DEEP FOREST/幻影の構成

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嶽本野ばらの『デウスの棄て児』(小学館、2003年、文庫版2008年、kindle版2013年)を読んだ。

デウスの棄て児

デウスの棄て児

 天草四郎を主人公に島原の乱を描いた、異色の歴史小説である。これがなかなか面白かった。著者は、主に耽美的な方面での少女文化の紹介者としてエッセイや小説を書いていたが、2007年に大麻所持で逮捕されてからは、活動を再開はしたものの、元のように表舞台に出るのは難しいようである。わずかに、自身の体験を『タイマ』として小説化したり、原田宗典が逮捕された際に激励の文章を書いていたのが話題になったくらいだろうか。
 本作は、2002年の『下妻物語』の約1年後に発表されたもので、『下妻物語』が2004年に映画化され、『エミリー』(2003年)や『ロリヰタ』(2004年)などが相次いで三島由紀夫賞候補になっていたことを考えると、著者にとっては一つのピークにあたる時期のものである。しかしあまり話題になった記憶はない。
 島原の乱を描いた小説として本書が異色なのは、天草四郎をメインに、彼に絞って描かれていることである。島原の乱を描いた小説は少なくない数あるが、そのほとんどは、島原の乱を、大きな歴史の流れ――大阪の冬の陣・夏の陣から由比正雪の乱に至る徳川幕府への反乱史や、徳川家光による幕藩体制鎖国体制の確立といった、つまり過渡期の一現象として描いている。そのせいで、堀田善衛『海鳴りの底から』、新宮正春『島原軍記 海鳴りの城』、石牟礼道子『アニマの鳥』、飯嶋和一『出星前夜』、あるいは大仏次郎早乙女貢の両『由比正雪』など、とにかく長い。当時の経済や社会の全体像を描こうとするものだから、大河小説と呼ばれるようなスケールの大きなものになる。その代わり、天草四郎はあまり目立たない、お飾りのような存在になってしまう。
 その点、本書では単行本で174ページととにかく短い。それでいて、史実はしっかりおさえた上で、島原の乱を、あくまで天草四郎が中心となった反乱として描いている。嶽本は彼の「奇蹟」やカリスマに説得力を持たせるために、四郎がポルトガルで生まれ育ったという設定を導入している。四郎の父の益田甚兵衛は、自己の保身のために、自分の妻をポルトガル商人の求めるままに売り渡し、妻は異国で四郎を産む。彼はそこで、キリスト教の腐敗に直面するが、同時にひそかに異端神学を研究する神父に出会い、グノーシス派の教義に触れ、一種の超能力を使えるようになる。このあたりは澁澤龍彦めいている。帰国した四郎は人心の荒廃を目にし、深い絶望の末、自らのカリスマを駆使して自滅的な反乱を起こすことになる。熱心なキリシタンではなく神の否定が動機というのも珍しいが、ここで積極的に軍師を務めるのが、傍観者的に描かれることの多い山田右衛門作(絵師。数少ない島原の乱の生き残り)であるというのも珍しい。
 もちろん乱は鎮圧され、四郎は滅びの中で、自分を敬虔なキリシタンと信じてともにあろうとする、無知な娘たちの信仰の純粋さに触れ、救済されて最期を迎える。このあたりの、正統な教義によらない個人の内面を重視する信仰の在り方は、遠藤周作にも通じるものがある。それでいて、他者におもねらない美学の貫徹というテーマが寓話的に描かれている点で、間違いなく嶽本野ばらの小説世界でもある。
 何しろ島原の乱は、反乱に加わった者のほとんどが死んでしまったため、内部で何が起こっていたのかはほとんどわかっていないので、想像力の働かせどころなのである。ただし、嶽本野ばらにこれを書かせたのは、歴史家としてではなく小説家としての想像力だろう。この物語の原型は、宗教反乱や農民反乱などではなく、90年代の新興宗教の発生と滅亡の物語であるからだ。四郎の行動は、ささやかな奇蹟が、プロモーターに見出され、ビジネスとして社会に処を得て肥大化していき、やがては誰にも制御しきれない怪物となり、破滅に至るという、新宗教のテンプレートにより描かれている。その意味では、篠田節子の『仮想儀礼』や荻原浩『砂の王国』、最近の中村文則『教団X』などの系譜に位置づけられるべきものである。とはいえこれらの作品のようには、嶽本は社会に比重を置かない。だから嶽本の作品はあの短さで、同テーマの作品を描くことができた。
 だから、嶽本野ばらがこの後、天正少年使節団や少年十字軍といった題材にも、宗教をテーマにしたスケールの大きな作品にも向かず、個人にとっての美学の追求を描き続けた(そして恐らく今も続けている)のは、必然的なものであったといえるだろう。


デウスの棄て児 (小学館文庫)

デウスの棄て児 (小学館文庫)

デウスの棄て児

デウスの棄て児