DEEP FOREST/幻影の構成

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 久間十義の『ヤポニカ・タペストリー』(河出文庫、1996年、単行本1992年)を読んだ。

 20世紀前半を設定して描いた小説において、中国は「憧れの地」として描かれることが多いように思う。革命の地として、あるいは日本の植民地たる満洲国へ、夢や野心を持つ多くの若者が向かい、冒険を繰り広げたのは事実である。そのイメージは混沌とした、法にしばられない楽園であり、石原莞爾甘粕正彦川島芳子辻政信などといった「怪物」が縦横無尽に駆け巡るその地は、福田和也の『地ひらく』や角田房子の『甘粕大尉』、荒俣宏の『帝都物語』や安彦良和の『虹色のトロツキー』などなど、魅力的な数多の伝記/伝奇により生命を得て、現代のわれわれにまでロマンの地として魅せる。明治維新以来、急速に西洋的な近代化が進められた日本において、そこからはみ出した者たちにとっては、中国が、そして満洲が自由の象徴となったのかもしれない……と、もっともらしく言うことはできる。現実はどうだったのか、わかったものではないのだが。
 本作もまた、満洲というロマンを一つの形象として描こうとしたものといえる。主人公の青年・加納良蔵は、工場で働く実直な青年だったが、結核に罹ったのを機に、よくわからない衝動に突き動かされ、療養所へ向かう途上で突然進路を変え満洲にわたる。彼はそこで奇妙な道士に出会い、術の修行をすることになる。持前の素養から超能力を身に着けた彼は、おりから渡満してきた大本教教祖・出口王仁三郎に協力し、馬賊たちを糾合してユートピアを建設しようとする。だが時代の流れは彼らの夢をも容赦なく押し流していくことになる。もちろん出口には合気道の祖・植芝盛平も付き従っているし、石原莞爾も出てくるしで、ちょうど『虹色のトロツキー』と表裏一体のような感がある。
 帯に「壮大なオカルト伝奇ロマン」とあったり、紹介文に「マジックリアリズム」とあったりするが、しかしそういう作品に期待するような壮大さや壮快さはあまりない。連想したのが筒井康隆の『七瀬ふたたび』なのだが、これらの作品では主題であるはずの超能力が、物語を動かす原動力になっていないのである(たとえば『コードギアス 反逆のルルーシュ』におけるギアスのように)。
 この作品で超能力はあくまで物語の一部にすぎず、むしろ主動力となるのは出口王仁三郎石原莞爾らの野望であり、彼らを呑み込んで突き進んでいく歴史である。彼らのような野心を持たず、ただ仙境に遊ぶことをよしとする良蔵(=霊蔵)は確かに歴史の一部にかかわりはするのだが、しかしそれはやはり微々たるものでしかなく、世界の命運を握るようなものではない。これは妙なところで、超能力すらも物語の一要素にすぎないようなスケールの巨大化が、しかし逆にスケールダウンを感じさせてしまう。それは『デスノート』でも感じられた。デスノートがすべての鍵を握っていたL編にくらべ、デスノートがただの駆け引きの手段に過ぎなくなったニア・メロ編のほうが、スケールは大きくなったのにもかかわらず、なぜかパワーダウンを感じさせてしまっていたのである。テーマの分散がかえって世界を縮小させるということかもしれない。
 とはいえ霊蔵は満洲という地で、歴史は変えられないものの、「世界の真実」には触れることになる。ユートピア建設の夢が露と消え、やがて二・二六事件にも間接的に巻き込まれて挫折する霊蔵は、一方で師匠や仲間に導かれ、内面世界を探究していく。そこは世のつねの論理に縛られず、死も時間も超越した世界であり、アカシックレコードのようなものが示唆される――この辺は勉強して書いたようで、ありきたりではある。
 それは麻薬の見せる幻と、他者からは合理的に説明はされるものの、霊蔵は確かに、現実のむこうに広がる広大な世界を目にする。だからこそ、満洲という時限装置つきのロマンが崩壊しても、ただの良蔵として日本に帰った彼だけは、自分の命や力が孫(語り手)に受け継がれていくのを満足とともに見ることができる。大いなる命の連鎖、個人を超えた運命の存在にこそ、良蔵は慰めを見出すのだ。未来を幻視した彼が、電話を通じて時間を超えて孫とつながるラストは、(90年代的な風景とはいえ)感動させるものがある*1
 だがこれは、92年の時点での落着点である。内面世界の価値が外的なものよりも高いという可能性が今よりも信じられていた時代の、結論である。その後オウム事件を経て、今やそんな「常識」は風化してしまっている*2。たとえば21世紀と繋がったとき、加納良蔵はそれでも満足を得ることができるのだろうか。

*1:固定電話を通じて未知の世界とつながる、というモチーフは、小林恭二『電話男』など多数見出せる。ガラケーにおいても、壁井ユカコ『NO CALL, NO LIFE』、桜庭一樹『ブルースカイ』、静月遠火パララバ』など少数ながら見出せる。しかしスマホでも同じモチーフは繰り返されるのだろうか。電話を介する未知の世界との接続、というのは、電話が基本的に声しか伝達できないという限定性により、大きな世界を小さな穴からのぞくようなもどかしいスリルとして機能していたと思う。声だけでない多くの情報を簡単に送ることができるスマホが、今までの電話のような小道具になりえるのかどうか。

*2:とはいえ2000年には精神世界無批判礼讃の田口ランディ『コンセント』がベストセラーになっており、単純にオウム事件以後スピリチュアルやオカルトが力を喪った、という見方はできないのだが。