塚本青史『始皇帝』B、咲村観『始皇帝』B、イアン・フレミング『カジノ・ロワイヤル』A

【最近読んだ本】

塚本青史始皇帝』(講談社文庫、2009年、単行本2006年)B

咲村観『始皇帝』(PHP文庫、2007年、単行本1983年)B

 始皇帝の伝記小説が相次いで手に入ったので続けて読んでみたが、描かれる人間像は驚くほど似ている。ひどく暗いのである。

 その事績を見れば、父親が秦王の何人もいる王子の一人だったのが思いがけず後継者に選ばれ、その父王が早死にしたことから若くして王となり、それから10年ほどで中国全土を統一して始皇帝になる――という、壮大な物語のはずなのだが、ここで描かれる、後の始皇帝・政はたいして野望や人望を持たない平凡な男である。しかし人生の要所要所で呂不韋、李斯、韓非子、尉繚、王翦などといった有能で野心的な臣に恵まれて勢力を拡大して行き、彼らの多くはやがて相次いでトラブルを起こして滅んでいき、その屍を踏み越えて政は始皇帝となる。

 一貫して始皇帝自身は大した才覚を見せず、ただ目前で起きる反乱や侵攻に対処していくだけ。ただ性格においてはときどき見せる、執念深く裏切りや侮辱を一切許さない面が人生の原動力となる。その生涯は不安と猜疑の日々であり、塚本も咲村も全1巻と短めに描いているせいか、安息の日々はほとんどなさそうな人生である。

 読み比べるとほぼ同じ内容で塚本の方がディティールに優れているが、咲村の方は始皇帝は政治よりも土木工事を好んだとか、臨機応変に事に当たったなど興味深い指摘もある。

巨大な土木工事が、政(始皇帝・引用者注)は好きであった。設計の詳密さに、担当者は「王ともあろうお方が、このような絵図面まで……」と驚きの言葉を放っていた。(p.94)

 機に臨み、変に応じて行き方を変える。これは生まれついて以来の政の性格であった。誰に教えられたというものでもない。困難に遭遇すれば、自然にその方向へ心が動くのである。

 この気性ゆえに、政は諸侯や家臣をあやつって、天下平定を成し遂げることができた。だが、一たび権力を掌握すれば、本心に従って行動し、他をおもんぱかることをしなかった。みずからそれに気づきながら、最後には己れの意思を優先させたのである。(pp.292-293)

  このあたりは実際、本質をついているのではあるまいか。

  読み終えてみると、晩年に不老長寿への妄執に取りつかれて醜態をさらしたのがやはりまずかったというか、多分そこから逆算して二人とも始皇帝の性格を成型したのだと思われるけれど、もう少し小説として面白くしてもらいたかったという気もしてしまう。

 

イアン・フレミングカジノ・ロワイヤル』(井上一夫訳、創元推理文庫、1963年、原著1953年)A

 スパイ小説史上の記念碑的作品であるジェームズ・ボンドシリーズの第一作。

 時は冷戦のまっただなか、フランス共産党の大物で謎の国際スパイ組織「スメルシュ」の幹部であるル・シッフルが、組織の資金の使い込みを隠すため、カジノで一攫千金を目論む。それを知った西側の組織は、彼をギャンブルで負かして失脚させるため、英米仏のスパイをカジノへ送り込む。

 スパイ小説の歴史は、ジョゼフ・コンラッドサマセット・モームグレアム・グリーンなどの「暗い」文学路線に始まったのが、フレミングの登場により娯楽路線がスパイ小説界を席捲した。以後は文学路線と娯楽路線がせめぎあい、スパイ小説というジャンルをよくわからないものにしてしまった――というのが個人的な見解であるが、本作は第一作にして早くも「娯楽小説としてのスパイ小説」の完成形を示しているといえる。

 ここで描かれるのは、あくまで知的なスリルに満ちた冒険小説であり、東西冷戦の国際情勢などお膳立ての方便にすぎない。ギャンブル対決がそのまま東西の対決になるという一歩引いてみればギャグにしか見えない状況を大真面目に描くことで娯楽に徹している分、後年の文学路線と娯楽路線の両立を図った過度に複雑なスパイ小説群よりよほど面白いともいえる。

 そこで貫かれるのはいかにもイギリスらしい、フェアプレイの精神である。英国情報部の金で安全圏からのギャンブルという「ズル」をしたボンドは、自身の有り金をすべて賭けて敗北したル・シッフルに誘拐され、死ぬ寸前まで叩きのめされる。しかしそうやってギャンブルの負けをゲームの外で奪い返そうとしたル・シッフルは、ソ連の暗殺者に粛清されることになる。因果応報の物語を彩るのは、美女との駆け引きやグルメの蘊蓄、エリート同士の韜晦めいた会話、一種凄惨なアクションの数々である。悪趣味な俗っぽさの中にインテリをくすぐる要素もちりばめられている。

 かつて三好徹と石川喬司はフレミングを指して「あれは酒と女の情報小説だ」と批判していたことがある(集英社文庫の『情報小説傑作選』だったか)。実際に読んでみると、酒に関しては、作中で新しいカクテルを生み出しているくらいだからいいとして、女についてはどうか。

 本作のヒロインとなるヴェスパーは、任務においてボンドの助手を務め、その魅力についてはボンドも認めるものの、任務中は冷たくされ、その後は誘拐されてボンドの内心で罵倒されるなど足手まといになり、任務のあとは、死にかけたショックを癒すための慰めとしてのみボンドに必要とされ、最後にはソ連のスパイとしての正体を明かして自殺する。ここにあるのは女性蔑視あるいは女嫌いとしか思えず、映画版の華やかなボンドガールとはかけ離れている。このあたり、現在はどう評価されているか気になるところだ。

斎藤肇『<魔法物語>シリーズ』A、K・クリパラーニ『ガンディーの生涯』A

【最近読んだ本】

斎藤肇『<魔法物語>シリーズ』A

『魔法物語 上 黒い風のトーフェ』(講談社文庫、1993年、単行本1990年)

『魔法物語 下 青い光のルクセ』(講談社文庫、1993年、単行本1990年)

『新・魔法物語 竜形の少年』(講談社文庫、1996年)

『魔法物語3 竜形の闇』(自費出版、新・魔法物語のリメイク、2019年)

光の子を探すがいい

彼は世界を動かす

ひとりは黒き風

ひとりは闇の種

ひとりは滅びの光

ひとりは熱き星

いずれかが救いとなる(魔法物語上巻p.165)

 

 久々に長編ファンタジーを読んだ。斎藤肇は「異形コレクション」に収められたSF・ホラー系の短編でしか読んだことがなかったが、ファンタジー小説のこれも面白かった。そのまま読み逃していたが、90年に日本でこんな本格ファンタジーが書かれていたというのは全く知らなかった。

 物語は、一見オーソドックスな冒険ファンタジーとして始まる。『風の谷のナウシカ』のユパさながらの戦士リバが、冒頭に掲げた詩で予言された、世界を滅びから救う力をもつ四人の「光の子」を探す旅に出る。

 それぞれの巻が一人の光の子の物語となる構成で、全体がリバの生涯を賭けた旅の物語でもある。次々に現れる怪物を卓越した剣技や魔法の力で倒していくところは、堅実な描写で読ませるものがある。超人的な戦いぶりを発揮している割にはそれを感じさせない(反面、みんな満身創痍で戦っているように見えて心配になるが……)。また、世界全体がどうなっているのかがよくわからない(他の国はあるのかとか、魔法というのは一般人の間ではどの程度身近な存在なのかとか)といった不満はあるものの、その分政治劇や曲芸めいたアクションとは無縁の、地に足のついた戦いぶりが見られ、その中で光の子や世界の滅びをめぐる真実が少しずつ明らかになっていく。

 本作は魔法物語上下巻、新・魔法物語で3人の「光の子」の物語が描かれ、長い間途絶していたが、大幅な加筆修正のもとで3巻が自費出版でリメイクされ(現在は著者のサイト経由で入手可能)、4人目の「光の子」の物語も執筆中であるという。まさに著者のライフワークといってよい壮大な物語となっている。

 しかしこの物語は、2巻ラスト以降、一般的なファンタジーからは逸脱して、独自の道を進んでいるように思われる。ネタバレになってしまうが、2巻において――つまり二人目の「光の子」が見つかった時点で、世界を滅ぼす「もの」が倒されてしまうという、大番狂わせが起こるのだ。ではいまだ見ぬあと二人の「光の子」の立場はどうなってしまうのかというと、3巻に入り、物語は全く新たな滅びの危機を見せ、そしてその全貌はいまだに見えてはいないところで続きを待っている。

 なぜこのような展開になっているのかと考えると、この作品の特色として、「運命」という言葉が二つの意味で使われているところにあると思う。一つは「光の子」が持って生まれた力によって世界を救うという、魔道師が定めた「運命」。そしてもう一つは、それよりももっと上位にある、世界全体の「運命」である。前者はあくまで人間が決めた、人工的なものであり、後者は個人の思惑や感傷とは隔たったところにあり、魔道師もまたその一部に過ぎない。「歴史」などとも言い換えられるだろう。

 この二つは、普通のファンタジーでは一致している。古典的なパターンでは、世界は光と闇の対立という構造を持ち、主人公たる光の勇者が闇の魔王を打倒すると、世界に平和が訪れる。よく考えると勇者と魔王の対立は世界の平和と関係あるとは限らないのだが、これが無前提に直結していることで、個人の物語と世界の物語が一体化し、自分たちは歴史の動く場に居合わせるというカタルシスを読者に与える。

 しかし『魔法物語』ではそこまで単純ではなく、この二つの「運命」は必ずしも一致しない。最初に提示される光の子という「運命」は、あくまで魔道師の決めたものでしかなく、彼ら魔道師をも歯車のひとつとした、もっと大きな「運命」の存在がようやく見えてきたところなのだ。その全貌はまだ明らかになってはいないが、恐らく序盤から重要な存在となっていた「竜」が重要になってくるものと思われる。本作での竜は生物というより、魔法という概念が世界に形をとって現れているものであり、それゆえに、竜が出現するときが世界の「運命」が大きく動くときであり、3巻のラストでは竜により時間も空間も超越して、それぞれの登場人物が過去と向き合い、前衛文学とも見紛うヴィジョンが展開される。

 このように『魔法物語』がファンタジーとして異色なものになっているのは、著者がSF出身であるということが大きいと思う。本作で描かれる魔道師は、魔法使いというより科学者に近い。魔道師たちは神の代行者であるよりも、神に成り代わり世界を救う存在であろうとしている。

 何はともあれ、謎は多くを残したままで、4人目の「光の子」の物語が待たれている。恐らくSF的な想像力はこの物語の世界の全体像にも及び、竜の、そして世界の正体が明かされていくのだろう。その中で、それぞれの光の子、そして彼らを探す戦士リバは報われるのか。個人的には、魔道師に体よく利用されながらもそれを自身の「運命」と信じて旅を続けるリバにも、最後は幸せをつかんでほしいと、個人的には思う。

 

 

K・クリパラーニ『ガンディーの生涯(上・下)』(森本達雄訳、レグルス文庫、1983年)A

 読みやすい伝記。もちろん著者は随所でガンディーを讃えているが、熱狂的な崇拝者というほどではなく、また新書版とはいえ上下巻という長さもあり、ガンディー崇拝者には不都合そうな事実もこまごまと拾われていて、比較的バランスの取れた本だと思う。

 元来ガンディーという人が矛盾に満ちており、かなり後の方まで裏切られながらイギリス政府を支持して(非暴力を標榜していたのに)ボーア戦争第一次世界大戦においてはイギリスに味方して志願兵を募ったとか、南アフリカで政治運動を展開したときは現地のインド人のみを対象としてアフリカ人は対象としなかったとか、家族に対しては自身の思想を押し付けようとして軋轢があったとか、ムスリムヒンドゥー教の勢力はガンディーの姿勢を理解せず最後まで対立が絶えなかったとか、一般的なイメージとは離れるところが多々ある。著者はそういったエピソードも紹介して、あまり熱心な弁護はしていない。一応著書や講演から本人の言葉を引用して、単純な理解ができる人物ではないと強調しているが、高度な皮肉と取れなくもない。

 個人的にはガンディーといえば、白い綿布をまとって糸車を回している有名な写真のイメージが強く、ほかの基本的な伝記的事項を全く知らなかったので、それ以外にも読んでいて新鮮な事実が多い。若い頃にイギリスに留学して弁護士になったとか、その政治運動の最初はイギリス領南アフリカにおけるインド人の人権回復運動だったとか、ロマン・ロラントルストイとも交流があったとか色々あるが、その中で特に気になったのは、モーハンダース・カラムチャンド・ガンディーはいかにして「マハトマ(偉大なる魂)・ガンディー」として目覚めたのか、ということである。

 一族の反対を振り切ってイギリスに留学し、念願の弁護士になったものの、生来の口下手のためにろくに弁論ができず廃業し、代書人として細々と生きていた青年が、いかにして聖者と言われ、世界を動かしインド独立を勝ち取るまでになったのか。実際、若いころのガンディーは宗教的熱狂とは無縁だったと本書でさえ述べられており、この変貌はどうにも謎であるらしい。

 本書を読む限りでは、ロンドンに留学した際の、神智学協会やカトリック聖職者との交流がきっかけであったように見える。ガンディーは神智学協会メンバーの紹介で、ヒンドゥー教聖典である『バガヴァット・ギーター』のエドウィン・アーノルドの英訳や聖書など宗教書を読みふけり、それを通じて自国の文化を「発見」し、宗教者として覚醒したのだというのである。つまるところインドがイギリスから独立するためには、イギリスの文化人たちの影響が不可欠だったのだ。後年、神智学協会はインドでジッドゥ・クリシュナムルティを見出すが、ガンディーはその先駆的な存在だったともいえる。イギリスとインドの交流史やオカルトの歴史の側面からのガンディーの研究も読んでみたいものであるが、ロンドンにいたころのガンディーの日記は散逸して残っていないらしい。しかし、どれだけ裏切られてもなかなかイギリスそのものに愛想をつかさなかったのは、彼ら同胞への信頼によるところが大きいのは間違いない。

 不満を言うならば、登場人物が非常に多く、タゴールネルーらのインド人の同志、そしてイギリス人の立場からガンディーに共鳴して熱心に協力した人々など、興味をそそられる人物が多数登場するので、彼らの略伝も欲しかったというところ。本文中によく読めば彼らの事績も読み取れるのだが、読みやすいまとめがあるとなお良いと思う。

星新一『白い服の男』A、ジョン・バーンズ『軌道通信』B

【最近読んだ本】

星新一白い服の男』(新潮文庫、1977年8月)A

 久しぶりに読んだ。ショートショートとしてはやや長めだろうか。

 よく言えば寓話的、悪く言えば単純で、メッセージがわかりやすすぎるきらいはあるが、それだけに後に生まれた色々な物語の原型みたいなものが見えてくるのが面白い。たとえば「白い服の男」は赤城大空下ネタという概念が存在しない退屈な世界』(ガガガ文庫)との類似でよく挙げられていた覚えがあるし、個人的に注目したのは「特殊大量殺人機」である。これは、「特定の条件に当てはまる人間を選んで殺せる機械」が発明され、それによる世界平和を目指す発明者と、世界の支配を目論む各勢力がドタバタ劇を繰り広げるというものであり、小畑健大場つぐみの『デスノート』とアイデアがよく似ている。

 だからといって、別にパクりというわけではない。星新一の場合は冷戦時代の核抑止論への皮肉が前提にあり、『デスノート』は清涼院流水など新本格ミステリを背景にしたゲーム的な発想があると思われ、全くアプローチは違うのだ*1。しかしそれが結果的に似た構図の作品を生み出すのが面白いところである。

 しかし、かつて気楽に読んだときと比べると、今は作者に関する伝記的な知識があるせいか、厭世的な気分をそこかしこに見出してしまう。元になった単行本はハヤカワ・SF・シリーズで出た『午後の恐竜』だというからなおさらだろう。コントのような話もあるが、半分以上がディストピアものである。これらの作中で、ディストピアに生きる人々は、いずれも最後まで日常に何の疑問を持つこともなく生きており、抵抗することなど思いもよらない。

 そうして星新一の作品群を通してわれわれ読者は、ディストピアを創り上げた体制側と、それに安住する人々のどちらにも属さず、両方を批判的に見る特権的な位置に、強制的に立たされる。星新一の創りあげるディストピアはひどく堅牢強固であり、読んだ後でそれに対する抵抗や変革といった方法を考えさせる余地がないように見える。とはいえだからといって、物語が我々に危害を加える心配はないわけだから、読者が置かれるのは、何もできず、する気もなく、しかし本質は見通している観察者という、安楽だが何の役にも立たない人間という立場である。

 そういう物語ももちろんあって良いのだが――しかし少なくともオーウェルの『1984年』や『動物農場』を読み終えた時は、この中でうまく抵抗するにはどうすればよいか無意識に考えてさせられた気がする。それと星新一ディストピアものとは、まったく異質の読書体験だったのではないか。こういうものに慣れ親しんだことが自分にどのような影響を与えているのか考えると、ちょっと恐ろしい気がする。

 

ジョン・バーンズ『軌道通信』(小野田和子訳、1996年、原著1991年)B

 宇宙時代の少年少女のスクールライフを描く佳品であり、TVアニメ『宇宙のステルヴィア』(2003年)を思い出させる。宇宙空間ならではのスポーツ、エリートたちが受ける特殊な教育などの要素も似通っている。

 時代は2025年、1990年代に戦争や疫病で地球が壊滅的な被害を受け(ユーロ戦争やミュート・エイズによるダイ・オフと説明されている)、一部の人類は宇宙に逃れて衛星を改造し、そこで独立した社会を営んでいる。主人公たち少年少女は、地球での生活を知らない、宇宙で生まれた第一世代にあたる。主人公の少女(13歳)が地球の人へ向けたレポートの「草稿」という形で、理解ある大人たちの庇護のもと、地球からの転校生との出会いやクラス内での対立、成績が上がらないことへのコンプレックス、クラスメイトとの初恋など、青春小説らしいストーリーが描かれる。(以下ネタバレ)

 普通はこういう設定では、何世代も後の安定した社会を描くのが定石であり、わずか一世代でこんな安定した社会を実現できるわけがないというのは誰もが思うところである。実際、終盤になると、実は子どもたちは周到なマインド・コントロールを受けて生活していることが徐々に明らかになっていく。上に挙げた青春小説らしいイベントも、この特殊な社会の担い手に成長するための計画されたものでしかないことが少しずつ明らかになっていくのは、語り口の巧みさと相まってなかなかスリリングではある。

 惜しむらくは本書はシリーズものの一作目なのに、その後の作品が訳されていないことである。この社会がどのように変質していくのか興味はあるが、未来社会独自の言い回しや価値観の描写なども多く、自分の英語力では難しそうだ。

*1:デスノート』が第二部で失速したと言われる(個人的には第二部の方が好きだが)のは、デスノートというストーリーの根幹を握るはずのアイテムが、戦略の一要素に過ぎなくなったことにより神秘性を喪ってしまったことがあると思う。最近発表された続編はますますその傾向を強めている。星新一の短編は奇しくもその隘路を予見させるものとなっているのではないか。

早乙女貢『志士の肖像(上・下)』A、三好京三『子育てごっこ』C

【最近読んだ本】

早乙女貢『志士の肖像(上・下)』(集英社文庫、1995年、単行本1989年)A

 14歳という最年少で松下村塾に入塾し、幕末から明治維新の動乱を生き抜き、明治政府では陸軍中将や司法大臣として活躍した、山田顕義が主人公。彼は明治時代には会津出身者とも親しい交流があったせいか、ならず者ばかりとして描かれる薩長出身者の中では、会津推しの作者により品行方正な才人として描かれている。

 一応、扱っている時期としては『若き獅子たち』の続編にあたる(『若き獅子たち』は八月十八日の政変天誅組の壊滅がクライマックスだが、『志士の肖像』は八月十八日の政変と生野の変を始まりとする)が、暗殺と内ゲバでひたすら凄惨だった『若き獅子たち』に比べると、まるで別世界のようで、無駄な濡れ場などもなく、ずいぶん読みやすい。

 しかし苛烈な書きぶりは相変わらずで、大村益次郎など、暗殺された際は抵抗もせず逃げ回っていたことを罵倒されたあげく、負傷した脚を切断してなんとか延命しようとしたことまでも、同じ状況でそれを拒否し、武士として死んだ河井継之助と対比して非難されるなど、憎悪が常軌を逸している感じがある。他の人物も、豪快に見せて勢いだけの実は小心な高杉晋作、才覚もなく粗暴なのにうまく立ち回って絶大な権力を手に入れた黒田清隆、非常な自信家ゆえに才能さえ生かせればどこに属しても満足だった榎本武揚、なんとなく得体のしれない雰囲気で大物と思われていただけの西郷隆盛など、およそ好感が持てる描き方をされない。

 しかし本作も史料の調査力はさすがで、禁門の変で敗走した長州藩士たちが京都を脱出できたのは、西本願寺に匿われたからであるとか(そのためのちに新選組に目を付けられて西本願寺が屯所とされた)、あまり触れられないようなところもしっかり書いている。他にも愚かな好戦派として描かれやすい来嶋又兵衛が若者にも慕われる経験豊かな大人として描かれたり、桂小五郎がやや軽率で禁門の変の勝利を確信していたりと、あまり見られない性格付けがされているのも面白い。薩長を憎むあまり、実は西郷の死は、生き延びようと逃げ回っているのを見苦しいと桐野利秋に射殺されたなどという説も、ここぞとばかりに余談として紹介されている。あるいは高杉晋作は下関戦争における和議交渉では、ひたすら「ノー!」を言うだけだったことにされて、古事記を暗唱して煙に巻いたという、伊藤博文の回想にのみ登場する真偽不明のエピソードは見向きもされていないとか。調べられるだけ調べて、あくまで史実を曲げず、隙あらばひたすら薩長を罵倒するという姿勢は一貫していて、逆に痛快ですらある。

 しかし有名どころの人物が大暴れする中で、主人公たる山田顕義は、用兵には大村益次郎に次ぐ才能を示しながらも、小柄で童顔なせいか何かと侮られて重用されず、文官に転じてからも山県有朋らの権勢欲に任せた暴走に翻弄され、最後は疲れ切って死んだ感があり、あまり読後感はよくない。とはいえ彼は結局のところ維新史を語る上での狂言回しに過ぎない感もあり、会津推し・薩長憎しの視点から上下巻で明治維新史が再構成されていくダイナミックさは比類がない。

 

三好京三『子育てごっこ』(文春文庫、1979年、単行本1976年) C

 ひどく不快な小説である。

 『ファーブル昆虫記』の翻訳や『気違い部落周游紀行』などの著作で知られる作家・きだみのる(1895-1975)は、一方で定住を嫌い放浪して暮らす奇人でもあった。

 彼が80歳近い晩年に連れ歩いていたミミという女の子(本作では吏華という名前)を、田舎の分校の教師をしていた三好夫婦が家に引き取って育てたことをもとにした、おそらくほぼ私小説的な作品が本書である。

 なにしろ10歳まで小学校に行かなかった子どもを引き取るのだから、一応は日教組に囚われない自由な教育を自認している三好といえどもうまくいかないのは予想できるが、それにしても三好は引き取った女の子に対して普通に体罰を振るうし、かなり気紛れに不機嫌になって良い子にしても褒めなかったり、授業中の態度が悪いといって無視したりで、時にその暴言は妻にまで向く。

 吏華のそばに行き、耳元で、

「(教室から)出て行け!」

 と叫んだ。

「うるさいわね、いやよ」

 吏華は平然とした顔で言った。

「出て行くんだ」

 ぼくも少し本気になり、腕の付け根をつかんで立ち上がらせた。

「礼儀知らずは出て行け」

「いやよ、さわらないで」

「邪魔だ!」

 爆発した。押し倒された吏華は、初めておびえた顔になって教室を出て行った。

 授業が終わって宿直室に戻ると、吏華は猫と遊んでいて、ぼくの顔をみると、鼻に皺を寄せてイーをした。(p.29)

「俺のつけた通信簿に文句があるんだな」

 と押し殺した夫の声がそばでしたので、わたしも吏華も声をのむほどびっくりしてしまいました。こういう感じのときの夫は、止めどがないほど兇暴になります。

「どこに文句があるんだ!」

 声が炸裂したとき、吏華はすでに夫の腕に釣り上げられて、口をふわふわさせていました。

「音楽が……」

「なに?」

 ひどい音がして吏華はぶざまに押入れのところに転がり、反射的にわたしは吏華のからだにのしかかって、夫の第二段の攻撃からかばおうとしました。

「おい、音楽がどうした」

 わたしの覆いかぶさった隙間から手をさし入れて吏華の襟首をにぎり、ものすごい力で引っ張りあげます。

「お詫びするのよ、あんたが悪いんだから」

 必死で吏華を抱きしめながら言いました。

「すみません、わたしが悪かったです」

 吏華はふるえて変なことばづかいをしました。教室でしばしばある状況が初めて家庭にあらわれたのです。夫は長い間、狼が獲物に食いつくときのような眼つきで吏華を睨んでいましたが、やがて力をゆるめると、どさりと二人を畳の上に放り棄て、

「ふざけるんじゃねえ」

 足音を荒げて廊下へ出てゆきました。(pp.37-38)

吏華は引き取られていた九ヵ月間、ぼくの子どもであり、受け持ちの児童だった。しかし、子どもであったのは最初の一ヵ月ぐらいで、あとは叱咤され通しの児童になった。野放図な甘えと無礼を憤って、ぼくは笑顔を見せることがなくなり、その代わりに過酷な生活の規制だけを与えたのだった。吏華は妻に対してだけ熱っぽく甘えるようになり、鬼面のぼくには恐れて距離を置いた。

 そのころの感情生活が残っている。成長したけなげな吏華を見て、慈しみたい気持は動いても、こわばった感情の被膜がなかなか破れないのだ。(p.102)

 教師というより暴君として君臨しており、読んでいる側が恐怖すら感じる。作中では三好とその妻が交互に語り手となり、彼の教育方針は妻の視点から批判されるという形でバランスは取っているものの、単に露悪的な描き方ともいえない、それでは済まないものを感じる。これが出版されて直木賞を受賞し、教育評論家としても活動していたところから見ても、自分の「教育」にもなにがしかの理があると恐らくは思っていただろうし、世間もまたそれを受け入れていたのだろう。

 そんな仕打ちを受けても、その女の子は父親ながら偏屈なきだみのるに嫌悪を抱き、実の母にも疎まれて居場所を失い、三好夫婦のところで暮らしたいと願う。しかし三好は、たとえ不幸でも子どもは親と暮らすのが一番よいのだと言って拒絶し、本当の親のもとに戻るように命じる。

どんな親でも親は親、親のそばで暮らすなら、子どもはどのように不幸に育とうとも、結局は納得しなければなりません。吏華を引き取れない理由が、経済事情によるものか、問うつもりは全くありませんが、あらゆる事情にかかわりなく、親は子のために死ぬべきです。そのつもりで親になった筈ですから……(p.84)

 子どもの意志を完全に無視して、自分の気紛れな感情を古い道徳で正当化するさまはよく書けたものだと思う。のちに現実の吏華は、三好が性的虐待をしていたと訴えたようだが、この小説の描写だけでも十分にダメだろう。このことは、三好京三の教育が批判されるようになった社会の変化とも連動しているのかもしれない。小説の中では、吏華は子どもながら媚びることを覚え、また自由さを見せることもあるが、三好への恐怖に怯えている風が振る舞いから見える。

 ひたすら不快であるが、昔の教育の姿を伝えるという意味では貴重な「史料」のように思われる。きだみのるの実像とか、タイトルの意味とか、小説上の仕掛けや論点は色々あるのだが、そこまで読み込む気にはなれなかった。

矢野隆『我が名は秀秋』B、早乙女貢『若き獅子たち(上・下)』A

【最近読んだ本】

矢野隆『我が名は秀秋』(講談社文庫、2018年、単行本2015年)B

 関ヶ原の戦いにおける家康の勝利に最大の貢献をした一人ながら、裏切り者として軒並み評判が悪い、小早川秀秋が主人公。

 司馬遼太郎の『関ヶ原』などでは、自分がやったことを全くわかっていなかった小心者のように描かれていたが、実は彼はすべてを見通した天才だった――という着想は、一見面白いものになりそうな気がするが、蓋を開けてみると何のことはない、

 「家康が最も恐れた男」

 「戦国の世に十年遅く生まれてきた男」

 「関ヶ原の戦いの行く末を唯一見通していた男」

 という、よくあるものになってしまった。

 普段は無気力な男なのが、戦場で「内なる獣」が覚醒して名将になるというのは、やや天才的に描かれすぎではあるものの、三国志のようで爽快である。2015年刊行ということだが、イメージとしては2014年の大河ドラマ軍師官兵衛』の浅利陽介演じる小早川秀秋が念頭にあったものだろうか。

 無気力で、自分の意志や感情もよくわかっていなかった彼が、小早川隆景という「父親」との出会いをきっかけに、秀吉への嫌悪や兄と慕う秀次を死なせた石田三成への復讐心に目覚めていく過程は、なかなか読みごたえがある。2016年の『真田丸』では小早川秀秋をまた浅利陽介が演じて、より人物が深められた感があるので、それを経ていればまた違った秀秋像になったかもしれない。

 これで大長編になれば面白いのに、さるにても残念なのは、なぜ秀秋が関ヶ原の戦いの直後、21歳の若さで死んでしまったのか。考えようによっては、秀秋の人生最大の失策は、関ヶ原の裏切りよりもその早すぎた死にあったと思わざるをえない。もし長寿と言わないまでも平均寿命まで生きていれば、その後の人生が地味でも、戦国の世を老獪に生き抜いた策士として、後世の評価も違っただろう。普通は歴史上の人物といえば、坂本龍馬高杉晋作など、早死にした方が評判が良いものなのに、若死にして評判を落とすというのは結構珍しいのではないか。

 本作でも歴史を曲げるわけにはいかず、なんとか「天才」という面目を保った死に方にしようと腐心しているが、やはり中途半端に終わった印象は免れない。今まで題材にされてこなかったのには、やはりそれなりな理由があることを思い知らされた。

 

 

早乙女貢若き獅子たち(上・下)』(新潮文庫、1991年、単行本1985年)A

  文久2年(1862年)の吉田東洋の暗殺に始まり、幕末の京に吹き荒れた暗殺の嵐を、慶応元年(1865年)の武市半平太の刑死まで上下巻1200ページで描く。

 作者が熱狂的な会津推しなので、薩長土をはじめとする志士たちの描き方に容赦がなく、ほとんど全員が血に飢えた殺人狂、無思慮、女好きときている。ほぼ同じ時期の同じテーマを描いた作品としては奈良本辰也の『洛陽燃ゆ』があるが、あれなどまだ、これに比べればインテリの思想闘争といった趣である。これを読んだら、幕末のロマンなどたちまちに壊れてしまうだろう。

 しかし単なる罵倒にとどまらず、妙に説得力があるのは、ちゃんと史料を調べたうえで書いていることや、会津びいきの作者の史観の一貫性、なすすべもなく殺されていく若者たちのパターン化されない描写の巧みさなどによるだろう。また、文久2年9月、攘夷志士暗殺に暗躍していた渡辺金三郎*1ら幕吏4名を土佐藩平井収二郎長州藩久坂玄瑞ら24名(!)が結託して石部宿で襲撃、3名を惨殺した事件など、恐らく「正義」的なイメージには不都合なため、あまり触れられない歴史的事件を詳細に描いているのは大きな特徴である。

 そしてやはり、死を迎えるまでのそれぞれのキャラクターの意識の描き方がうまい。知らぬ間に最悪の選択を重ね、いつの間にか逃げ道がなくなり、それでも何とか死から逃れようとするのに、遂に背後から致命的な一撃を食らう。その時にはもはや倒幕だの攘夷だのという言葉も忘れ、ひとりの無力な子どもに還って、ただ無為に死んでいく。吉田東洋に始まり、田中河内介、島田左近、佐久間象山などなど、有名人からマイナーな人物まで、それぞれに工夫を凝らして哀れに死なせていく執念がすごい。

 血に飢えたような殺し方、死ぬ者たちが思想も武士道も何もなくただただ無力に死んでいく無情さは、幕末の歴史という観点をこえて、太平洋戦争や連合赤軍事件で死んでいった者たちを重ね合わせているところもあると思う。

 実際、作中で

現代でも日本赤軍のような過激なグループの酸鼻を極めたリンチ事件は記憶に新しい。かれらは、かれらなりに、正義を信じていたのだろう。かれらのいう正義がどんなものか知らないが、狂信による人殺しということでは尊王攘夷のいわゆる勤皇の志士と称する連中も大差ない。(上巻p.385)

攘夷々々で、日本中が浮かれていた。恰も戦中の鬼畜米英の昂奮にひとしい。お祭り騒ぎが好きだし、附和雷同性が、事の是非も考えることなく、夷狄斬るべし、紅毛撃つべしと喚くのだ。(下巻p.155)

 というような言及も頻繁にあり、単に日本史におけるある時代を描くだけでなく、そこに何か普遍性を見出そうとする姿勢が感じられる。早乙女貢自身にはストレートな戦記小説や学生運動小説はないのだろうか。

 まともに死ねた人が一人もいなかったのが、上巻のラストでようやく会津藩新選組が京に現れ、そこから雰囲気が一変し、無秩序だった京にようやく秩序らしきものが現れる。近藤勇土方歳三が、作中では初めて、暗殺者を圧倒して追い払うことに成功するのだが、これには快哉を叫びたくなる。それはまるで「未開の地」に「文明人」が乗り込んできたような――物知らずな田舎者と描かれる会津が文明人の側なのだから変なものである。かくして、下巻はやりたい放題だった長州藩土佐藩が一転して追い詰められていく。しかしその後も、吉村寅太郎天誅組のように、蜂起直後に長州藩が京を追い出されるというタイミングの悪さのせいで支持を失い、孤立無援の中で味方の誤射で負傷して敗退し、華々しい死を飾るチャンスも逃して射殺されるなど、決して爽快感はない。司馬遼太郎などの娯楽性の高い幕末小説を読みなれてきた身には、冷水を浴びせられるような本である。

 

 しかし読んでいて閉口したのが、女性の描き方の酷さである。

 出てきた女性は全員強姦されていたような気がするほどで、働きにおいても、惚れた女にかまけて人殺しのチャンスを逃すものがいたり、真面目な志士が遊女に溺れて病気になってしまったり、愛する人の情報を漏らしたことが彼の死の原因になったり、男の逃走を家族の存在がはばんだりと、おおむね男の足を引っ張る役割しか与えられていない。この明らかな女性嫌悪はちょっと驚くべきものである。解説の藤田昌司は「強烈なエロチシズムも魅力」などと称しているがとてもそうは思えず、早乙女貢というペンネームが「若い女性に金品を貢ぐ」という意味だという割には正反対である。このあたり、誰か論じている人はいないのだろうか。

 まあこの辺にうんざりして読み飛ばしたから、分厚いわりに早く読み終わったともいえるが……

*1:この名前は全く知らなかったが、心霊番組界隈では有名らしいことを検索していて知った

大江健三郎『奇妙な仕事・飼育』A、ドット・ハチソン『蝶のいた庭』B

【最近読んだ本】

大江健三郎『奇妙な仕事・飼育』(新潮文庫、1959年、単行本1958年)A

 大江健三郎は初期作品が良い、というと大抵賛同が得られるのだが、本書を久しぶりに読んで、やはり名作揃いであると思った。それは何故か考えてみると――江藤淳の解説では、大江作品に共通するテーマは、大江自ら「監禁されている状態、閉ざされた壁のなかに生きる状態を考えること」と書いていたそうだが、それ以上に「つかの間のユートピアの生成とその崩壊」というパターンが全作に共通している、ということが挙げられると思う。

 舞台は様々である。死体洗いのバイトで出会った者たちと死体たちの連帯感、戦時中のある村に現れた黒人兵捕虜と少年たちの交流、脊椎カリエス患者の療養所で歩行できない少年たちの間に生まれた共同体など、色々と工夫している。しかしそれらで繰り返される、現出するユートピア空間の一瞬の美しさや、それがある日不意に失われる喪失感という物語は、多くの青春文学のフォーマットとなっているくらいに普遍的なパターンである(今思いつくところでは最近の『万引き家族』や『天気の子』もそれに沿っている)。

 正直なところ、いずれも途中で展開は読めるのであるけれど、わかっていながら我々はそれに対してなぜかいつも、手もなく感動してしまうのだ。そしてそれが一貫しているからこそ、大江の初期短編は今でも読めるものになっていて、ファンも多いのではないか。もっとも流石に大江自身は、第一長編の『芽むしり 仔撃ち』を集大成として、そのパターンからは脱して行っているように見える。それはあくまで大江自身のテーマが「監禁されている状態、閉ざされた壁のなかに生きる状態を考えること」であり、定型的なストーリーはその道具に過ぎないという証左であるのだろう。

 

 

ドット・ハチソン『蝶のいた庭』(辻早苗訳、創元推理文庫)B

 ジョン・ファウルズの『コレクター』の現代版を目指したものだろうか。気に入った女の子を誘拐してきて、人工的に自然を再現した広大な屋敷に監禁し、背中に蝶のタトゥーを彫り娼婦として愛玩し、その美しさの絶頂のときに死なせ、樹脂で固めた標本にして愛でる男。

 彼の「楽園」がいかにして崩壊に至ったのかを、事件を担当するFBI捜査官と、生き残った女性のリーダー格の取り調べの駆け引きのうちに描く。

 つまらなくはないが、少々読者の「良識」に頼りすぎていると思う。読んでいる間ずっと、ほら異常でしょう、残酷でしょう、恐ろしいでしょう、心が痛むでしょうと言われ続けている気分だった。それは主にFBI捜査官が、「供述」の切れ目で毎回「自分の娘がこうなっていたらどうだったか」といちいち思いを馳せるというシークエンスが入ることに、有体に言えば飽きてしまったというのが大きな原因である。それはまあ、現実にこんな事件が起こったらそう思うかもしれないが、フィクションの世界では、こういった「残酷」は特に珍しくもなく、インパクトの弱いものになってしまっている。著者がヤングアダルト小説の出身とのことで、そういうくだりを入れずにいられなかったのかもしれない。構成も凝っている割には大した真相があったわけでもなく、期待外れである。

滝口康彦『流離の譜』B+、水上勉『修験峡殺人事件』B-

【最近読んだ本】

滝口康彦『流離の譜』(講談社文庫、1988年、単行本1984年)B+

 歴史小説では、長州征伐の指揮官として大軍を率いて出征するも、高杉晋作大村益次郎に翻弄され、あげく将軍家茂の死に動揺してろくな戦果もあげずに兵を引き上げてしまった、おおむね愚将としてのみ名前が登場する、幕府老中・小笠原長行。本書は彼の生涯を描いた、500ページ近い大長編小説である。

 実は彼は幕府の崩壊後は榎本武揚と函館に行っており(ただし戦闘には加わっていない)、戦争終結後は隠居して明治24年に68歳で死んだなど、激動の歴史の裏でひっそりと生き延びていたというのは知らなかった。どんな形でも生き延びることが勝利であると信じる自分には、ケレンスキーやマレンコフのその後を知った時のような面白さがある。

 山内容堂に認められる英才でありながら、幼くして父を喪ったため家督相続権を持てず、藩政から離れて育ち、30代になってようやく藩主の嗣子として藩政にとりくみ、江戸にのぼって老中にまでなる。そこで取り組んだ仕事は、生麦事件の賠償金支払いを、反対を押し切って独断で(ということにして)強行することであった。そこが人生のハイライトで、その後は家茂の上洛を画策するが失敗し、長州征伐で醜態をさらし、責任をとって辞任して、以後は歴史の本流からははずれる。

 残念ながら小説としてはあまり面白くない――それだけ、こういう人物を小説の主人公にするには難しいということでもあろう。最初は権力に興味のない自由人ぶって登場するが、すぐに化けの皮がはがれる。まじめで正義感の強い性格は、根回しをするタイプでもなく不器用極まりなく、藩政につくや家老の嫌がらせを受けて全く対抗できないなど、読んでいてイライラする。

 何よりいけないのは、聡明だが粘り強さのない人物としては、徳川慶喜という「上」がいることで、結局のところ、慶喜が二人になったようなものでしかない。考えてみれば政治にかかわるまでの遊び人ぽい雰囲気も、『西郷どん』の慶喜を彷彿させるものであり、ある種のステレオタイプといえよう。

 本は分厚いが、要所で長行の視点を離れた歴史事項の解説がはいるし、それぞれ胸中に複雑なものをかかえる家臣団のドラマもあり読みやすい。ただ、そのドラマ部分はそれほど面白くはないし、どこまでが創作かもよくわからないので、歴史を知る興趣や小説としての面白さにはやや難がある。それでも小笠原長行という人物に光を当てた点は評価されるべきだろう。

 

 

水上勉『修験峡殺人事件』(角川文庫、1985年)B-

 火曜サスペンスのようなタイトルである。調べてみると、1984年には皆川博子に『知床岬殺人事件 流氷ロケ殺人行』というやはり火曜サスペンスのようなタイトルの作品がある。火曜サスペンスの開始は1981年らしいので、当時はタイトルのつけ方として流行ったのかもしれない。

 松本清張などと並んで社会派ミステリの第一人者として知られる著者だが、少なくとも本書に関してはそれほど良いとは思えない。

 舞台は主に和歌山の熊野川上流にあるダム建設地。ここに新たに水力発電所を建設することになり、近畿地方公益事業部の土木課長が監査のために出張するが、現地に着く前に行方不明になり、十津川峡谷で惨殺死体となって発見される。有能で尊敬される彼が、死の直前に女連れだったという目撃証言も入り、痴情のもつれか、ダム開発をめぐる村とのトラブルかで、刑事たちは迷いながらも真相を追っていく。

 序盤は課長と同行する予定だった部下が、尊敬する課長の行方を追うので、彼が課長の知らなかった一面を目の当たりにしていくことになるのかと思ったら、しばらくすると主役はあっさり刑事に移る。彼らは別に課長に思い入れも何もないので、浮気なんて考えられなかったはずの課長の意外な一面が明らかになっても反応が淡泊で、少々物足りなかった。

 捜査は「社会派」にイメージされるような地道な聞き込みがメインで、断片的に提示される手がかりを頼りに、芋づる式に人間関係をたどって真相に行きつくのだが、まあそのあたりは意外さはない。

 問題はこの作品の「社会派」たるゆえんである。凄惨な殺人事件が起こり、その動機の部分に、ダム開発や発電所建設による、地方の荒廃や利権争いといった暗部が見いだされる。これが、都市の人間の営みが地方を犠牲にして成り立っているという構図として示され、読者はいつの間にか、自分が犯行の一部を担っていたという罪悪感を抱くことになる――という仕掛けになっている。

 しかし本書で犯人がやっているのは、利権を握るための裏取引で私腹を肥やし、それがうまく行かなくなると家族ぐるみでの殺人と隠蔽を企て、途中で仲間割れによる殺し合いを始め、あげくの果てに大規模な山火事を起こして焼死するという、ストーリーに意外性を持たせようとするあまり無茶苦茶な行動になっており、元々に異常性があったとしか思えず、とてもではないが都市による開発がここまで狂わせたのだといわれても説得力がない。ために、普通の本格ものの動機の部分に、社会派的なテーマを代入しただけという安直な印象が残った。これが社会派を代表する作家の作品だというのなら、他も推して知るべしという気がする。

 解説は沼正三だったので驚いたが、意外に普通の解説だった。熊野が舞台ならではの土俗的な面(山伏が出てきたり)といった面に着目していたのが、少し沼正三らしいと言えるかもしれない。