DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

 菱沢九月の『のらいぬ』(SHYノベルス)を読んだ。
(注・BL小説)
 文学っぽいと思った。暴力が全編にわたって描かれ、それが現状からの脱出の希求に基づいているあたりが。90年代の文藝賞受賞作あたりを読んでいるような感じ。
この物語で少年――高津がのがれようとしている現状とは、母親からの呪縛である。
 夫に捨てられ自殺未遂による入院をくりかえす廃人同様の彼女は、息子の誕生日にまで自殺を企てながら、それでも息子への愛は喪わない。高津はそれに応えようとしながらも、どうしようもない現実への空虚を感じている。彼の幼なじみで、彼が唯一心を開く対象である岩浅はそんな彼に心を痛め、無気力でいた高津に暴力というはけ口を与え、さらに女性を嫌う彼のために彼との性行為にまで及ぶ。
 母親の愛という呪縛による女性忌避と同性愛、というパターンは松本ミーコハウスの『恋の真ん中』などでも見られ、傑作も多いが、別にBLの典型パターンというわけではなく、逃避のあり方は様々に考えられる以上、多数のジャンルで見出すことができる。いま思いつくだけでも安彦良和の『ネロ』、石原慎太郎の『化石の森』、井上夢人の『あくむ』など傑作・怪作が多い。
 しかしこの種の話でもっとも有名なのは寺山修司かもしれない。彼が母親のもとから終生逃げられず(母は寺山の死後8年生きた)、その鬱屈から逃れるように母殺しの物語を多数書いたことは、彼の周囲の人間の証言からよく知られているが、長尾三郎の『虚構地獄 寺山修司』によると、寺山の母はそれを知りながら息子の創作のためと称して一緒に住むことを望んだ。寺山が九絛今日子と結婚して出て行ったときは二人のアパートに放火するなど常軌を逸した行動を示した彼女は、しかし変わらずに彼を愛し続けたのである。前述の作品でも同様の行動が見られる。
 彼らの母親は、息子を否定しながら(何しろ高津の母は高津の誕生日に自殺未遂を起こすのだ)、しかし決して手放そうとはしない。河合隼雄は『こころの処方箋』である少年の「理解のある親を持つとたまらない」という言葉を紹介して、現代の親子関係の問題点を端的に指摘したが、理解するにせよしないにせよ、何をしても解放されることがないという点において、彼らにとっての母親は決して幻想ではない、実在する怪物となる。
 以上からも推測できるように、母と息子の関係は複雑を極めるがゆえに、『のらいぬ』において同性愛は逃避の試みのひとつに過ぎず、結局それによって救われることもない(これはBL小説というジャンルの中では珍しいように思われる)。
 物語は高津ではなく、先述の幼なじみ・岩浅の視点から、彼の高津への愛情と、それと不可分の彼に対する独占欲によって駆動される。バイセクシャルで、深くは語られないもののやはり鬱屈を抱える岩浅は、高津が自分に隠れて野良犬の世話をしていたことを知ってショックを受ける。その野良犬が殺される事件とその顛末が小さなクライマックスとなる。高津は犬が殺されたのは自分のせいだと思い、自分が殺したと岩浅に語るが、それが嘘であることを知る岩浅は高津を救うためにその真相を追う。
 狂犬たる高津と野良犬の交流、その終焉という陳腐な物語を経ても、高津を取り巻く環境は何か変化するでもない。『のらいぬ』という物語は一応は起承転結に沿った構造は持ち合わせているものの、同時に高津と岩浅の二人の人生のほんの一部のみを切り取って示したにすぎないことを痛感させられる。おそらく本質的なことはこの先に起こる。起こらないのかもしれないが、それではあまりにも救われない。
 福井弁によって描き出される地方都市の風景は、読者から硬質に隔絶され、それ自体閉塞している。BLでは異色な作品であるためか、残念ながら続編はないようだ。おそらく彼らを待ち受けるのは悲劇でしかないだろうが、それでも個人的にはまた彼らの物語を読みたいと思う。

のらいぬ (SHYノベルズ)

のらいぬ (SHYノベルズ)