DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

矢野隆『我が名は秀秋』B、早乙女貢『若き獅子たち(上・下)』A

【最近読んだ本】

矢野隆『我が名は秀秋』(講談社文庫、2018年、単行本2015年)B

 関ヶ原の戦いにおける家康の勝利に最大の貢献をした一人ながら、裏切り者として軒並み評判が悪い、小早川秀秋が主人公。

 司馬遼太郎の『関ヶ原』などでは、自分がやったことを全くわかっていなかった小心者のように描かれていたが、実は彼はすべてを見通した天才だった――という着想は、一見面白いものになりそうな気がするが、蓋を開けてみると何のことはない、

 「家康が最も恐れた男」

 「戦国の世に十年遅く生まれてきた男」

 「関ヶ原の戦いの行く末を唯一見通していた男」

 という、よくあるものになってしまった。

 普段は無気力な男なのが、戦場で「内なる獣」が覚醒して名将になるというのは、やや天才的に描かれすぎではあるものの、三国志のようで爽快である。2015年刊行ということだが、イメージとしては2014年の大河ドラマ軍師官兵衛』の浅利陽介演じる小早川秀秋が念頭にあったものだろうか。

 無気力で、自分の意志や感情もよくわかっていなかった彼が、小早川隆景という「父親」との出会いをきっかけに、秀吉への嫌悪や兄と慕う秀次を死なせた石田三成への復讐心に目覚めていく過程は、なかなか読みごたえがある。2016年の『真田丸』では小早川秀秋をまた浅利陽介が演じて、より人物が深められた感があるので、それを経ていればまた違った秀秋像になったかもしれない。

 これで大長編になれば面白いのに、さるにても残念なのは、なぜ秀秋が関ヶ原の戦いの直後、21歳の若さで死んでしまったのか。考えようによっては、秀秋の人生最大の失策は、関ヶ原の裏切りよりもその早すぎた死にあったと思わざるをえない。もし長寿と言わないまでも平均寿命まで生きていれば、その後の人生が地味でも、戦国の世を老獪に生き抜いた策士として、後世の評価も違っただろう。普通は歴史上の人物といえば、坂本龍馬高杉晋作など、早死にした方が評判が良いものなのに、若死にして評判を落とすというのは結構珍しいのではないか。

 本作でも歴史を曲げるわけにはいかず、なんとか「天才」という面目を保った死に方にしようと腐心しているが、やはり中途半端に終わった印象は免れない。今まで題材にされてこなかったのには、やはりそれなりな理由があることを思い知らされた。

 

 

早乙女貢若き獅子たち(上・下)』(新潮文庫、1991年、単行本1985年)A

  文久2年(1862年)の吉田東洋の暗殺に始まり、幕末の京に吹き荒れた暗殺の嵐を、慶応元年(1865年)の武市半平太の刑死まで上下巻1200ページで描く。

 作者が熱狂的な会津推しなので、薩長土をはじめとする志士たちの描き方に容赦がなく、ほとんど全員が血に飢えた殺人狂、無思慮、女好きときている。ほぼ同じ時期の同じテーマを描いた作品としては奈良本辰也の『洛陽燃ゆ』があるが、あれなどまだ、これに比べればインテリの思想闘争といった趣である。これを読んだら、幕末のロマンなどたちまちに壊れてしまうだろう。

 しかし単なる罵倒にとどまらず、妙に説得力があるのは、ちゃんと史料を調べたうえで書いていることや、会津びいきの作者の史観の一貫性、なすすべもなく殺されていく若者たちのパターン化されない描写の巧みさなどによるだろう。また、文久2年9月、攘夷志士暗殺に暗躍していた渡辺金三郎*1ら幕吏4名を土佐藩平井収二郎長州藩久坂玄瑞ら24名(!)が結託して石部宿で襲撃、3名を惨殺した事件など、恐らく「正義」的なイメージには不都合なため、あまり触れられない歴史的事件を詳細に描いているのは大きな特徴である。

 そしてやはり、死を迎えるまでのそれぞれのキャラクターの意識の描き方がうまい。知らぬ間に最悪の選択を重ね、いつの間にか逃げ道がなくなり、それでも何とか死から逃れようとするのに、遂に背後から致命的な一撃を食らう。その時にはもはや倒幕だの攘夷だのという言葉も忘れ、ひとりの無力な子どもに還って、ただ無為に死んでいく。吉田東洋に始まり、田中河内介、島田左近、佐久間象山などなど、有名人からマイナーな人物まで、それぞれに工夫を凝らして哀れに死なせていく執念がすごい。

 血に飢えたような殺し方、死ぬ者たちが思想も武士道も何もなくただただ無力に死んでいく無情さは、幕末の歴史という観点をこえて、太平洋戦争や連合赤軍事件で死んでいった者たちを重ね合わせているところもあると思う。

 実際、作中で

現代でも日本赤軍のような過激なグループの酸鼻を極めたリンチ事件は記憶に新しい。かれらは、かれらなりに、正義を信じていたのだろう。かれらのいう正義がどんなものか知らないが、狂信による人殺しということでは尊王攘夷のいわゆる勤皇の志士と称する連中も大差ない。(上巻p.385)

攘夷々々で、日本中が浮かれていた。恰も戦中の鬼畜米英の昂奮にひとしい。お祭り騒ぎが好きだし、附和雷同性が、事の是非も考えることなく、夷狄斬るべし、紅毛撃つべしと喚くのだ。(下巻p.155)

 というような言及も頻繁にあり、単に日本史におけるある時代を描くだけでなく、そこに何か普遍性を見出そうとする姿勢が感じられる。早乙女貢自身にはストレートな戦記小説や学生運動小説はないのだろうか。

 まともに死ねた人が一人もいなかったのが、上巻のラストでようやく会津藩新選組が京に現れ、そこから雰囲気が一変し、無秩序だった京にようやく秩序らしきものが現れる。近藤勇土方歳三が、作中では初めて、暗殺者を圧倒して追い払うことに成功するのだが、これには快哉を叫びたくなる。それはまるで「未開の地」に「文明人」が乗り込んできたような――物知らずな田舎者と描かれる会津が文明人の側なのだから変なものである。かくして、下巻はやりたい放題だった長州藩土佐藩が一転して追い詰められていく。しかしその後も、吉村寅太郎天誅組のように、蜂起直後に長州藩が京を追い出されるというタイミングの悪さのせいで支持を失い、孤立無援の中で味方の誤射で負傷して敗退し、華々しい死を飾るチャンスも逃して射殺されるなど、決して爽快感はない。司馬遼太郎などの娯楽性の高い幕末小説を読みなれてきた身には、冷水を浴びせられるような本である。

 

 しかし読んでいて閉口したのが、女性の描き方の酷さである。

 出てきた女性は全員強姦されていたような気がするほどで、働きにおいても、惚れた女にかまけて人殺しのチャンスを逃すものがいたり、真面目な志士が遊女に溺れて病気になってしまったり、愛する人の情報を漏らしたことが彼の死の原因になったり、男の逃走を家族の存在がはばんだりと、おおむね男の足を引っ張る役割しか与えられていない。この明らかな女性嫌悪はちょっと驚くべきものである。解説の藤田昌司は「強烈なエロチシズムも魅力」などと称しているがとてもそうは思えず、早乙女貢というペンネームが「若い女性に金品を貢ぐ」という意味だという割には正反対である。このあたり、誰か論じている人はいないのだろうか。

 まあこの辺にうんざりして読み飛ばしたから、分厚いわりに早く読み終わったともいえるが……

*1:この名前は全く知らなかったが、心霊番組界隈では有名らしいことを検索していて知った