DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

小野不由美『残穢』B+、マイク・レズニック『キリンヤガ』D

【最近読んだ本】

小野不由美残穢』(新潮文庫、2015年、単行本2012年)B+

 最近の作品のような気がしていたが、もう10年も前の作品なのだった。

 歴史学的なロマンを持たぬでもないルポルタージュ風の作品で、小野不由美自身と思しき「私」とファンである久保という女性による、怪異をめぐるいささか地味な調査がおさえた筆致で語られる。なんだ、意外に怖くないな……と思いながら読んでいたのだが、読み終えた夜、ひとりで部屋にいると急に背後が不安になってきた。しっかり影響を受けている。

 発端となる、背後できこえてくる畳をこするような音――まるで天井からなにかぶらさがって、揺れながら畳をこすっているような――さらにいえば、何者かが帯で首を吊って、長い帯が余って畳をこすっているような――といった音がするというのは、昔別の怪談本でも読んだことがあるくらいには、ポピュラーな「怪談」である。ある家で祖母が亡くなった後、祖母の部屋で毎晩、「パタパタ、サッサッサッ」と誰もいないのに畳を掃いているような音がする。家族は、これはきれい好きの祖母の霊が掃除をしているのだろうと考えた、というお話。

 実はこれは、正体がわかっている。光瀬龍の『ロン先生の虫眼鏡』によると、これはチャタテムシというごく小さな虫のたてる鳴き声なのである。チャタテ、とはつまり、茶道でお茶を立てるときの音というわけで、まさになにかが畳をこするような音とも、ほうきで部屋を掃く音ともとれる。

 だからこの久保という人も、マンションをめぐる死者など調べないで、虫が湧いていないか探せばよかったのである。それが、マンションの周辺で起こった怪異を異様な執念で何年もかけてたどっていくうちに、調査は昭和、戦前と時代をさかのぼり、東京から遠く離れた北九州の「根源」にまで行きついてしまう。といっても、掘り起こされてくる「怪異」のひとつひとつは、そのマンションや周辺の土地で起こったというだけで本当につながりがあるものかもわからず、実際ちょっと本気を出して探せばそこらにいくらでもあるのでは、などと思わなくもない。しかし、そんな風にケチをつけてみても、それぞれがつながっていやおうなしに大きな「何か」が少しずつ見えてきて、読者自身も知らぬうちにそれに巻き込まれているのがわかるというのは、読み終えてみるととても怖いのだった。

 

マイク・レズニック『キリンヤガ』(内田昌之訳、ハヤカワ文庫、1999年、原著1998年)D

 おどろいた。こんな「後味の悪い」系の話であるとは思わなかったのだ。オールタイムベストにもたびたびあげられる作品で、特に「空にふれた少女」が良い、という話は聞いていたものの、こんな「厭な話」だなどという評価はどこにも見なかったように思う。実際に読んでみないとわからないものだ。

 お話は文化人類学SFともいうべきものである。地球上がどこもかしこもヨーロッパ文明の開発にさらされた未来、キクユ族の老人・コリバは、キクユ部族もまた西洋文明を受け入れることで、神話的な伝統を忘れたただの「黒いヨーロッパ人」になってしまうことを恐れていた。彼は同調するキクユ族を引き連れて小惑星キリンヤガに移住し、そこで真のユートピアの創造を目指す。コリバはそこで祈祷師として君臨し、呪いや教えを通じて人々を導こうとする。

 この「指導」がいちいち不快である。現実はなかなかコリバの思い通りにならず、人々は絶えず変化と進歩を望み、西洋文明を取り入れようとする。また、外部からも様々な人が惑星を訪れ、コリバの独善的なやり方に口出しをしてくる。しかしコリバは神の名のもとに、それらをことごとく排除する。逆子が生まれれば呪われているからと言って殺し、ある少女が言葉を学ぼうと望むと女性には許されないとしてその手段を取り上げ、薬があれば治せる病気も薬は西洋文明の産物だからと拒否して悪化させ、掟にそむくものがいれば惑星の管理局に頼んで星に旱魃をもたらす。彼ひとりがひそかにコンピュータを駆使し、まるで本物の呪い師のように力を振るうのだ。その独善は概して悲劇をもたらし、人々を不幸せにする。しかしコリバは、その結果に悲しみはするものの、これがキクユ族のためだと断定して、決して行動を改めようとはしない。

 これがなんとも、いらだつのである。その話の通じなさは、読んでいて絶望的なくらいである。キクユ族の酋長やコリバの息子は何度となく、西洋だからと一概に否定せず、便利なものは利用するように説得するが、コリバの返答は、ひとたび西洋文明を受け入れればキクユ族はただの「黒いヨーロッパ人」になってしまうの一点張りである。しかもそれはコリバではなく神の意志なのだ。これは単純ながら、証明も否定もできない原則であるがゆえに強固である。発言ひとつひとつを取れば筋は通っているのに、全体の中で見れば狂人の論理であるという厄介なものでもある。読者にもコリバとそれ以外の人々の間にそびえる厚い壁の存在を感じさせる。

 気楽な娯楽SFの書き手と見せかけて、レズニックは相当に周到である。コリバの振りかざす「神の怒り」は、結局のところと人々がコリバに逆らったことへの八つ当たりでしかないことは指摘されており、コリバの統治の欺瞞は読者にも明らかである。いっぽうでコリバを糾弾する側にも、西洋文明の傲慢な側面が描かれ、コリバと西洋文明のどちらにも分があることを作中で抜け目なく描いているのだ。図式的に描きながらも常に単純な二分法にとどまらない要素を残すなど、多面的な批評の視点を持つように作ってあるところが、あざといとも言える。このあたりは、アメリカにおけるヒッピーコミューンの実践と失敗の蓄積が背景にあるのかもしれない。レズニックがヒッピー・ムーヴメントにどのような態度を取っていたのかは知らないが。

 しかし――コリバが頑固に主張するように、キクユ族の伝統社会と西洋文明のテクノロジーは相容れないものなのだろうか? 以前読んだウィリアム・カムクワンバ『風をつかまえた少年』(文藝春秋)は、マラウイの一農村で育った少年が自力で風車を作り、村に電気をもたらした顛末を綴った自伝である。少年が創意工夫で風車を創り上げていくところも確かに面白いが、個人的にはとりわけ、序盤の呪術的な世界観とテクノロジー的世界観が入り混じった村の風景が、マジックリアリズムのような印象を残した。現実というものはコリバが思い描くよりも強靭なものであり、便利なものは、それが旧来の伝統に反するものであっても、色々理由をつけて折り合いをつけ、迷いなく取り入れていく。現にコリバだって、コンピュータを駆使して気候を操ることまでしてキクユ族を支配していたのだ。そもそも何か便利なものが生みだされた時、それが西洋のものか、純粋にキクユ族の知恵によるものか、どうやって判断するのか?

 そこで重要になるのが、コリバがケンブリッジとイエールで学んだインテリだということだろう。大学で何を学んだかは書かれていないが、おそらくケニアの歴史を研究したのではないか。その、西洋文明を通して理解されたキクユ族のイメージこそが、コリバが守ろうとしたものであり、彼が排除しようとした西洋文明もまた、コリバが学んだ範囲のものでしかない。コリバが守ろうとするキクユ族社会における「酋長」という制度は西洋人がキクユ族統治のために作ったものであり、コリバが再三主張する「ユートピア」という概念も西洋文明の借り物であるということは、いみじくも作中でも指摘され、コリバは神の怒りを振りかざして黙らせることしかできない。西洋文明の枠組みの中でキクユ族の伝統を守ろうとする、コリバの欺瞞はそこにある。便利なものは積極的に取り入れ、時代とともに変化しながらも、キクユ族においてなお変わらないものを見出すこと――コリバが目指すべきはそれだったのではないか。たとえそれがコリバの忌み嫌う「黒いヨーロッパ人」でしかないにしても。しかし「黒いヨーロッパ人」などという漠然とした観念を徹底して嫌悪するコリバは、周囲の声にいっさい耳を貸すことはないのだ。西洋文明の中に立ちながら、西洋文明を排斥しようとする、その矛盾の中で周囲が犠牲になっていく、そこがどうにも許せなかった。

 これはもう、このインチキ祈祷師が野垂れ死にするか非業の死を遂げるところを見届けなければ気が済まない、という意地で最後まで読んだが、ハッピーエンドではないものの、とても満足できるものではなかった。彼は最後の最後まで自分の意地を曲げず――まあ心の底では最初から全部わかっていたのかもしれないが――真のユートピアを目指して姿を消す。彼は彼の狂気を最後まで貫いてしまうのだ。いっそ最後に出てきたアレに蹴り殺されれば良いのに、と期待したのだが、そうはならなかった。考えてみればあのラストは、作中を通してただのペテン師と変わらなかった彼が、それでも本当に、なにがしかの力を持っていたことを示すために、必要なものだったのだろう。そうやって両義性を示して――悪く言えばどっちつかずに終わるあたり、徹底して読者に対して意地悪な小説であった。