DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

赤川次郎『台風の目の少女たち』B、山本美希『ハウアーユー?』A

【最近読んだ本】

赤川次郎『台風の目の少女たち』(ハルキ文庫、2012年)B

 夫も娘も捨てて不倫の末駆け落ちをしようとしていた女性が、大型台風の接近によりそれを阻まれる――というところから物語が始まる。嵐を避けて、山間の町の人々は近くの体育館を避難所とするが、次第にひどくなる嵐の中で孤立する。殺人事件が起こったり、銃を持った男が紛れ込んだり、そこへ夫の不倫相手や娘の恋人の浮気相手が現れたり、事件が次々に起こる中でそれぞれの思惑が絡み合い、生き残る道を模索していくことになる。

 赤川次郎だけあって読みやすいが、題材のわりに読み口があっさりしすぎている印象。不倫や殺人といった大事件が起こっては数行で通り過ぎていくのは、300ページに満たない本では仕方ないのかもしれないが。個々人のドラマは災害下の非常事態の中では扱いが小さくならざるをえないはずで、そこであっさりした描写にも説得力が生まれるはずだったのだと思う。しかし本作では、肝心の台風の描写が窓の外の嵐のようにいまいち実感のないものとなっており、臨場感に欠けていた。理由を考えてみるに、赤川次郎の作品では登場人物の会話で物語が進むことが多いということがある。それは確かに読みやすいのだが、逆に言えば会話ができるというのは、台風がその程度であるとことを暗に示してしまっているように思えるのだ。近くにいるのにコミュニケーションもままならない危機的状況下での生、というのがやはり、災害小説でのスリルの一つではあるまいか。

 赤川次郎の他の災害ものとしては『夜』が好きだったが、あれは災害よりもそれにより甦った謎の怪物のほうが恐怖を演出していた。本作では殺人鬼のような者が出てきてもすぐに退場するような肩透かしの連続で、それに代わる存在はなかった。

 

 久しぶりに赤川次郎の作品を読んだが、色々文句を言っても「赤川次郎らしさ」はこの作品でも健在である。町の人たちが頼りない中で、たまたま都会から来ていた女の子が思いがけないリーダーシップを取って話を引っ張っていったり、町医者のような老人が豊富な知恵で状況を見通しているといった要素は、いかにもと思ってしまう。故郷に帰ってきたような懐かしさである。

 

 

山本美希『ハウアーユー?』(祥伝社、2014年)A

 夫は日本人、妻は外国人、娘がひとりという、近所からみても幸せそのものの家庭。だが夫がある日突然失踪したことで、その幸福が崩壊する。夫は携帯電話を家に置いていったから、明らかに自分の意志で出ていったのだ。それでも妻はいつか夫が帰ってくると信じ、連絡をひたすらに待ち続けるが、やがて精神のバランスを崩していく。平静を装いながらも、退行したり暴れだしたりと次第に奇行が目立っていく母親に耐え切れず、娘は恋人を作って出ていってしまう。近所からも見放される中、ただ隣家の女の子はたった一人の味方となり、物語の終りを見届けることになる。

 岡崎京子的な、時に乱雑とも見えるような筆致は狂気を表現するのにふさわしく、読んでいて胸に迫るものがある。しかし岡崎京子がそうであるように、かなり計算されて物語が構築されていることが、打ち明けすぎともとれるあとがきからわかる。もっともその割にはスピード重視な展開で、一気に読み終えてから思い返すと色々と無理がある。一体妻の実家はどうなったのか、留学中に恋に落ちたというが駆け落ちだったのか、妻が天涯孤独の身だったのならそれを捨ててしまったほどの理由は何なのか、妻には昔に別の恋人がいたようなことがちらりと示唆されているが、彼女の意識の中には原因への心当たりが全くないらしいのはどういうことか。読み終えてみると色々疑問がわくものの、読んでいる間はそれどころではなく、夢中だった。

 読みながら思い出したのは、カネコアツシの『SOIL』(ビームコミックス、2003~2010年)だろうか。あれはニュータウンの平凡な一家がまるごとある日突然失踪し、事件を調査するうちに住人の狂気やニュータウン造成前の歴史などの隠された背景が浮かび上がってくるというサスペンス漫画であった。

 それと比較したときに『ハウアーユー?』に感じるのは、「意味づけへの徹底的な拒否」だろう。結局のところ彼女の人生の物語は、我々読者に何をもたらしたか――というと、特に何も、わかりやすい教訓や警告は残してはくれない。彼女の人生に深くかかわることになった隣人の少女は、成長してから彼女の人生をめぐるドキュメンタリーを作ろうとするが、彼女のことは何一つ明らかにすることはできない。インタビューを受けた近所の人々が語るのは彼女が自分にどう見えていたかということだけだし、少女もまた何か語ろうとしても自分自身のことを語るばかりである。

 それでも、彼女が確かに生きていたのだということは、泣きじゃくって真っ赤に腫らした目や、認めきれない絶望に歪んだ表情を通して、読んだ我々の心に焼き付いて残っている。しかし、その内部で何があったのかを知ることは、我々には永遠にできない。そう考えたとき、冒頭のぺソアの引用が納得できる。

わたしが死んでから 伝記を書くひとがいても

これほど簡単なことはない

ふたつの日付があるだけ――生まれた日と死んだ日

ふたつに挟まれた日々や出来事はすべてわたしのものだ

 個人的には、これは最後に置かれるべきではないかと思う。読者に与えられるのは、彼女が生まれ、そして死んだということだけである。釈然とせずに読み返したとき、このぺソアの詩に触れてその意味を知ることになるのだ。

 

 男性としてはやはり、不在の夫が気になったが、女性が読むとどうなのだろう? 途中で、これは夫は最後まで出てこないか、全部終わった後にのこのこ出てきて海でも見つめながら「疲れたんだ」などと述懐するとか、そんなところなのだろうとは思ったけれど。一方で、理由の全く見えない失踪は理不尽であるがゆえにかえって衝撃的で、頭は合理的な解釈を生み出そうとしていた。もしかしたら夫は単に携帯電話を忘れて出ていっただけで、何かの事件に巻き込まれて身元不明のまま死んでしまったのかもしれない……などと考えると、これは安部公房の『砂の女』を妻の側から見た話なのかもしれない。あの主人公も結局もどらず、妻が届け出て死亡扱いにしたのだったか。妻は待っている間どうしていたのだろうか、と初めて思った。