DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害


堀田善衛『めぐりあいし人びと』(集英社、1993年) S
 堀田善衛といえば、モスラの原作者の一人であるとか、宮崎駿が代表作の『方丈記私記』のアニメ化を構想してたことがあるとかで、たまに名前が出る、戦後知識人の大物である。本書はその入門書として最適――というか、ちょっと興味があるだけの人なら、本書だけ読めばよいとすら言える。
 本書は晩年の堀田が生涯を振り返った講演の記録(堀田善衛は1918年生、1998年没、講演は恐らく1991年)で、裕福な廻船問屋に生まれ、受験のために上京した日に二・二六事件に遭遇したエピソードを皮切りに、共産主義運動への接近、戦時中の武田泰淳との上海での活動、戦後のアジア・アフリカ作家会議の事務局長、スペインへの移住、太宰治の思い出など、フルシチョフサルトルネルーダといった大物との交流もまじえて、スケールの大きな人生がどれも並列に、なんでもないことのように語られる。なんだかたいしたことがないみたいにさえ思えてくるが、いったいどんな話が飛び出すのか、読んでいる間まったく退屈しない。
 しかし驚くのが、これを読んだあとで家にあった『若き日の詩人たちの肖像』や『バルセローナにて』『スペイン断章』などという本を覗いてみると、『めぐりあいし人びと』に出てくる話がどれも正確に同じ内容で繰り返されていること。20年くらいたったら内容に少し違いがある方が普通だと思うのだが、ほとんど変わりがない。この人の中で、自分の人生は人に語るための物語として既に完成されているということかもしれない。
 ということは気になるのは、彼が語らない部分である。中でも自作の小説への言及がないというのはどういうことなのか。実際堀田善衛は小説作品への評価はそれほど高くないように見えるし(開高健が『スフィンクス』を解説で失敗作と評していたことがある)、あまり語りたくないことなのだろうか。自作について語っている文章は他にないか探してみたい。
 そういう疑問があるにせよ、座談の名手であったという堀田の名調子を堪能できる一冊である。印象に残ったのは、カイロでのエピソード:

(1962年頃の)カイロは、一種アフリカの独立運動の巣窟といったような様相を呈していました。コンゴもまだ独立以前でしたが、あるときコンゴのジャーナリストがやってきて、私を部屋の隅にどんどん押していくんです。よく見ると、その真っ黒い顔――巨人軍にいたクロマティにちょっと似ていましたね――の大きな目から涙が溢れている。
 何事かと思って、よく話を聞いてみると、広島と長崎に落とされた原子爆弾の原料であるウラニウムは、コンゴから産出したものだ。もし、われわれがもっと早く独立していて、ウラニウム鉱山を自分たちで管理することができていたなら、ああいうことは絶対させなかったはずだ、というんです。コンゴの国民は、心からそう思っていると、広島と長崎の市民に伝えてくれと、涙ながらにうったえられて、思わず私も涙が出ました。
(単行本p.83)

逢坂剛『百舌の叫ぶ夜』(集英社文庫) B
 面白かったがやや古さも感じる。「百舌」という天才暗殺者をめぐる硬派なサスペンス――と思いきや、実質はサイコサスペンスのほうが近くて、安直すぎる「百舌」の殺人動機や記憶喪失に陥った彼を襲う暗示的なフラッシュバックなど、90年代に量産されたサイコホラーを髣髴とさせてしらける。86年発表ということを考えればかなり先駆的だった可能性もあるが。解説で船戸与一フロイトの影響を指摘していたが、言われてみればあからさまである。そういう要素が絡んでくるところ以外の、地道な捜査をしているところなどはなかなか面白かったのでもったいない。
 続く『幻の翼』も読んだのだが、これはもっと酷くて、メイン三人のうち男二人はともかく、ヒロインたる明星美希が骨抜きになっていたのは許しがたい。ほとんど「恋する乙女」になりさがっていて、命がけの救出シーンで濡れ場に入るのには閉口した。逢坂の女性描写の問題なのか、こういう「男のロマン」を描くジャンルでの戦う女性の存在が難しいということなのかはわからないが。



今野敏ティターンズの旗のもとに』(電撃ホビーブックス、2008年)B
 ベテラン・今野敏による、Zガンダムの外伝小説の佳品。
 終戦後の軍事裁判をテーマにした珍しい作品で、平和への理想に燃えて任務を遂行していたティターンズの若き将校が、敗戦後に裁判にかけけられる。それは明らかに、彼を見せしめの処刑にして都合の悪い真実を隠すための濡れ衣だった――というわけで、彼の実際の作戦行動を描く戦時中の物語と、戦後に彼を救うべく奔走する弁護士の物語が交互に語られる。
 さすがにベテラン作家だけのことはあって、4つの容疑に対して4人の証人が現れてそれぞれ無実を証明する構成など、きれいに組み上げられている。その手際のよさは、ハイレベルな描写ながらくりかえしばかりの戦闘シーンより、小気味良い駆け引きの応酬が描かれる法廷シーンのほうが面白くなってくるほど。ただ、法廷ものとしては、どのキャラもこの状況下で異様に前向きだし、ほぼみんな生きのこるし、いくらなんでも善人が多すぎじゃないかとは思った。



古井由吉『杳子・妻隠』(新潮文庫、1979年)C
「おかしな人」を、安全圏から学者気取りで観察しているという印象。それでいて相手の女性のほうから近づいてくるので罪悪感をいだかないですむという「免罪符」がきもちわるい。
 最近の『亜人ちゃんは語りたい』もそうだが、こういう興味本位の詮索を正当化する構造は好きになれない。あれも主人公に「亜人ちゃん」たちがなぜか無条件の好意を寄せてくれることにより、「大学時代亜人の研究をしようとした」などとのたまう主人公の偽善を目立たなくしている。しかし、亜人ちゃんに関しては「押しつけがましくない」というような好意的評価が多いみたいなので、自分が気にしすぎなのかもしれないが……
 ただ、山の描写などさすがにうまい。亜人ちゃんも絵は可愛いのだが。


*******


書く習慣を長続きさせるために、自分が楽な形式を模索中である。