桐野夏生『柔らかな頬』B、夕木春央『方舟』B
【最近読んだ本】
桐野夏生『柔らかな頬』上・下(文春文庫、2004年、単行本1999年) B
桐野夏生は、現代日本の重要な作家であることはわかるのだが、興味のわかない題材ばかりであまり読んでいない。女流ハードボイルド『顔に降りかかる雨』は昔読んだものの、なんでここで濡れ場が入るんだとか、そんなたまたま事件が重なって起きることがあるものかとか腑に落ちず、いまいち楽しめなかった。
直木賞受賞の本書は、悪いと知りつつ浮気をしてしまう女性の心理が執拗に描写されていて、これも興味のない話題で入りこめなかった。なにより最後のシーンが、大人たちとの対比で子どもは無垢で純粋であるという幻想が丸出しで良くない。
とはいえ、現実と妄想が入り混じって、児童失踪事件の残酷な真相らしきものを提示しつつ、しかし最後まで本当の真相を明らかにしない構造はさすがにうまい。
夕木春央『方舟』(講談社、2022年)B
これは前から気になっていた。最大の興味は、「自分たちが助かるにはだれか一人を犠牲にしなければならない」という極度にわざとらしい状況をどうやって作っているのか、というところにあった。これについては読んで、なるほどと思わされた。
しかしその後がいけない。キャラクターに魅力がなく、この人は死んでほしくないという切実さが読んでいて生まれないのである。いまいちだったかな、と思いながら読み進め、評判どおりラストにはびっくりしたが、感情的なおさまりは悪くて、とてもではないが楽しめたとはいえない。
東野圭吾『流星の絆』B-、東野圭吾『疾風ロンド』B+
【最近読んだ本】
東野圭吾にしては、期待外れだった。
冒頭はわくわくする。兄二人、妹一人の三人兄妹が、親の目を盗んで獅子座流星群を見に行く。小学生時代の良き思い出になるはずだったその冒険は、帰ってみると両親が惨殺されていたという最悪の結末を迎える。三人は施設に引き取られ、犯人は捕まらないまま14年の月日が流れた。時効を目前にして、ある偶然から兄妹は犯人らしき男を発見し、再び事件は動き出す……
(以下ネタバレ)
どうも主人公をめぐる「悲劇」の形がはっきりしないのが物足りなかった。
正義の側となるべき兄妹が悪質な詐欺でお金を稼いでいるというところがひねっている点だが、『白夜行』の底なしの悪意に比べるとどうしても見劣りするし、彼らの不幸への同情もできない。殺された両親の人物像も、父がギャンブル依存だったことがわかるのみで、息子たちにはどんな親だったのかはっきりしない。最後に明かされる真相も、刑事の人物像が深められていないせいでショックは薄い。終盤の土下座するあたりは描写が急ぎすぎてとても感動はできない。文庫版ではさすがに改善されているのだろうか。
概して、東野圭吾でなければ不満は出なかったと思うのだが、他の作品に比べると見劣りしてしまう。
ただ――ちょっと面白いと思ったのは、警察を誘導するためのニセの手がかりとして、当時の事件の証拠物件を遺して自殺した人物というのが出てくるのだが、実際は誰も死んでおらず、あたかも誰か死んだように作った「証拠」だけを散りばめて偽装していたということ。これは『容疑者χの献身』(2005年)に対する倫理的な批判を踏まえているのではないかと思った。
読み終えたあと、クドカン脚本のドラマ版がTVerで配信されていたので1話だけ見てみたが、コメディ要素がくだらなすぎて耐えきれず、番組ホームページを見たら出演者の大半が示し合わせたかのように「原作を読んでない」と公言していて呆れた。この人のドラマ、池袋ウェストゲートパークも最近見たら微妙だったし、一体なにがウケていたのか……
こちらは面白かった。
最初から最後まで、世界滅亡寸前の深刻な危機と、繰り広げられる小悪党たちのドタバタ劇の落差が良い。
話の始まりは前代未聞の脅迫劇。ある研究所で極秘で研究されていた生物兵器級のウィルスK-55が盗み出され、スキー場のある雪山に埋められる。これを春まで放置していたら拡散して大災害を引きおこす、埋めた場所を教えてほしければ金を払え――
という、実行者は一人だけの、地味ながら日本どころか世界を人質に取ったなかなか壮大な作戦なのだが、この脅迫者がマヌケなことに交通事故で死んでしまい、恐るべきウィルスが雪山に残されたままになってしまう。研究所の所員たちは外部に知られないように自力でウィルスの回収を試みるが、次第にスキー場の職員や客たちが知らず知らずのうちにかかわってきて、事態は混沌としていく。
冒頭の状況設定はどうみても小松左京の『復活の日』なのだが、それをとっかかりにここまで違う話が作れるものか、と感心してしまう。一歩間違えばスキー場の人間が一瞬で全滅する、かなりシャレにならない状況なのだが、かかわる悪役がマヌケな小悪党ばかりということもあり、終始コメディタッチで進む。ニヤニヤしたりハラハラしたりしんみりしたり、読者を飽きさせない感情操作もお手のもので、やはりさすがの一作である。
多くのウィルスパニック小説は、コロナ禍という圧倒的な「現実」を前に作り物っぽさが露呈する憂き目に遭ったが、これはウィルスがマクガフィン的な扱いに徹することにより、今でも読める作品になっている。
篠田節子『仮想儀礼』B+、イアン・リード『もっと遠くへ行こう。』B
【最近読んだ本】
篠田節子『仮想儀礼 上・下』(新潮社、2008年)B+
宗教小説と起業小説を融合するというアイデアにより、ある宗教団体の誕生から崩壊までを余すところなく描き切った大作である。普通フィクションに出てくる宗教団体は、既に大規模になっていたり、発足から巨大化に至る途中が省略されていたりするものだが、ここでは省略なくすべて描かれているのがすごい。
不運が重なって無職になった男二人が苦し紛れに始めた宗教が、心に闇を抱えた人々の受け皿となり、救いを求める者たちのよりどころとなる。しかしそれを利用しようと企む者や、本人が無自覚に周囲を不幸に陥れる者たちがかかわってきて、混乱のうちにいつしか信者が暴走を始める。その事態は教祖にすら止めることができなくなり、集団は破滅へと突き進んでいく。
読みながら思い出すのは、モデルになったオウム真理教やイエスの方舟といった事件よりも、吉川英治の『平将門』とか、陳舜臣の『太平天国』とか、同じパターンをたどった悲劇の歴史物語たちである。ただ「今」を切り取っただけでなく、歴史が描かれていると感じるのだ。
物語が始まった時点で結末は見えているのだけれど、それでも読むのを止めることができない、今後も読まれるべき作品である。
イアン・リード『もっと遠くへ行こう。』(坂本あおい訳、ハヤカワ文庫、2022年、原著2018年)B
ある平凡な夫婦のもとを、なにやら胡散臭いセールスマンらしき男が訪れる。彼は夫のジュニアに対し、彼が宇宙開拓を目指す一時移住計画の候補者に選ばれたと言う。もちろんその間、夫婦は離れ離れになってしまう。志願したわけでもないのに一方的な通告に、彼はもちろん反発するが、妻は彼に同調しながらも何か様子がおかしい。セールスマンはそのまま夫婦の日常に入りこみ、「出発」の日までの長く奇妙な日常が始まる。
藤子不二雄のようでもあり、安部公房のようでもある。設定上は面白いはずだし、読んでいる間は楽しめたのだが、あまり好きではない。
それは結局のところ、お話が「夫婦生活の危機」のメタファーとして捉えられてしまうところにあると思う。妻と特に不満のない生活を送っていた男のもとに得体のしれない男が侵入してきて、いつのまにか居ついてしまう。彼に対する妻の態度もいまいち不可解で、急によそよそしいものに思えてしまう。背景がSF的であろうとも、小池真理子や乃南アサあたりの書きそうな夫婦小説と構造は同じである。そういう話に興味があれば楽しめたかもしれないが、あいにくとそうではなかったので、物足りなさがあった。
ひるがえって、これと比較すると安部公房は女性が排除されているということに気づかされるのだが、これについてはいつか考えてみたい。
宮部みゆき『模倣犯』B+、パトリシア・コーンウェル『検屍官』B
宮部みゆき『模倣犯』(小学館、2001年)B+
どれが代表作とされるべきかもはやわからない宮部みゆきの作品群の中でも、多分上位に入るだろう。
構成がやたら凝っているのが特徴で(ネタバレにはなるが)、
マスコミを手玉に取る大規模な連続誘拐殺害事件が起こる
→ 犯人と思われていた男たちが死体で見つかる
→ 犯人と思われていた彼らの視点からの物語が語られる
→ 実は彼らを操っていた真犯人が別にいたことが明らかになる
→ 読者が先に気づいた「真相」に、作中の人物たちが後追いで迫っていく
という順番になっている。最後の「読者が既に真相をわかっているのに、作中人物が大幅に遅れてそれに迫っていく」という趣向が、もどかしくも優越感があって良いのである。単行本にして上下巻二段組1400ページを一気に読ませる。
しかし、久しぶりに読んでいて、昔ほどの迫真性が感じられなかった。
それは、本書で扱われている「劇場型犯罪」が、いつのまにかなくなってしまったせいだと思う。マスコミに報道されることを過剰に意識して行われる「劇場型犯罪」は、今田勇子名義で犯行声明文を出した宮崎勤や、「さあゲームの始まりです」と警察を煽った酒鬼薔薇聖斗事件など、いずれもメディアを通して警察や世間に騒がれることを目的としていた。そして彼らをモデルに、猟奇的な殺人犯がメディアを駆使した事件を起こすマンガや小説が量産された。『模倣犯』もまたその流れの一冊に位置づけられる。
しかし現在はそういう犯罪はほとんど起こっていない。世間を騒がせた大規模な犯罪として、京アニ事件や安倍晋三暗殺事件など思い返しても、犯人から世間への直接的なアピールは全くなく、メディアは後追いで不可解な事件を語るのみであった。(そうすると最後の「劇場型犯罪」はなんだったのか……佐村河内事件やSTAP細胞事件あたりだろうか? 二つともメディアを手玉に取ろうとして無惨に失敗した例といえなくもない)
そのため、現在においては、世間を相手に自分が主人公の演劇を繰り広げる天才犯罪者・ピースは、この社会のどこかにいるかも?という迫真性は失ってしまっているといわざるを得ないのである。社会派ミステリとしては致命的ともいえる事態だ。
ではもう読む価値はないのかというと、そんなことはない。むしろ今では、社会派的な文脈から離れて、宮部の巧みな語り口を楽しむことができる。この人も死なせてしまうのか、という、ベストセラーと思ってなめてかかると意外な残酷さがある。
真犯人・ピースがやや軽率な性格で、割と雑なひっかけでボロを出してしまうのが、この凝りに凝った大作の結末としてはやや不満といえなくもない。しかしそうでもなければ逃げ切ってしまったかもしれないという怖さがある。そしてすべてが終わったあと、何も終わっていないと虚空に訴える豆腐屋の主人の慟哭が胸に残る。決して軽い読み物では終わらない名作である。
パトリシア・コーンウェル『検屍官』(相原真理子訳、講談社文庫、1992年、原著1990年)B
昔はブックオフにいくらでもあった、検屍官シリーズの一冊目。急に興味がわいて買ってみようと思ったら、ブックオフでもなかなかないか、だいぶ汚いものばかりで、当時の人気はなんだったのだろうか、と思いつつ読んだ。
で、読んでみて思ったのは、なるほど、ジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムはこれのアップデート版なんだなということである。もちろん科学捜査がテーマの作品は他にもいっぱいあるが、科学的なディティールという点ではコーンウェルは今読んでも群を抜いているように思う。しかし技術レベル的にはリンカーン・ライムに及ばない。
なにしろインターネットはダイヤルネット接続で、DNA鑑定に至っては、誰も知らないから証拠として認めてもらえない、などと主人公たちがぼやくような時代である。1990年には画期的だったのだろうが、今だと古さを感じさせられるだけである。
ではミステリとしてはどうかというと――犯人が終盤になって割と唐突に出てくるので、ちょっと驚いてしまった。犯人は冒頭に出てこなければならないというミステリの原則を考えると、これはアンフェアになるが、やっていいものなのか。なぜこんなことをしたのか。
そこでふと思いついたのは、こういう科学捜査主体のミステリというのは、「脱・社会派ミステリ」という日本側の要請のもとでウケたのではないか、ということだ。
この事件は、清張のような「足で捜査する」アプローチでは解決できない。被害者の人間関係や足取りを徹底的に洗ってもなにもでてこず、最先端の科学的な分析により集まった断片的な手掛かりが、かろうじて通り魔的な犯人をあぶりだすのだ。
宮崎勤事件のような、身近な人間関係とはまったく異なるところからの侵入者による犯罪事件がクローズアップされた時代に、科学捜査主体のミステリは、それに対抗しうる捜査方法として脚光を浴びることになったのではないだろうか。
もちろんコーンウェルが清張へのアンチを企図したわけはないのだが、日本でコーンウェルが一時期かなり流行ったのは、新たな時代の犯罪に対する対抗手段への期待ということがあったのではないかと思った。
検屍官シリーズは今も続いていて、相原真理子の死後はベテランの池田真紀子により翻訳も続いている。時代に合わせてどういうアップデートが図られているのかは気になるところだが、今から追うべきかどうか。
田中光二『最後の障壁』B+、田中光二『大密林 母なる森の血よ』B-
【最近読んだ本】
田中光二『最後の障壁』(徳間文庫、1985年、単行本1978年)B+
主にSF系の冒険小説短編集である。サスペンス系のものもあり、飽きさせない。
共通するのは、まず巨大な「闇の組織」があり、その野望を実現するための都合で、知らぬ間に巻きこまれ押しつぶされていく一般人――彼らの叫びを鮮烈に描いているというところだ。
たとえば、ある漁村で未知の伝染病が発生する。その病気は治療法も確立しておらず、誰が感染しているかも見極めがたいので、政府はたまたまそこを訪れていただけの人も含めて村を封鎖する。それぞれの事情を抱え、なんとしても家に帰りたい人々は、団結して脱走を図るが、あえなく捕らえて皆殺しにされてしまう。
短く話をまとめる都合で、背後の陰謀が明らかになるとともに主人公が殺されてしまうという、バッドエンドルートのような終わり方をするものが多いが、その分突き放したような冷たさがあって良いと思う。
田中光二『大密林 母なる森の血よ』(徳間文庫、1994年、単行本1991年)B-
こちらはハズレ。主人公は新進気鋭の女性写真家・小椋茜。マレーシアの密林の奥で先住民と暮らしているという白人男性マイケル・ヤングの話を聞いて興味をもった彼女は、幾多の苦労を乗り越えて彼のもとにたどりつく。そして、彼女は突き止める――(ネタバレ)彼がそこで暮らす理由は、奥地に伝わる神秘の秘薬により、エイズを治すためであったことを。
多少『闇の奥』を意識しているのかもしれないが、展開されるのは、未開文化の中に西洋文明を凌駕する知恵があるとか、自然の根源には不思議な力があるとか、昔エコロジー関連で流行ったお話である。マイケル・ヤングを追う他の競争者との駆け引きなど多少の波乱は用意されているものの、現地の政治情勢やエコロジーのお勉強のような情報が多く、ストーリーも薄い。エコロジーという題材自体に魅力があった時代の産物といってよいだろう。
綾辻行人『霧越邸殺人事件』B、内田康夫『贄門島』B
【最近読んだ本】
綾辻行人『霧越邸殺人事件』(ノン・ノベル、2002年、単行本1990年)B
山奥に建つ洋館・霧越邸。この謎めいた屋敷に、ある大雪の夜<偶然>に迷い込んだ人々が、凄惨な連続殺人事件に巻きこまれる。
本書の特性として、トリックや犯人を考えること以上に問題になるのが、「たまたま」居合わせただけの彼らはいったいなぜ殺されるのか、そこで殺される「必然性」とはなんなのか――ということがあげられる。
その答えは、参考文献にライアル・ワトソン、ルパート・シェルドレイクをはじめとするニューエイジ・サイエンスの本があげられているところに示されている。本文でもはっきりと言及されており、本書を読み解く重要な鍵であるのは間違いない。
ニューエイジ・サイエンスとは何かというと、もちろん一言で説明することはできない。しかし本作を読むための要点をあげると、「私たちが見ている世界の背後に、大きな流れのようなものがあって、それが人類の歴史や生物の進化を支配している」という考え方があげられる。
これが、霧越邸で起こる奇怪な現象――主人公たちがその屋敷を訪れることや、いずれ起こる殺人事件の内容や、犯人が誰なのか、といったことを、屋敷が壁のひびわれや意匠といった形で「予告」するという現象――に、「理論的な説明」を与えることになっている。
ニューエイジ的にみれば、そこで起こる現象は決して偶然ではなく、大きな流れの中で起こっていることであり、逆らうことは罪になるともいえるのだ。
終盤で、犯人と探偵が対決し、犯人が明かすニューエイジ的世界観を背景にした動機を、探偵は最後まで否定する。これは犯人と探偵の倫理的・論理的な対決である以上に、ニューエイジ的な世界観を受け入れる者と受け入れないものの対立なのである。
そしてそれは、読者が探偵と犯人のどちらの立場に与するか、という問いかけでもある。理屈の上では探偵に味方しても、心のどこかには犯人に肩入れしてしまっているのではないか――いつのまにか読者が「共犯」にされてしまうその構造こそ、本書の恐ろしさだろう。
内田康夫『贄門島』(角川文庫、2009年、単行本2003年)B
内田康夫はなぜか今まで機会がなくて、実は初めて読んだ。
最初は、ある島に伝わる風習――死んだ人を舟に載せて海に送り出し豊漁祈願する――が出てきて、実は豊漁を招くためにわざと人を殺して送り出すということを今もしているのではないか、という不穏な話を暗示しながら進んでいくが、途中からこの風習に、北朝鮮の拉致問題や不審船といった問題が絡んだ社会派的な背景が見えてくる。いわば、「現代の横溝」と思って読んでいたらいつのまにか「現代の清張」の世界に迷いこんでいる、という仕掛けである。
この構造の巧みさにはちょっと感心したのだが、あとがきによると、いつも作者はプロットを立てずに書いているという。本作も、横溝と思いきや清張へ、という構造がうまいと思っていたら、特になにも決めずに書き始めたというのだからすごい。
連載小説でなにも決めずに書き始めるというから強気なものだが、考えてみればその書き方が、浅見光彦があちこち歩きまわっていろいろな人と接触するうちに次第に真相が見えてくる、という行き当たりばったりな筋には見事にマッチしているともいえる。
だがその副作用として、どうにも長いのはいただけない。別に上下巻である必要はなかったのではないか。
ウォルト・グラッグ『ザ・レッド・ライン 第三次欧州大戦』B、東野圭吾『白夜行』B+
ウォルト・グラッグ『ザ・レッド・ライン 第三次欧州大戦 上・下』(北川由子訳、竹書房文庫、2018年、原著2017年)B
冷戦期に軍人だった人物による米露戦争のシミュレーション小説。ならば小説部分はおざなりで、実質的に国際情勢の解説書のような本なのかというとそういうわけでもなく……
時代はプーチン政権が終わった後の近未来。ロシアではソヴィエトが復活し、ドイツではネオナチ勢力が台頭し――という具合に、過去の悪夢が次々によみがえって世情は物騒になり、国際社会は混乱を極めていた。そんな中、ナチス嫌いのソ連書記長の命令のもと、ソ連軍が突如としてドイツに侵攻を開始する。ヨーロッパの秩序を守るべくドイツに駐留していたアメリカ軍は、予期していなかった戦闘に完全に後手に回りながらも、それぞれが持ち場に踏みとどまって抵抗を続ける――という話。
最初はソ連軍が優勢なのだが、ドイツ各地で繰り広げられる米ソの局地戦は双方に有能な指揮官がいて一進一退の攻防が続く。とはいえそれではいつまでも終わらないので、後半では業を煮やした米ソの首脳が核爆弾の打ちあいを始めて大局的な勝敗が決まるという結末は、ガンダム的アニメ(終盤になって大規模破壊兵器が出てきてそれをめぐって最終決戦になる)のような展開でわかりやすい。
そして――本書は人間ドラマにも力を入れているのが特徴である。こういうシミュレーション小説は、えてして名前を与えられているのは指揮官レベル、前線の兵はただの集団として扱われて、たった一行で全滅するなどそっけなく語られることが多いのだが、本書は最前線の一般兵の闘いが、その心情から故郷の家族まで、これでもかとばかり詳細に描かれる。しかも作者がなかなか物語から解放してくれない。
たとえば上巻で部下を率いて獅子奮迅の戦いを繰り広げて、多くの部下を失い自身も重傷を負いながらも、辛くも生き残った男がいる。彼は下巻では病院に収容され、仲間の死に打ちひしがれるが、やがて彼らの分もこれからの人生を生きる決意をする。この場面はまことに美しい――その直後、病院が空襲を受けて、重傷で身動きもままならない彼はなんの抵抗もできずに死ぬ。
『進撃の巨人』もかくや、という無惨かつあっけない死が下巻では次々に語られ、このあたりの執拗さは「元軍人が老後に趣味で書いたシミュレーション小説」の範囲を明らかに超えて、悲劇的な物語を書くことへの欲望が感じられる。この著者、どうやら『ザ・レッド・ライン』のあとも長大な小説を書き継いでいるようであり、国際情勢専門家よりは小説家として活動したいんだな、ということが伝わってくる小説だった。
東野圭吾の最高傑作に推す声を何度か目にしていたし、なんとなくロマンチックなタイトルでもあるし、まあ誰でも楽しめるような無難なエンタメなんだろうと思って読みはじめたら、全然ちがった。
中心には悪意の塊のような二人の男女がいる。二人に巡り合った人々は、その不思議な魅力で惹きつけられ、彼らの導きでつかのまの幸せを得るが、やがてそれはすべてが罠で、自分がいつのまにか人間関係から社会的地位にいたるまですべてを失っていることに気づく。ストーリーは基本的にその繰り返しで、出てくる人物がみすみす不幸に陥っていくのを読者はただ見ているしかない。正直、ちょっと「毒」が強くて、そういうものを読みたい気分ではなかったのだが、さすが東野圭吾、止められずに一気に読んでしまった。
そんな風に周りを不幸にせずとも、二人ともいくらでも幸せになれるきっかけがあるのに、それを拒否するように悲劇を生み出していくところが哀しい。
(以下ネタバレ)
構成がうまい、という声をよく見たのだが、それがどこを指しているのか、具体的に書いている人がいないので、実はどの部分を指しているのかよくわかっていない。ミステリ書評はあまり詳しく書くとネタバレになってしまうので、よくこういうことが起きる。
思いつくところをあげれば、様々な視点人物から「悪」の姿が立体的に浮かび上がってくるストーリーテリング、裏でつながっていた亮司と雪穂が作中では最後まで直接顔を合わせないことなど、技巧のうえで目を引く点はある。
しかし推測するにやはり、二人が子ども時代に受けていた性的な虐待が最後の最後になって明かされるところだろう。宙づりのままだった冒頭の事件がそこでようやく解決するとともに、二人が「悪」となった理由もまたそこで明らかになる。
それが読者に衝撃を与えたというのは、理屈としてはわかるのだが、しかし正直、今となっては「またコレか」という思いは否めない。残虐な犯罪者に性的な虐待の過去があった、というのは、異常性格の便利な理由付けになって長い時間が経ってしまった。今だったらむしろ、鬼舞辻無惨や両面宿儺のごとく、「理由のない純粋悪」として描かれていたかもしれない。
ミステリの歴史に名が残るべき作品とはいえるが、一方で読まれ続けるにはやや厳しい、と思われる。
















