DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

 ハモンド・イネスの『怒りの山』(ハヤカワ文庫、1979年、単行本1972年、原題The Angry Mountain、1950年)を読んだ。

 依光隆の(なぜか笑ってしまう)表紙からは、災害パニック小説のように見えるが、そうではない。途中までサスペンス小説なのだが、終盤で突如として火山の噴火が起こり、敵も味方もそれに巻き込まれるのである。ある種タイトルがネタバレなのだが、このタイトルと表紙がなければ手に取ることもなかっただろうから難しいところである。世の中にはこういう難しさというのが時折あって、たとえば近所の図書館では震災後に清水玲子の『月の子』を棚に置くようになって(水上勉の『故郷』なども置かれるようになった)、それは広瀬隆を置くよりはよほど正しい選択だと思うのだが、しかしこの文脈で『月の子』を推薦するのはどうしようもなく根幹的な部分のネタバレになってしまうので、表立っては薦められないのである。
 本作『怒りの山』の作者ハモンド・イネス(Hammond Innes, 1913 - 1998)は、解説やwikipedia等によれば、第二次大戦中に軍部の発行する新聞の編集に従事しつつ小説の執筆をはじめ、1940年代と50年代を中心に、30冊以上の小説、さらには児童文学やノンフィクションも執筆しており、古典に近い世代のベテラン作家である。旅行家・航海家としての顔も持ち、本書の文庫化された時点の最新作が『キャプテン・クック最後の航海』であるなど、冒険小説がジャンルとしては多いようである。日本でもかなりの数の作品が訳されているようだが、現在は残念ながらあまり知られていない。
 本作は彼の代表作というわけではないようだが、このレベルの作品が彼の基調だというのなら、かなり独特な作風である。読んでいて感じたのは、スリルやサスペンス、冷戦時代のリアリティというより、寓話めいた非現実感である。
 主人公は元イギリス空軍所属のリチャード・ファレル。彼は第二次大戦中にドイツ軍と交戦し、捕虜になって拷問を受けた過去を持ち、そのときに負った心の傷を抱えながら、戦後は商社に勤めて暮らしている。はっきりしないが1950年代初頭、かつての戦友であるチェコ人のヤン・トゥチェックと商用で再会したところから物語が始まる。彼と会ったことがきっかけのように次々にかつての戦友たちが現れ、さらにはトゥチェックがファレルとの会見後に共産国家の手で逮捕されたらしいことや、戦友たちが何らかの陰謀にかかわっているらしいこと、ファレル自身も知らず知らずの内に歯車の一つとされているらしいことがわかってくる。全貌が明らかにならないまま、自身の過去と向き合うことを拒否するファレルは休暇をとってイタリアのナポリに向かう。しかしそこでもまた彼を追って陰謀の手は伸び、やがて真相が明らかになろうとしたとき、ベスビオ山が噴火を始める。
 基本的に主人公も読者も、与えられる情報がほとんど変わらず、行動していくうちに徐々に全体像が見えてくるというタイプのものなのだが、かつて共に死の淵にいた戦友が次々に立ち現われてきて、それに死んだはずの人間が現れたり、生きているはずの人間が死んでいたりと、読んでいくうちに生者と死者の混在する愉快で異様な空間が現出する。眉村卓の短編に、平凡な男の前に昔かかわりを持った人が次々に現れ、これはいわゆる走馬灯なのではないか、もうすぐ死ぬんじゃないかと不安になるというものがあるが、そんな感じである。ファレルの心に絶対的な位置を占める過去は次々に変容し、解体されていくのである。一方で謎の美女、元恋人、友人の娘など、未来への布石も欠かさないあたり、ベテラン作家らしい(表紙の女性が誰なのかがなかなかわからないのである)。
 この現実とも非現実ともつかない舞台で、突如としてベスビオ山が噴火を起こすと、物語はほとんど神話的な域になる。実際、噴火の描写を見ると、

その時である。窓一杯に毒花のような焔が拡がり、空を目指してどろどろと燃え上がったのだ。轟然たる音響が天を閉ざした。何千という急行列車が一時にトンネルを通過して行く音であった。ぽっかりと口を開けた地獄の門を破砕する魚雷の響きであった。大地も震えるまでに増幅されたライオンの吼声であった。別荘は、その建っている地面とともに家鳴り震動、まさに地球が他の天体との衝突によって真っ二つに裂けようとしているのかと思われた。(p.215)

目の前には旧約聖書に出てきそうな光景が広がっていたのだ。恐れおののき、神の怒りを逃れようとする人々が荷車を牽いて道を埋めていた。サント・フランシスコの村が見え始めた。怒りに燃えるベスビオを背景に村の人家が地面にへばりついていた。サント・フランシスコは滅亡に瀕している。熔岩の赤い輝きが私たちの行方にも、車の両側にも迫っていた。ソドムとゴモラに降り注いだ火と石も、きっとこのようであったに違いない。(p.250)

爆弾や機銃掃射で廃墟と化した街を私は知っている。しかし、カシノもベルリンも、この目の前の光景に比べたらまるで箱庭であった。爆撃も機銃掃射も、どんなに激しかったとしても、元そこに何があったかを示す残骸は残すものだ。熔岩は一切を飲みこんでしまう。すでに熔岩の下に埋れたサント・フランシスコは文字通り何の跡形も残っていない。そして今の私の目の前に灼熱の熔岩が土手を築いたように押し寄せ、煙を吐き、熱風を吹きつけているのだ。そこに村があったことを想像するのさえむずかしい。熔岩はすべてを飲みつくした。ほんの数分前にそこに家があったのが信じられなかった。数百年もの間、そこで人間が生きてきたその家が、私の眼前で熔岩に押しつぶされ、飲みこまれてしまったのだ。わずかに左手の方に一つ、教会の尖塔が黒い平野の上に頭を出していたが、私がそれに気がつくと見る間に美しく均整のとれた塔は花弁のように裂け、塵煙とともにくずおれて熔岩の波の中に消えてしまった。(p.271)

 いずれも、自然現象としての噴火を描くよりは、神話的・象徴的な描写となっていて、主人公たちは基本的に被災者というよりは観察者である。彼らは火山ガスに巻かれることもなく、火山弾の直撃を受けることもなく、火山活動により創り上げられた舞台で、最後の局面を迎える。これはたとえば有栖川有栖の『月光ゲーム』が火山活動をあくまで自然の災厄として描いているのと対照的である。この他、主人公が逃げ遅れたロバを助け、それにより危機を脱する場面など、多分キリスト教圏の読者はニヤニヤしながら読むのではないだろうか。キリストはエルサレム入城の際、ロバの背に乗っていたそうで、それが念頭にあるのは間違いないだろう。詳しくないのでよくわからないが、他にもさまざまな象徴的要素がちりばめられていると思われる。
 溶岩の押し寄せる混乱の中で、土地の住民はいつの間にか消え失せ、なぜか主要人物だけが一か所に集まり、なんとか一致団結して生き残ろうとする。その中で、対立する友との和解、真相の解明、行方不明者の発見、トラウマの解消、復讐の達成、恋愛の成就等々、カタルシスが怒涛のごとく押し寄せ、物語は大団円に向かう。一応背後では、冷戦を背景とする駆け引きが進行しているのだが、それは最後に付け足しのように明かされて終わりである。主人公ファレルのトラウマの救済という構造を持つこの物語は、結局のところファレルの一場の夢という見方もできるのかもしれない。精神分析的な解釈は、多分やるとつまらなくなるだろうが。
 バランスは悪いし、論理性や合理性を求めて読むと不満が残るかもしれないが、それよりもあたかも一つの神話劇か寓話を読んでいるようで、個人的には大満足である。他の作品も、なかなか見かけないが読んでみたいと思う。


確認できた邦訳リスト(順不同、恐らくほぼすべて早川書房):
「メリー・ディア号の遭難」
「蒼い氷壁
「キャンベル渓谷の激闘」
「孤独なスキーヤー
「海底のUボート基地」
「呪われたオアシス」
「失われた火山島」
「銀塊の海」
「大氷原の嵐」
「北海の星」
「密輸鉱山」
「怒りの山」
「報復の海」
キャプテン・クック最後の航海」
「レフカスの原人」
「幻の金鉱」
「ソロモンの怒涛」
「ベルリン空輸回廊」
「黒い海流」
「特命艦メデューサ
「獅子の湖」
これが最近の訳らしい

獅子の湖 (ヴィレッジブックス)

獅子の湖 (ヴィレッジブックス)

怒りの山 (ハヤカワ文庫 NV イ 1-12)

怒りの山 (ハヤカワ文庫 NV イ 1-12)