DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

松岡圭祐『高校事変』B、松尾スズキ『宗教が往く』(上下巻)B

【最近読んだ本】

松岡圭祐『高校事変』(角川文庫、2019年)B

 総理が訪問中の武蔵小杉高校を、突如として謎の武装集団が占拠する。情け容赦なく生徒や教師が殺され、かろうじて身を隠した首相も外部と連絡を絶たれ孤立する中、難を逃れたある少女がひそかに反撃を開始すする。東日本大震災の混乱の中で組織的なテロを繰り広げて死刑になった男を父に持ち、誰からも危険視されている彼女は、持ち前の身体能力や武器の知識を駆使して、友人や総理の救出、そして敵の打倒を目指す。

 女子高生版ダイ・ハードと言ってしまえばそれまでだが、化学室や家庭科室のどこにでもある素材で武器を作るなど雑学のオンパレード、総理(リオオリンピックでマリオの扮装をしたことが触れられるなど、明らかに安倍晋三がモデル)周辺の閣僚たちの有事への右往左往やテロリストが作った「慰安所」をめぐる議論、最後に「この高校は日本の縮図かもしれない」という述懐など、適度に社会批評的な話題を盛り込む姿勢は、『千里眼』シリーズから一貫している。アクションパートや謀略パートも読みやすく、小難しげな議論もすらすらと読めて、読後はなにか、頭が良くなった気分になれる。テロをめぐって映画やアニメへの言及も多数あり、何十年後かには膨大な注釈とともに当時を知るための資料として刊行されるかもしれない。

 さすがにややご都合主義的な展開はある(ケチャップをかぶって死んだふりをしてやり過ごすのがうまくいきそうになるところとか、クライマックスの逆転劇における攻撃範囲の限定とか――そもそもいくらうまくお膳立てされてもこんな計画に乗る人がそんなにいっぱいいるのか? 兵器を買うお金はどこから出ているのか?)。また、松岡圭祐の場合は黒幕の正体が明らかになると途端に話がスケールダウンするという欠点が今回も出ているように思われる。それでも、400ページ以上を一気に読ませる力は確かである。

 しかし読んでいて驚くのは、主人公がためらいもなく敵を殺しまくること。『鬼滅の刃』などもそうだが、最近のフィクションでは、敵を殺すことへの躊躇があまり描かれないように思われる。昔は主人公たるもの極力人を殺さないという不文律のようなものがそこかしこにあって、それこそ『るろうに剣心』(1994-1999)や『トライガン』(1995-2007)、『魔術士オーフェンはぐれ旅』(1994-2003, 2011- )などは、人を殺さないということを作中で前面に押し出し、終盤まで自分の手で敵を殺すことを拒否し続け、殺すということが物語の行く末を左右する重要な事件として描かれていた。刊行当時はアンモラルということで物議をかもした『バトル・ロワイアル』(1999)でさえ、実は「人を殺すことを選択した者から死んでいく」という倫理が徹底されていた(あの世界においては感情を持つことこそが人間の条件であり、感情を持たない二人はそのルールを逸脱して人を殺し続ける)。それが『高校事変』では、一切の躊躇もなく主人公のルールで人が殺されていく。フィクションにおける倫理観というものが、知らないうちに大きく変化しているのかもしれないと、改めて思った。

 

松尾スズキ『宗教が往く』(上下巻、文春文庫、2010年、単行本2004年)B

 福助にそっくりな、フクスケという巨頭の男が、若くして家を追われて上京し、「劇団大人サイズ」という劇団に属する作家となる。劇団はやがて変質して宗教団体となり、彼らはテレビに出て、世間を揺るがす大事件を起こすことになる。

 その間に、ヤクザ、AV男優、芸人、宗教家、マッドサイエンティストといった奇人変人のエピソードが時には主人公そっちのけで語られ、ヒヒ熱というエボラよりも兇悪な伝染病の蔓延する世紀末的な東京を描き出していく。

 読んでいる間の個々のエピソードは面白いのだが、全体として見たとき急に退屈になるという、少々困った本である。つまり、饒舌な文体、現実とリンクする私小説的な要素(モデルは松尾スズキだけでなく、阿部サダヲ宮藤官九郎井口昇などいっぱいいる)、AVやセックスなどやや下世話な話題、世間を揺るがす大規模な陰謀、未知の伝染病、テレビや演劇を駆使したメディア論的なストーリー、二つの同時に起こっている事件を並列して語る実験的な文体、ところどころで現れる作者、メタフィクション的な仕掛け、クライマックスをちょっと外すような結末――などなど、ひとつひとつは松尾スズキらしさが出て面白いのだが、総体としてみると、よくあるポストモダン文学のひとつという印象である。もちろん松尾スズキはそれを知っていて書いているわけで、これ自体が壮大なポストモダン文学のパロディと言えなくもないのだが、それにしてもやはり読み終えて思うのは「またか」ということだろう。

 本作は1998年から2004年にかけて連載され、まさにオウム事件がまだ過去のものではなかった時代に、ありえたかもしれない東京の姿を幻視したものといえる。そのテンションが世紀をまたいで6年も持続して書かれ続けたのはすごいことであり、当時の想像力の極北を示している作品である。