【最近読んだ本】
東野圭吾『天空の蜂』(講談社文庫、1998年、単行本1995年)B
爆薬を載せた無人のヘリが原発の上空をホバリングし、日本の全原発の停止を要求する――という、地味に工作員が忍び込むのと比べて派手で効果も高そうな「その手があったか!」という鮮烈なビジョンのもと、謎のテロリストと阻止しようとする人々の攻防を描く傑作――なのだが、「来たるべき破局」への警告というメッセージ性が強すぎるあまり、「破局後」を生きる現在において読むと、どうしても踏み込みが弱い気がしてしまう。
作中で技術者たちが悩むのは、ヘリが落ちても原発は暴走しないだろうが、しかし万一のことが起こったらどうしよう――ということなのだが、しかし3・11を経た今の我々には、ヘリが落ちても大丈夫とはとても思えないだろう。ニュースで原発の危機を知ってもエアコンが停められたことくらいしか気にしない人もいて、我々の原発をめぐる意識が決定的に変化したことを思い知らされる。しかしそういった不満が出るのも、原発の危機の際のシミュレーションがしっかりしていたために、今見ると「普通」になってしまったためともいえる。そこは作家の力量を示すものである。
エンタテイメントとしては、犯人との真っ向からの頭脳戦というより、犯人の過去や家族、恋人などから絡め手で攻めていく感じで、個人的にはちょっと期待外れ。最初に子どもが一人ヘリに乗ったまま上昇してしまうというハプニングは、解説の真保裕一はラストにも効いていると絶賛しているが、それがあの写真のことを言っているのだとしたらとてもそうは思えず、いっそもう少し子どもを活躍させてもよかったのではないか。どうも女性や子どもが男の都合の犠牲になっている印象があった。
ソルジェニーツィン『煉獄のなかで 上・下』(木村浩・松永緑彌訳、新潮文庫、1972年、原著1955~1964年)A
煉獄というのは、天国と地獄の間にあり、魂を清めるところらしい。「煉」という字から勝手に地獄のもっと苦しいところを想像していたのだが違った。原題はThe First Circle(第一圏)となっており、ダンテの神曲に由来しているそうで、訳者が理解しやすいタイトルに苦心したことがあとがきで述べられている。
ソルジェニーツィンを初めて読んだのだが、意外に面白かった。小説というより、あたかもソ連社会の百科事典的な趣である。作中で流れる時間はたったの4日間――1949年12月24日から27日という、スターリン時代末期のクリスマスである。その間のあらゆる階層の人間模様が、1000ページもかけて描かれる。
一応中心になるのは、ソ連で進められていた極秘の研究――人の声の録音データからそれが誰の発言か特定する「声紋法」などと呼ばれる理論――その研究部署がろくに成果を挙げられないまま存続も図るも遂には解体されるまでの物語であり、そしてその部署の調査対象となったある外交官が順調な日々から一転して逮捕されるまでの物語であるという大枠はあるのだが、とにかくそこに至るまで、彼らの同僚や家族、そのまた同僚や家族、部下や上司のそのまた部下や上司といった具合に、章ごとに連鎖的に中心人物が移っていき、収容所、政府、市民社会に至るまでのあらゆる階層にわたってスターリン体制下の社会生活が浮かび上がってくる。
そこで描かれるのは、体制にがんじがらめになりながら、与えられた環境の中でせめてもの生の楽しみを見出そうとする哀れな人々である。その息詰まるような社会は誰かが意志を持って操っているのでもない。誰もが自分の職分を全うしようとするだけである。頂点にいるはずのスターリンでさえ、もはやボケかけた老人に過ぎず、勢いで書いた論文はともすれば共産主義の思想から逸脱してしまう有様である。
ソルジェニーツィンは、収容所で無気力に生きてきた人々がせめてもの抵抗を試みて敗北していくドラマを、四日間に凝縮して描いている。彼らの心が折られていく顛末がいちいち皮肉に満ちていて、おかしくも哀しいエピソードの集積となっている。特にラスト、他の収容所に移送される際に乗せられるトラックが、食料用の車に偽装されているせいで、それが街を走っているのを見た外国の特派員が「国内の食糧事情は良好」とレポートするのは、ブラックなユーモアに静かな怒りを感じた。
この作品を論じた論文を探すとポリフォニーから語っているものが多いのもむべなるかな(作中で鍵になるのが、盗聴した「声」から発言者を特定する研究というのも符合していて面白い)といったところ。個人的には繰り出されるエピソードの集積で世界が浮かび上がってくる構成は井上ひさしを連想した。ロシア文学愛好は語っていたことでもあるし、実はかなり影響を受けているのではないかと思ったりするのだが、ソルジェニーツィンについては語っていたかどうか。遺作となった作品の一つ『一週間』が日本人捕虜収容所が舞台だったのを考えあわえて気になった。