い。下巻に入ってから目についただけでも、「かれの眼は期待と興奮に眼は輝いていた」(p.145)とか、「きみはあくまり質問をしすぎるぞ」(p.187)とか、「ニュ―ヨ―ク」(p.207:―がダッシュになっている)など、5か所以上ある。どうやら他の巻はもっとひどくなるらしく、なぜこんなことになったのか。

高橋直樹『天皇の刺客 曾我兄弟の密命』B、伊東潤『修羅の都』B

【最近読んだ本】

高橋直樹天皇の刺客 曾我兄弟の密命』(文春文庫、2009年、単行本2006年)B

 時は鎌倉時代、曾我兄弟は、父のカタキである工藤祐経を、源頼朝の主催した富士の巻狩りのさなかに討ち果たす。兄は倒され、弟は勢いにまかせて頼朝も討とうとして捕らえられる。頼朝は、敵討ちをする志を多としながらも、巻狩りの場を乱したことを咎めて彼を斬首する。しかしこの事件は、親孝行の手本、日本三大仇討の一つとして後世まで語り継がれることとなった。

 しかしこの事件には謎も多い。父のカタキを討つだけだったのがなぜ頼朝まで狙ったのか、なぜ兄弟は巻狩りの場に忍びこんで頼朝まで肉薄できたのか、その直後に起こっている源範頼らの粛清はこの事件と関係があるのか……

 本書はそういった疑問に新しい答えを与える、文庫にして460ページの力作……なのだが、曾我兄弟といわれても、そもそも定説を良く知らない。解説の井家上隆幸も、有名な事件とはいいつつも「講談本で親しんだ」と言っている程度なので、現代人になじみがないのも無理はない。なので、この「異説」を読んで、「定説」の方の曾我兄弟はよほど純粋な兄弟愛と復讐心に燃える人物だったに違いないと、さかのぼって考えるという転倒が起こってしまう。

 この小説はもうタイトルが潔いほどのネタバレで、曾我兄弟の仇討ちは実は天皇の命令で頼朝を暗殺しようとしたものだった、ということなのだが、そうすると問題は、坂東の取るに足りない武士にすぎなかった曾我兄弟と、京の天皇がどう結びつくのかというところになる。それが恐ろしく複雑な経路をたどるわけだが、これはまったくの妄想ではなく、『吾妻鏡』のここの行間を読むとここがこう結びついて、という「謎解き」を著者みずからがあとがきでしてくれている。創作の舞台裏を堂々と明かしているわけで、本編を読んだあとにこのあとがきを読むと、なかなか感動するものがある。ここはぜひ読んでほしい。

 しかし高橋直樹は曾我兄弟といえば誰でも知っているという自信がよほどあるのか、歴史背景の説明はあまり親切とはいえない。流人時代の頼朝が出てきたと思ったら、次の章では源平合戦をすっとばしてもう鎌倉殿になっているのは、曾我兄弟に関係する重要な事件だけ拾っていけばそうなるだろうが、しかしわかりにくい。(伊東)祐親と間違って殺された(河津)祐泰のカタキが(工藤)祐経というのもややこしい。なので、基礎知識はしっかり頭に入っているという状態でなければすらすら読むのは難しい。

 むしろ楽しみどころは、この時代の仕官のありかただろう。復讐の準備をすすめながらも、兄のほうはむしろなんとか身を立てたいとも考えている。そのためには、有力者の援助を受けねばならず、それにはまず存在を認識してもらうことが大事なので、たとえば弟の元服式のためにほうぼうを訪ねまわって幕府の要人に出席してもらうなどする。和田義盛は本作でも気の良い人で、来てくださいと頼めば何にでも来てくれるので、それで「和田様が来てくれるほどの大きな元服式なのにあなたは来ないのですか」などと遠まわしに脅して人を集める。それでなんとか幕府内での職を得られそうなところを、過去の因縁が邪魔して立ち消えになってがっかりするなど、仇討ちとは別に生きていく苦労が物悲しい。もちろんその背後では京と鎌倉の政治的な陰謀も進められ、決して無駄話ではない。

 また、高倉範季(源範頼を養育した他、頼朝と対立する義経を支援し、藤原秀衡の息子・高衡を保護するなど、時の権力者にことごとく逆らう行動を取りながらもしぶとく生き抜いた)や安田義定武田信義木曾義仲と同じく、頼朝とは別の独立勢力として挙兵し、後に頼朝に臣従するが、謀反の疑いで処刑された)など、やたらマイナーな人物が暗躍するのもマニアには面白いのだろうと思われる。

 高橋直樹は代表作の『虚空伝説』のように、「報われない死」を描くのがうまい。本当の目的を果せず意に反して英雄としてまつりあげられる曾我兄弟もまた、高橋直樹がとりあげるにふさわしい人間であったといえよう。

 

 

伊東潤『修羅の都』(文春文庫、2021年、単行本2018年)B

 話は、平家滅亡直後からはじまる。義経との対立や、奥州合戦、戦後の処理、後白河との対決、大姫の入内をめぐる駆け引きと死、畠山と和田の確執などが手際よく語られ、あたかも大河ドラマのダイジェストのようである。ただ校正が甘いのか、「義経は頼朝の意を察して官位や所領を返上し、謹慎などしなかった。」(p.54)など、一見して意味がとりにくい(義経の生涯を考えればどちらかはわかるが)文がところどころあったので少々読みにくいかもしれない。

 本作の源頼朝は坂東武者のなかにあって孤独な天才で、目先のことばかりにとらわれる鎌倉武士の中でただひとり、冷静に日本全体を見すえて行動しようとする。誰も自分を理解してくれない孤独に悩む頼朝は、少々鼻につく。しかしその中で、小物にすぎなかった北条義時が、頼朝の思考を読んで先回りしようとするこざかしいまでの存在として台頭してくることになるのも、大河ドラマを別の視点から見ているようである。

 が、3分の2を過ぎたあたりから、様相ががらりと変わる。

(以下ネタバレ)

 なんと頼朝が認知症になってしまうのである。なにしろ10歳近く上の北条時政がぴんぴんしているので、あまりの若さに驚いてしまうが、この時代の50代ならありえない話ではないのだろうか。以後、記憶力が減退し、運動能力が低下し、感情の抑制の利かなくなった頼朝の視点から、幕府内の混乱が語られる。ここからははっきりとホラーである。頼朝は先ほどまで話していた重大事をあっさり忘れ、めちゃくちゃな命令を下し、果ては政子のことさえも忘れてしまう。こんな状態の視点から語られるものだから、読者もいったい鎌倉幕府がどうなっているのかさっぱりわからず、ただただとりとめのない頼朝の思考を追うしかない。

 これはもう、新しい形の老人文学であるといって良いだろうし、たぐいまれなるホラー小説でもある。この二つが意外に近いのは、清水義範のホラー小説「靄の中の終章」が証明しているところであるが、歴史小説を読んでいてこんな恐怖を感じるとは思わなかった。最期は一時的に明晰になった頼朝が自ら死を選ぶが、まあ現実はこうはいかないのだよな。最後の最後でご都合主義が入って、そこは少し残念。

 

大仏次郎『源実朝』B+、ロバート・J・ソウヤー『フラッシュフォワード』B

【最近読んだ本】

大仏次郎源実朝』(徳間文庫、1997年、単行本1946年)B+

 鎌倉殿を見終えてから読もうと思っていたのだが、我慢できずに読んでしまった。今アマゾンで見ると3万円とおそろしく高値になっている。買っておいてよかった。

 調べてみると、大仏次郎が『源実朝』を刊行したのは1946年だが、連載は1942年9月に始まっている。そして、翌43年2月に小林秀雄が「無常ということ」の一編「実朝」の連載を開始、さらに9月に太宰治が『右大臣実朝』を書下ろしで刊行している。同時発生的に実朝に関する重要な文献が立て続けに出ているのは、大仏次郎に触発されてのことか、はたまた偶然によるものか、気になるところである。

 物語は畠山重忠の乱の直後からはじまり、北条時政を追放して鎌倉幕府の実権を握った北条義時と、若くして将軍となって思わぬ成長を見せる源実朝の、目に見えぬ駆け引きが主眼におかれる。

 三谷幸喜は、そして義時を演じる小栗旬も、本作をかなり参考にしているように見える。和田が乱を起こしたのを聞いた時に義時が囲碁を打っていたというのは、大河ドラマでもそういえばあった(小説では相手がいたようだが、大河ドラマではひとりで碁石を並べていたか)

 本作の義時は最初から老獪な政治家として現れ、幕府の実権を完全に掌握している。和田の乱で和田が意外に健闘したり、実朝が突然渡宋を企てたりと、多少は予想外のことも起こるが、別にうろたえるほどのこともなく、微苦笑を誘われる程度で落ち着いて対処してしまう。それはまさに、大河ドラマ北条時政を追放して以降の義時そのものである。

 めだった違いと言えば、本作には和田義盛の孫・朝盛が重要な人物として出てくる。この人は頼家・実朝に親しく仕え、実朝の親友ともいえる立場にあったが、和田と北条の板挟みになって出家してしまう。これにより実朝がさらに孤独を深めることともなるので、ドラマ向きのキャラクターといえそうだが、大河ドラマにはまったく出てこない。代わりに、本作にはまったく出てこない北条泰時が、実朝に思慕を寄せられる存在となり、おそらく次代の希望となるのである。

 義盛のキャラクターは、実朝が慕う老将という立場は同じであるが、あまりにまっすぐな彼の行動がかえって実朝を厄介な状況に追いこんでいくという皮肉が、やや意地悪に指摘されているのが、いかにも文学寄りの小説というところ。

 戦争で中断を余儀なくされ、実朝暗殺のくだりはやや駆け足になった感はあるが、実朝の和歌も織り込んで、若き将軍の孤独な生を描き出している佳品である。

 

ロバート・J・ソウヤーフラッシュフォワード』(内田昌之訳、ハヤカワ文庫、2001年、原著1999年)B

 だいぶ前にドラマ化した作品だが、内容は全然ちがうらしい。ドラマでは、世界中の人間が6か月後の未来を幻視する。原作であるこちらでは、見るのは20年後である。

 2009年の全世界の人間が20年後の未来を2分ほど見て、それによる社会への混乱が描き出されるというアイデアは面白いし、どんなストーリーが展開されるか予測できないだけに期待してしまう。しかしメインは、自分が婚約者と離婚する未来を見て結婚するか悩むとか、自分が20年後には殺されているらしいと知って真相を知ろうとあがくとか、小ぢんまりとした、個人的な物語に落ち着いてしまうところが物足りない。面白いことは面白いのだが、期待していたのはもっと壮大な物語であったはずだ。最後は確かにSFらしい壮大なヴィジョンが示されるが、そんなに感心するわけでもない。主人公の科学者が、どうも読者の心情に外れるような行動ばかり取るのも読んでいてストレスである(未来を変えられる可能性をどうしても認めようとしなかったり、再現実験がうまくいかなかったのにどうでもいいという顔だったり)

 ところどころ挿入される未来予測は面白いかもしれない。イギリスでは、エリザベス2世が2017年に91歳で亡くなり、息子のチャールズ(69歳)は激しく嘆き悲しみ、王位を継承しないことを宣言、その長男ウィリアムもまた王位を放棄し、イギリス議会が君主制の消滅を宣言する、などという話もあった。

 面白かったし不満もないけれど期待とはちょっと違ったという、少し困る話である。

町田康『ギケイキ 1・2』B+、ロバート・J・ソウヤー『ゴールデン・フリース』B+

【最近読んだ本】

町田康『ギケイキ 1・2』(河出書房新社、2016年~ )B+

 1巻の帯に「平家、マジでいってこます」などと書いてあるので、『義経記』にタイトルを借りた義経伝に過ぎないのではないかと思いつつ読んだら、ちゃんと『義経記』であった。河出文庫の『現代語訳 義経記』(高木卓訳)は、高橋克彦が解説を書いていて、町田康も当然これをおおいに参考にしたものと思われるわけだが、高橋によると、『義経記』は義経の伝記ではなく、「すでに英雄として定着していた義経を主人公に据えたスケールの大きい、波乱万丈な逃亡劇なのである」。「英雄の逃亡劇に主眼を置いた物語」であるがゆえに、義経の華々しい時代はほとんど描かれない。源平合戦も、平泉での終焉もさらっと済ませてしまう。

 本書もそれを守って、華々しい源平合戦の話は2巻のはじめに10ページかそこらで終わり、その後は流転の日々が延々と描かれる。たしかどこかで全4巻の構想という話を読んだから、全体のほぼ4分の3が義経の逃避行にあてられることになる。1巻は幼少期から頼朝のもとに参上するまでが描かれ、2巻はほぼ土佐坊昌俊による義経邸襲撃と熾烈な撃退戦が大半を占め、そのあと都落ちして西へ行き、静御前義経一行から離脱して捕らえられたところまでで終わっている。

 たいていの物語だと、都落ちしてまっすぐ藤原秀衡のもとに向かったみたいに描かれるが、本当は九州に本拠地を築いて、鎌倉の頼朝を秀衡と義経が東西から挟みこんで睨みをきかすという支配体制を構想していた(かもしれない)ことが詳しく語られる。結局それは、嵐で船が難破したために果たせないのだが。それまでは、後白河法皇から頼朝追討の命令も受けていたし、都ではそれなりに人気もあったし、藤原秀衡も味方についていたしで、頼朝とは五分五分だったはずなのだが、嵐による壊滅的な被害を機に、勢力差は圧倒的に不利になる。

 考えてみれば海から日本史を見ると、人間よりも天候が大きな運として作用してくることが実に多い。特に調べずに思い出せるだけでも、榎本武揚の艦隊は五稜郭に着く前に嵐で相当のダメージを受けているし、坂本龍馬の仲間だった近藤長次郎龍馬伝大泉洋が演じた)は密航を嵐に阻まれて切腹し、萩の乱前原一誠は船で東京を目指したがやはり嵐に阻まれて果たせなかったなど、明治の世に至るまで天候は大きく歴史を動かしている。逆に元寇では嵐が日本を救う形になったが、元軍からしてみればとんだ災難だっただろう。『鎌倉殿の13人』では、鎌倉を海から奇襲する作戦を義経が嬉々として述べ、それを梶原景時が讃嘆していたが、いくら鎌倉が油断していても、嵐が来たら戦うどころか頼朝の手を労せずに義経もろとも船団は全滅していたわけで、言うほど確実な作戦ではない。そのモデルになったであろう、小栗上野介江戸湾からの艦隊による政府軍攻撃案も、当時の明治政府首脳はもし実行されていたらと肝を冷やしたというが、これも実際は天候ひとつでどうなっていたかわからない。

 義経は九州王国の樹立という、南北朝時代懐良親王の先取りのような夢を持ちながらも、嵐に阻まれて果たせなかった。後の歴史を知りながらも、義経が西に向かうあいだは、もしかしたらこのままうまく行ってしまうのではないか、とちょっとでも思わせる手腕はすごいものだ。恐らく3巻と4巻をかけてじっくりと平泉への道行を描くのだろうが、この密度で進むならば、本当に4巻で終わるのか怪しいものだ。できれば、秀衡に比べていまいち精彩を欠く泰衡は詳しく描いてほしいが、義経記である以上望めないだろうか。

 独特な文体になれるまでに時間がかかるが、慣れると楽しい。もともとのファンであればすっと入っていけたのかもしれない。

 

ロバート・J・ソウヤー『ゴールデン・フリース』(ハヤカワ文庫、1992年、原著1990年)B+

 SFと見せかけてミステリ、と見せかけてやはりSF、という話だった。

 舞台は47光年先にある入植可能な惑星を目指して旅する宇宙船アルゴ。1万人が暮らしているその宇宙船は、高性能の人工知能「イアソン」により安定が保たれている。だがそのコンピュータは実は自律した思考をもち、人類に気づかれぬまま、宇宙船を制御下においていた。人類は、イアソンがひそかに進めている計画にも気づかずに平和な日々を送っている。

 しかしある日、乗組員のひとりが、その「陰謀」に気づく。イアソンは真相を知ったら人類に巻き起こるであろう混乱を防ぐために、その乗組員を自殺に偽装して殺してしまうが、他の乗組員が事件に不審を持ったことをきっかけとして、人類社会を揺るがす恐るべき真実が明らかになっていく。

 万能コンピュータたるイアソンが犯人で語り手の倒叙ミステリ、というなかなかないアイデアである。この、ほぼ万能のコンピュータの視点からの描写というのがとても面白い。コンピュータは、宇宙船中に張り巡らされたカメラとセンサーで乗組員の行動や身体の状態を把握し、ほとんど三人称の「神の目」に近いものを持っている。しかし、あくまで人間の外から見た様子しかわからないから、内心で何を考えているのかはわからない。だからこのイアソンは、乗組員のデータをコンピュータの内部に再構成して、彼が何を考えているのか、これからどういう判断をするのかをトレースしていく。このあたり、人間の目を盗んで進行していくのがとてもスリリングである。イアソンはまた、感情も持っている風に描かれ、全体にユーモアが漂っている。

 この万能コンピュータの目をかいくぐって主人公が真相に気づきはじめ、機械と人類の高度な知能戦が繰り広げられる――に違いないと思ったのだが、真相は最後のほうで、ちょっとした手掛かりから一気に明かされてしまう。明かされる真相自体はSFらしいスケールの大きなもので、今まで前提となっていた世界観が全部ひっくりかえるくらいのものなのだが、少々肩透かしではある。だから、SFとして始まり、緊迫感のあるミステリが続き、最後はスケールの大きなSFに戻る、ということになる。予想と期待を裏切られる点に好き嫌いはあるが、退屈はしない。

 読んでいてちょっともどかしいのが、コンピュータが直接人間を殺す手段をもたないことで、どうやっても死ぬしかない状況に追いこむという形を取ることしかできないらしい。まあ、そうでもなければ、とてもではないが人類に勝ち目はなかっただろうが、なぜここまで高性能なコンピュータが人を直接殺す手段を持っていないかについては説明が欲しかった。人類に隠して武器を配備するくらいのことはできそうではないか。それに、ひとりに集中していたせいで他の監視がおろそかになってヘマをする、というパターンも見られて、コンピュータにしてはお粗末なところも多い。

 とはいえユーモアと緊張感が両立しており、書かれた年代を考えれば意外に古びていない、佳品である。

高橋克彦『時宗 全4巻』B、マイク・レズニック『第二の接触』A

【最近読んだ本】
高橋克彦時宗 全4巻』(講談社文庫、2003年、単行本2000年~2001年)B
 『時宗』とはいいながら、北条時宗はなかなか生まれない。話は1246年、時宗の父・時頼が、病床の兄・経時から19歳で執権職を譲られるところから始まる。北条政子の死(1225年)からは既に21年経っており、三浦義村の死は1239年、北条時房は1240年、北条泰時は1242年に相次いで死去と、『鎌倉殿の13人』の主要人物が軒並み死んで少し経った頃である。大河ドラマが義時の死(1224年)で終わるならば、間に一世代おいたくらいだろうか。最初に北条家の複雑な勢力図が語られるあたりは、『鎌倉殿』を見た後ならだいぶわかりやすい。
 執権になった時頼は、若いながらも冷静な策士ぶりを発揮し、鎌倉の内紛を次々に制していく。『鎌倉殿』における陰惨な権力闘争はこの時代においても健在であり、北条氏と並ぶ権勢を誇った三浦氏は、三浦義村の死後10年を待たずに滅ぼされてしまう。このあたりのあっけなさは、まさに『鎌倉殿』から地続きの世界であることを実感させる。
 とはいえこのあと鎌倉は一時的に安定期に入り、その中で北条時輔北条時宗が生まれるのである。
 大河ドラマとの大きな違いは、時輔と時宗の兄弟が最後まで仲が良いことである。それどころか、本作では時輔が討たれた二月騒動とは、彼が表舞台から姿を隠すための大芝居であり、その後は鎌倉から離れられない時宗の分身として、博多で蒙古軍を迎え撃つ指揮をとる。ほとんど架空戦記のような大胆な設定だ。その他、北条長時北条政村も大河と異なりさしたるトラブルもなく姿を消し、いったいどのあたりに原作らしさが残っているのかわからない。
 クライマックスはもちろん文永の役弘安の役なのだが、これも大河ドラマとはずいぶん違う。文永の役で指揮を取る時輔は、あえて敵の上陸を許し、博多までおびき寄せたところで一網打尽に殲滅するという作戦をとる。そのための偽装の退却は、演技と悟らせないため文字通りの捨て身であり、ここの描写は熾烈を極める。だが敵は案に相違して中途半端なところで退却してしまい、ほぼ無駄死にとなる。そして再びの弘安の役は、敵の内部分裂や嵐もありあっさりと終わってしまう。
 ここで、元軍の大将で忻都という男が出てくる。彼は南宋の残党や高麗軍による反感、そしてクビライへの恐怖に悩み、なかなか侵攻が進まないなか、神風と呼ばれるあの嵐に襲われ、そのあとの行方は知れない。彼がいちばんの被害者として印象にのこった。元軍の側からの元寇というものも、もっと書かれるべきではないか。
 そして、時宗の死は、エピローグとして簡単に触れられるばかり。文永の役だけが突出して詳細に語られるという、どうにもバランスの悪い小説だった。
 全体に、定説への変化球といった趣の小説であった。すぐ読めるが、これひとつで時宗の時代が理解できるとはとても言えない。

 

マイク・レズニック『第二の接触』(ハヤカワ文庫、1993年、原著1990年)A
 原題はセカンド・コンタクト。ファースト・コンタクトを終えたあと、改めて正式に交流をするまでという話。今だったら英題そのままでも通じたのではないか。

 『キリンヤガ』があまりにひどかったので、他もこんな風なのかと思って読んでみたが、これは面白かった。久しぶりにわくわくして読んだ。浦沢直樹の『MONSTER』を読んでいたときのスリルを思い出した。
 とある宇宙船内で殺人事件が起きる。犯人の船長は、乗組員が宇宙人のスパイだとわかったから殺したのだと主張していた。むりやり弁護人を引き受けさせられた宇宙軍のベッカー少佐は、めちゃくちゃな言い分に呆れながらも形式的な調査を始めるが、船長の主張を裏付けるための手がかりが、なぜかことごとく妨害されて手に入らない。もしかしたら、船長が殺したのは本当に異星人だったのか? 捜査のなかで黒人女性の凄腕ハッカーを味方につけて、軍の執拗な隠蔽と追跡をかいくぐりながら、ベッカーは真相に迫っていく。
 楽しく読めたのは、そもそもが批評性の薄い、気楽に読めるスパイアクション小説であったということもある。しかしおもしろいことに、『キリンヤガ』も本作も、「絶望的なディスコミュニケーション」が核にある。根っこは同じなのだ。『キリンヤガ』では、周囲がどれだけ説得してもキクユ族の祈祷師コリバはユートピア建設に邁進して耳を貸さず、そこがいらだちを感じさせた。『第二の接触』では、ベッカーの必死の捜査にかかわらず彼の欲しい情報は一切手に入らず、それこそが「実は宇宙人はいたのでは?」という期待につながり盛り上がっていく。証拠がないことが逆に宇宙人の存在の証拠であるというのは、ミステリ的にも面白いのではないか。まあタイトルがタイトルなのでほぼネタバレのようなものであるが、それでももしかしたら、という疑念で最後まで引っぱっていく。
 しかし――最後の最後、口頭で「真実」を伝えられて、それをあっさり信じて、しかもそれが本当に「真実」だったらしいというのは拍子抜けである。那須正幹の『ズッコケ宇宙大旅行』みたいな、突き放したようなもうひとひねりが絶対にあると思ったんだが。今だったらバッドエンドなお話が多いから、結局真実をなにも教えてもらえず闇に葬られて終わりそうである。