神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』A、スコット・ボーグ『消された私』B+

【最近読んだ本】

神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』(中公新書1984年)A

 これはおもしろい。日本史上でも有数の、町人文化の栄えた元禄の世……と、はなやかな江戸の姿を語りおこし、そういったイメージとは異なる「もうひとつの元禄」を、とある尾張藩士の遺した『鸚鵡籠中記』なる日記から織りあげてみせる。

 書いたのは朝日文左衛門重章(1674~1718)という男。特にすぐれた能力をもっていたわけではないが、異様に筆まめであり、18歳のときから死の前年まで、26年8か月におよぶ日記を書いた。野次馬根性が旺盛で、自分のことだけでなく、社会のさまざまな事件の風聞を世に遺した。その日記は彼の死後、名古屋城の藩庫におさめられ、ながらく限られた者たちの間でのみ閲覧されていた。公開されたのは戦後になってからで、とくにこの著書での紹介によって世に知られることになった。

 これは原本が読みたくなる――というのは、神坂次郎の興味がどうしても「男と女」というところに行くので、紹介する世間の事件についてもそういったものの紹介が多くなるのである。怪盗や妖怪の事件など、原文を提示しているだけでろくに説明していないものも結構あって、読む人によってかなり読み味が変わる。ある男の腹から急に声がしだして当人と喧嘩になったとか、焼味噌を恐れる男が無理をして食べようとしたら持った手が腐りだして死んでしまったとか、文左衛門自身も庭に髪の毛のようなものが生えてきて気味が悪いとか、そういったもののほうが個人的には読みたいのだが、これは原文にあたるほかはなさそうである。  

 しかし読んでいてい思うのは本当に人がよく死ぬということで、やはり日常的に刃物をもっているのは危ない。嫁と姑が仲が悪いといって自殺したり、酔った勢いで恨みもない友人を切りつけて死なせてしまったり、現代でも刃物さえあればこういった事件はよく起こっていたのかもしれない。

 

スコット・ボーグ『消された私』(ミステリアス・プレス文庫、1996年、原著1995年)B+

 ネット上でまったく評価がみつからないので期待しないで読みはじめたが、これが意外におもしろかった。文句なく傑作とはいいがたいが、広く読まれてほしい作品である。

 ある日突然、自分そっくりの顔の男に殺されかけ、なんとか逆襲して相手を殺したが、家に帰ってみると自分が殺されたというニュースがかけめぐっている――というカフカめいた発端から、いったい何が起こっているのかをさぐって560ページの彷徨がつづく。ひとつ謎が明かされてもあらたな謎が生みだされて、やや厭世的な主人公のおかげで全体に暗い雰囲気であるが、退屈せずに読める。

 おもしろかったのに、作者はこの一作で沈黙してしまったようである。 

(以下ネタバレ)

 誰かを殺してその人になりかわるという話は、『太陽がいっぱい』をはじめたくさんあるが、犯人が殺そうとして返り討ちにあって殺されてしまうというのが、本作のアイデアである。主人公はわけがわからないまま、自分という人間の存在を乗っとるはずだった男の緻密な計画を逆にたどっていくことになる。そこでもうひとつ本作のアイデアとして、主人公が過去に不幸な目に遭って厭世的になっているせいで、犯人になりかわることに魅力を感じてしまうということがある。奇妙な状況に放りこまれながら、それに安住したい気持ちも持ってしまうところが、本作を一種異様な雰囲気にしているところだろう。

 途中からアイデンティティをめぐる不条理めいた話になるなど、やや強引なところもあるし、これで本当に警察に疑われないものかという疑念もあるのだが、主人公が場に適応しやすいなど意外にお調子者なところもあり、最後まで楽しんで読めた。もっと評価されてほしい作品である。

 それにしてもここまで計画しておいて肝心なところで返り討ちにあうなど、なんともしまらない犯人ではあった。