DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

【最近読んだ本】
阿部夏丸『見えない敵』(講談社文庫、2010年、単行本1998年)A
 『オグリの子』の作者。そういえば昔ドラマやってたけど見なかったなと思いつつ読んだ。
 色々な読み解く視点をうまく盛りこんでいて、教科書のような小説だと思ったが、一方でかなりメッセージ性が強い部分もあって、児童文学としてはかなり危険とも感じた。
 前半と後半に物語はわかれていて、前半は愛知の農村を舞台に、豊かな自然の中で生きる少年たちの夏の日々を描く。自然描写は、解説の篠原勝之がそのことしか書いてないくらいなので、さすがのうまさである。彼ら少年は1959年の伊勢湾台風の年の生まれで12歳とあるから、作中年代は1971年頃。作者は1960年愛知県生まれなので、幾分かは自伝的な要素が入っているとみて良いだろうが、それにとどまらない社会的・科学的な視点が周到に盛り込まれているのがうかがわれる。
 その最たるものが、オトナ社会はほとんど描かれないにもかかわらず、その力関係が子ども社会に映し出されているという構図である。前半は、一人のガキ大将のもとで統率されていた子ども社会が、都会的な少年少女が侵入してくることで乱されていくというシンプルな枠組みなのだが、ガキ大将が敵視する転入生は新興住宅地の住人で、オトナからもよそものとして排斥されている。さらに新興住宅地は、子どもの遊び場の沼が埋め立てられて造られたものであり、子どもにとっても良い印象がない。ここでは子どもたちの対立に、社会の対立や環境破壊といったテーマが重ねられているのだ。
 農村と都市、自然と開発といった二項対立が絡み合う構図の中で、主人公の少年はどっちつかずになってしまう、というのが、前半の基調となる。ガキ大将の気ままな支配に反発を感じつつも、その中での庇護された安定を求め、一方で転校生とも親しく話すようになることで、洗練された都会の少年がいざなう未知の世界にも惹かれる。彼らの対立を避けたいという消極的な態度は、かえってみんなの前でどちらを選ぶか迫られるという、もっとも残酷な結果を招く――というのが、前半部のひとつの結末であるが、この緊張感あるテーマの追求は、後に起こる「事件」によって残念ながらうやむやになってしまう。
 後半では、オトナ社会が突如として入り込んできて、少年たちの対立を押し流してしまう。外来種セイタカアワダチソウが村の草原に侵入して、ススキを駆逐するまでに増えてきたので、一斉に焼いて駆除するというのである。
 これには子どもたちが反発する。ガキ大将は、秘密基地を造った草原が奪われることに怒り、都会から来た少年は、「ヨソモノ」であるセイタカアワダチソウを駆除することに、同じく仲間外れにされるヨソモノの自分を重ね合わせて悲しむ。セイタカアワダチソウは前半から伏線として時々でてきて、いつの間にか子どもたちの遊び場を侵食していて、ホラー小説の侵略者めいた印象を与えるが、子どもたちはそれを護ろうとする。ウルトラマンには、怪獣を倒そうとするウルトラマンを子どもたちが非難するエピソードがあったが、それを彷彿とさせる。
 都会と農村、開発と自然などの二項対立を示し、主人公を通してどちらも正しいと言い切れない苦しみを描いていた前半に対し、後半部ははっきり大人たちを敵として描き、メッセージ性が強い。ラストでセイタカアワダチソウを焼き払う大人たちは、お祭りのように興奮して大騒ぎし、残虐な悪魔そのもののように描かれる。その姿は、『バトルロワイアル2』の大東亜共和国軍や『屍鬼』終盤の暴徒化した村人たちすら思い出させるのだが、一方で外来種とヨソモノを重ね合わせたことで、外来種の駆除=悪のようにしてしまった感じもある。作中でセイタカアワダチソウ駆除の根拠として持ち出されるアレルギーやアレロパシーについては、オトナが機械的に繰り返すばかりでかえって説得力を失い、疑問を呈する声のほうが理不尽に無視されてしまう。これでは暗に、疑問を持つ側が正しいという印象を与えてしまうのではないか。
 子どもたちの抵抗むなしく焼き払われるセイタカアワダチソウに、オトナ社会の理不尽さを目の当たりにし、「見えない敵」に主人公が立ち向かう決心をするラストは、カタストロフとして充分なインパクトを持つ。しかしあとで冷静になって考えてみると、社会におけるよそ者と、生態系における外来種の問題は全く違う話である。それを重ね合わせるのは物語としては上手いしわかりやすいけれども、同じ性格の問題としてとらえられてしまう危険もあるのではないか。外来種の問題について、矢作川水族館の館長でもあるという著者自身がどのように考えているのか気になってしまった。
 前半は、子ども社会に潜む、白黒で分けられない複雑さを描いて、読み手自身に考えさせるものだったが、後半は悪く言えば活劇調になり、オトナを悪とするために、子ども・よそ者・外来種といった、そこから排除されるものすべてが善であるかのような偏ったメッセージになってしまっているように思われる。それは作者の意図したものであるのかどうか。わかりやすい一方で児童文学としてはかなり危険であると思った。


池宮彰一郎高杉晋作(上)』(講談社文庫、1997年、単行本1994年)C
 高杉晋作については小説が大量にある今、そんなに良いとは思えない(個人的には三好徹『高杉晋作』が短いながら情報が良くまとまっていて好きである)。特にいけないのが、高杉によくあるエピソード――「いよう、征夷大将軍!」とか、三枚橋の中央を松陰の葬列を引き連れて傲然と通ったという類の逸話とか――を、あちこちで持ち出してはこれは史実にはないと槍玉にあげているところで、その言い方がいちいち妙に非難がましくて、読んでいて不快になった。このあたりの誤伝については中原邦平なる史家に責任があるとされているのだが、晋作の伝記自体は他にも色々出ていることもあり(高梨光司『維新史籍解題 傳記篇』では高杉晋作の伝記はメインとして横山健堂高杉晋作』など複数があげられているのに対し、中原著の伝記は『高杉東行剃髪事情』と『高杉晋作の事蹟』が参考として挙げられているにすぎず、あまり重く扱われているように見えない)、あまり詳しくは説明しておらず、どう判断すればよいかわからず中途半端である。そのあたり、司馬遼太郎くらい脱線して語ってくれればよかったのだが。