DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

斎藤肇『<魔法物語>シリーズ』A、K・クリパラーニ『ガンディーの生涯』A

【最近読んだ本】

斎藤肇『<魔法物語>シリーズ』A

『魔法物語 上 黒い風のトーフェ』(講談社文庫、1993年、単行本1990年)

『魔法物語 下 青い光のルクセ』(講談社文庫、1993年、単行本1990年)

『新・魔法物語 竜形の少年』(講談社文庫、1996年)

『魔法物語3 竜形の闇』(自費出版、新・魔法物語のリメイク、2019年)

光の子を探すがいい

彼は世界を動かす

ひとりは黒き風

ひとりは闇の種

ひとりは滅びの光

ひとりは熱き星

いずれかが救いとなる(魔法物語上巻p.165)

 

 久々に長編ファンタジーを読んだ。斎藤肇は「異形コレクション」に収められたSF・ホラー系の短編でしか読んだことがなかったが、ファンタジー小説のこれも面白かった。そのまま読み逃していたが、90年に日本でこんな本格ファンタジーが書かれていたというのは全く知らなかった。

 物語は、一見オーソドックスな冒険ファンタジーとして始まる。『風の谷のナウシカ』のユパさながらの戦士リバが、冒頭に掲げた詩で予言された、世界を滅びから救う力をもつ四人の「光の子」を探す旅に出る。

 それぞれの巻が一人の光の子の物語となる構成で、全体がリバの生涯を賭けた旅の物語でもある。次々に現れる怪物を卓越した剣技や魔法の力で倒していくところは、堅実な描写で読ませるものがある。超人的な戦いぶりを発揮している割にはそれを感じさせない(反面、みんな満身創痍で戦っているように見えて心配になるが……)。また、世界全体がどうなっているのかがよくわからない(他の国はあるのかとか、魔法というのは一般人の間ではどの程度身近な存在なのかとか)といった不満はあるものの、その分政治劇や曲芸めいたアクションとは無縁の、地に足のついた戦いぶりが見られ、その中で光の子や世界の滅びをめぐる真実が少しずつ明らかになっていく。

 本作は魔法物語上下巻、新・魔法物語で3人の「光の子」の物語が描かれ、長い間途絶していたが、大幅な加筆修正のもとで3巻が自費出版でリメイクされ(現在は著者のサイト経由で入手可能)、4人目の「光の子」の物語も執筆中であるという。まさに著者のライフワークといってよい壮大な物語となっている。

 しかしこの物語は、2巻ラスト以降、一般的なファンタジーからは逸脱して、独自の道を進んでいるように思われる。ネタバレになってしまうが、2巻において――つまり二人目の「光の子」が見つかった時点で、世界を滅ぼす「もの」が倒されてしまうという、大番狂わせが起こるのだ。ではいまだ見ぬあと二人の「光の子」の立場はどうなってしまうのかというと、3巻に入り、物語は全く新たな滅びの危機を見せ、そしてその全貌はいまだに見えてはいないところで続きを待っている。

 なぜこのような展開になっているのかと考えると、この作品の特色として、「運命」という言葉が二つの意味で使われているところにあると思う。一つは「光の子」が持って生まれた力によって世界を救うという、魔道師が定めた「運命」。そしてもう一つは、それよりももっと上位にある、世界全体の「運命」である。前者はあくまで人間が決めた、人工的なものであり、後者は個人の思惑や感傷とは隔たったところにあり、魔道師もまたその一部に過ぎない。「歴史」などとも言い換えられるだろう。

 この二つは、普通のファンタジーでは一致している。古典的なパターンでは、世界は光と闇の対立という構造を持ち、主人公たる光の勇者が闇の魔王を打倒すると、世界に平和が訪れる。よく考えると勇者と魔王の対立は世界の平和と関係あるとは限らないのだが、これが無前提に直結していることで、個人の物語と世界の物語が一体化し、自分たちは歴史の動く場に居合わせるというカタルシスを読者に与える。

 しかし『魔法物語』ではそこまで単純ではなく、この二つの「運命」は必ずしも一致しない。最初に提示される光の子という「運命」は、あくまで魔道師の決めたものでしかなく、彼ら魔道師をも歯車のひとつとした、もっと大きな「運命」の存在がようやく見えてきたところなのだ。その全貌はまだ明らかになってはいないが、恐らく序盤から重要な存在となっていた「竜」が重要になってくるものと思われる。本作での竜は生物というより、魔法という概念が世界に形をとって現れているものであり、それゆえに、竜が出現するときが世界の「運命」が大きく動くときであり、3巻のラストでは竜により時間も空間も超越して、それぞれの登場人物が過去と向き合い、前衛文学とも見紛うヴィジョンが展開される。

 このように『魔法物語』がファンタジーとして異色なものになっているのは、著者がSF出身であるということが大きいと思う。本作で描かれる魔道師は、魔法使いというより科学者に近い。魔道師たちは神の代行者であるよりも、神に成り代わり世界を救う存在であろうとしている。

 何はともあれ、謎は多くを残したままで、4人目の「光の子」の物語が待たれている。恐らくSF的な想像力はこの物語の世界の全体像にも及び、竜の、そして世界の正体が明かされていくのだろう。その中で、それぞれの光の子、そして彼らを探す戦士リバは報われるのか。個人的には、魔道師に体よく利用されながらもそれを自身の「運命」と信じて旅を続けるリバにも、最後は幸せをつかんでほしいと、個人的には思う。

 

 

K・クリパラーニ『ガンディーの生涯(上・下)』(森本達雄訳、レグルス文庫、1983年)A

 読みやすい伝記。もちろん著者は随所でガンディーを讃えているが、熱狂的な崇拝者というほどではなく、また新書版とはいえ上下巻という長さもあり、ガンディー崇拝者には不都合そうな事実もこまごまと拾われていて、比較的バランスの取れた本だと思う。

 元来ガンディーという人が矛盾に満ちており、かなり後の方まで裏切られながらイギリス政府を支持して(非暴力を標榜していたのに)ボーア戦争第一次世界大戦においてはイギリスに味方して志願兵を募ったとか、南アフリカで政治運動を展開したときは現地のインド人のみを対象としてアフリカ人は対象としなかったとか、家族に対しては自身の思想を押し付けようとして軋轢があったとか、ムスリムヒンドゥー教の勢力はガンディーの姿勢を理解せず最後まで対立が絶えなかったとか、一般的なイメージとは離れるところが多々ある。著者はそういったエピソードも紹介して、あまり熱心な弁護はしていない。一応著書や講演から本人の言葉を引用して、単純な理解ができる人物ではないと強調しているが、高度な皮肉と取れなくもない。

 個人的にはガンディーといえば、白い綿布をまとって糸車を回している有名な写真のイメージが強く、ほかの基本的な伝記的事項を全く知らなかったので、それ以外にも読んでいて新鮮な事実が多い。若い頃にイギリスに留学して弁護士になったとか、その政治運動の最初はイギリス領南アフリカにおけるインド人の人権回復運動だったとか、ロマン・ロラントルストイとも交流があったとか色々あるが、その中で特に気になったのは、モーハンダース・カラムチャンド・ガンディーはいかにして「マハトマ(偉大なる魂)・ガンディー」として目覚めたのか、ということである。

 一族の反対を振り切ってイギリスに留学し、念願の弁護士になったものの、生来の口下手のためにろくに弁論ができず廃業し、代書人として細々と生きていた青年が、いかにして聖者と言われ、世界を動かしインド独立を勝ち取るまでになったのか。実際、若いころのガンディーは宗教的熱狂とは無縁だったと本書でさえ述べられており、この変貌はどうにも謎であるらしい。

 本書を読む限りでは、ロンドンに留学した際の、神智学協会やカトリック聖職者との交流がきっかけであったように見える。ガンディーは神智学協会メンバーの紹介で、ヒンドゥー教聖典である『バガヴァット・ギーター』のエドウィン・アーノルドの英訳や聖書など宗教書を読みふけり、それを通じて自国の文化を「発見」し、宗教者として覚醒したのだというのである。つまるところインドがイギリスから独立するためには、イギリスの文化人たちの影響が不可欠だったのだ。後年、神智学協会はインドでジッドゥ・クリシュナムルティを見出すが、ガンディーはその先駆的な存在だったともいえる。イギリスとインドの交流史やオカルトの歴史の側面からのガンディーの研究も読んでみたいものであるが、ロンドンにいたころのガンディーの日記は散逸して残っていないらしい。しかし、どれだけ裏切られてもなかなかイギリスそのものに愛想をつかさなかったのは、彼ら同胞への信頼によるところが大きいのは間違いない。

 不満を言うならば、登場人物が非常に多く、タゴールネルーらのインド人の同志、そしてイギリス人の立場からガンディーに共鳴して熱心に協力した人々など、興味をそそられる人物が多数登場するので、彼らの略伝も欲しかったというところ。本文中によく読めば彼らの事績も読み取れるのだが、読みやすいまとめがあるとなお良いと思う。