酒見賢一『泣き虫弱虫諸葛孔明 第壱部』B、篠田節子『夏の災厄』 A

【最近読んだ本】

酒見賢一泣き虫弱虫諸葛孔明壱部』(文春文庫、2009年、単行本2004年)B

 タイトルは井上ひさしの『泣き虫なまいき石川啄木』のオマージュか。「泣き虫弱虫」などというから、いくじなしの孔明が、追い詰められてヤケクソの策がうまくはまって、歴史に残る大軍師に――といった展開を想像していたのだが、まったく違った。確かによく泣くのだが、多分に自己陶酔の気味があり、弱虫なのかどうかはよくわからない。

 面白いけれど、王欣太の『蒼天航路』の衝撃をこえるものではなかったと思う。日本の『三国志』像は、長く吉川英治に支配されてきて、『蒼天航路』に至ってようやく乗り越えられたが、今度は『蒼天航路』が新たな支配者として君臨しているという印象が、個人的にはある。

 本書における絶対的な天才としての曹操や、親分肌の劉備、神仙の世界に自在に遊ぶかのような孔明といった人物像、さらには孔明に全く興味を示さない曹操といった要素は、やはり『蒼天航路』の影響と思える。『蒼天航路』を知らずに読めば革命的であったかもしれない。

 とはいえ劉備孔明の絆の引き立て役に甘んじてきた人々――諸葛均、姉、黄承彦、黄夫人、徐庶、崔州平、ほう徳公、ほう統ら――彼らの立場からの言い分を描いての「人間的再構築」など、見るべきところも多い。特に徐庶は、地方の一書生に過ぎない彼が何故あんなにも鮮やかな指揮を取れたのか、独自の解釈を施しており、なかなか楽しめた。彼こそ読む前に想像していた「泣き虫弱虫」の姿だったかもしれない。

 変に皮肉っぽい文体がやや鼻につくが、それさえ受け入れられれば楽しめる。 

 

篠田節子『夏の災厄』(文春文庫、1998年、単行本1995年) A

 平穏なニュータウンに突如日本脳炎らしき病気が蔓延し、やがて町全体が恐慌に陥っていくバイオパニックホラー。

 疫病が誰にも気づかれずに発生して社会を浸蝕していくというネタは、小松左京の『復活の日』(1964年)を思い出すが、あれが未知のウィルスによる世界滅亡を描いたスケール大なSF小説だったのに対し、本作は舞台をほぼ一地方自治体に限定した上で、緊迫感あふれるドラマを構築している。もしかしたら『復活の日』へのアンチテーゼ的な意識もあるかもしれない。ひとつひとつの事象に市の職員たちが対応していく地味なシークエンスの連続が、手に汗握る病原菌と人類の攻防劇になっていくというのは、とにかく話のスケールの大きさを競い合う「大作」群に慣れ切った頭にはひどく新鮮に映る。

 書かれた時代が携帯電話やインターネットの普及前で、テクノロジー的な古さはいかんともしがたいが、冒頭で反ワクチン運動の話題が出てくるなど、現代でもメッセージ性として決して古びるものではない。最近になって角川文庫で再刊したのもうなずける。できれば時代に合わせたリファインをしてほしいとも思うが……

 疫病の原因は人為的なものもかかわっていたということで、終盤になると文献の調査などで割とスムーズに「真相」が判明してしまう。そのあたりは話をまとめるための方便という感じで多少不満もあるが、そうでもしないと600ページにすらおさまらないであろう。

東野圭吾『天空の蜂』B、ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』A

【最近読んだ本】

東野圭吾『天空の蜂』(講談社文庫、1998年、単行本1995年)B

 爆薬を載せた無人のヘリが原発の上空をホバリングし、日本の全原発の停止を要求する――という、地味に工作員が忍び込むのと比べて派手で効果も高そうな「その手があったか!」という鮮烈なビジョンのもと、謎のテロリストと阻止しようとする人々の攻防を描く傑作――なのだが、「来たるべき破局」への警告というメッセージ性が強すぎるあまり、「破局後」を生きる現在において読むと、どうしても踏み込みが弱い気がしてしまう。

 作中で技術者たちが悩むのは、ヘリが落ちても原発は暴走しないだろうが、しかし万一のことが起こったらどうしよう――ということなのだが、しかし3・11を経た今の我々には、ヘリが落ちても大丈夫とはとても思えないだろう。ニュースで原発の危機を知ってもエアコンが停められたことくらいしか気にしない人もいて、我々の原発をめぐる意識が決定的に変化したことを思い知らされる。しかしそういった不満が出るのも、原発の危機の際のシミュレーションがしっかりしていたために、今見ると「普通」になってしまったためともいえる。そこは作家の力量を示すものである。

 エンタテイメントとしては、犯人との真っ向からの頭脳戦というより、犯人の過去や家族、恋人などから絡め手で攻めていく感じで、個人的にはちょっと期待外れ。最初に子どもが一人ヘリに乗ったまま上昇してしまうというハプニングは、解説の真保裕一はラストにも効いていると絶賛しているが、それがあの写真のことを言っているのだとしたらとてもそうは思えず、いっそもう少し子どもを活躍させてもよかったのではないか。どうも女性や子どもが男の都合の犠牲になっている印象があった。

 

ソルジェニーツィン煉獄のなかで 上・下』(木村浩・松永緑彌訳、新潮文庫、1972年、原著1955~1964年)A

 煉獄というのは、天国と地獄の間にあり、魂を清めるところらしい。「煉」という字から勝手に地獄のもっと苦しいところを想像していたのだが違った。原題はThe First Circle(第一圏)となっており、ダンテの神曲に由来しているそうで、訳者が理解しやすいタイトルに苦心したことがあとがきで述べられている。

 ソルジェニーツィンを初めて読んだのだが、意外に面白かった。小説というより、あたかもソ連社会の百科事典的な趣である。作中で流れる時間はたったの4日間――1949年12月24日から27日という、スターリン時代末期のクリスマスである。その間のあらゆる階層の人間模様が、1000ページもかけて描かれる。

 一応中心になるのは、ソ連で進められていた極秘の研究――人の声の録音データからそれが誰の発言か特定する「声紋法」などと呼ばれる理論――その研究部署がろくに成果を挙げられないまま存続も図るも遂には解体されるまでの物語であり、そしてその部署の調査対象となったある外交官が順調な日々から一転して逮捕されるまでの物語であるという大枠はあるのだが、とにかくそこに至るまで、彼らの同僚や家族、そのまた同僚や家族、部下や上司のそのまた部下や上司といった具合に、章ごとに連鎖的に中心人物が移っていき、収容所、政府、市民社会に至るまでのあらゆる階層にわたってスターリン体制下の社会生活が浮かび上がってくる。

 そこで描かれるのは、体制にがんじがらめになりながら、与えられた環境の中でせめてもの生の楽しみを見出そうとする哀れな人々である。その息詰まるような社会は誰かが意志を持って操っているのでもない。誰もが自分の職分を全うしようとするだけである。頂点にいるはずのスターリンでさえ、もはやボケかけた老人に過ぎず、勢いで書いた論文はともすれば共産主義の思想から逸脱してしまう有様である。

 ソルジェニーツィンは、収容所で無気力に生きてきた人々がせめてもの抵抗を試みて敗北していくドラマを、四日間に凝縮して描いている。彼らの心が折られていく顛末がいちいち皮肉に満ちていて、おかしくも哀しいエピソードの集積となっている。特にラスト、他の収容所に移送される際に乗せられるトラックが、食料用の車に偽装されているせいで、それが街を走っているのを見た外国の特派員が「国内の食糧事情は良好」とレポートするのは、ブラックなユーモアに静かな怒りを感じた。

 この作品を論じた論文を探すとポリフォニーから語っているものが多いのもむべなるかな(作中で鍵になるのが、盗聴した「声」から発言者を特定する研究というのも符合していて面白い)といったところ。個人的には繰り出されるエピソードの集積で世界が浮かび上がってくる構成は井上ひさしを連想した。ロシア文学愛好は語っていたことでもあるし、実はかなり影響を受けているのではないかと思ったりするのだが、ソルジェニーツィンについては語っていたかどうか。遺作となった作品の一つ『一週間』が日本人捕虜収容所が舞台だったのを考えあわえて気になった。

奈良本辰也『もう一つの維新』A、藤本ひとみ『聖戦ヴァンデ』上・下 A

【最近読んだ本】

奈良本辰也『もう一つの維新』(徳間文庫、1985年、単行本1974年新潮社)A

 尊王と佐幕、攘夷と開国の対立を乗り越えるヴィジョンをもった「航海遠略策」を提出し、一時は幕末の政局を主導するかに思われた長州藩重臣長井雅楽の一瞬の栄光と没落を描く。

 わずか一年で失脚したとはいえ、普通の小説だと数行で済まされることを350ページくらいかけて書いているので、ほとんど日単位で目まぐるしく移り変わる情勢が描かれ、正直途中で追いきれなくなってしまった。ただただ些細なすれ違いやタイミングの悪さ、言いがかりに近い非難から最悪の状況に追い込まれていく様は、何か手品でも見ているようである。

 久坂玄瑞周布政之助らが(珍しく)悪役となり、安政の大獄吉田松陰を見殺しにしたことへの復讐として追い落としたという筋が中心になっているが、藩の外でも島津久光の上洛や寺田屋事件へといたる不穏な情勢下で、佐幕と尊王の複雑な勢力争いが繰り広げられており、長井もまたそれに翻弄された面が大きいようである。久坂たちも陰謀で長井を追い落としたよりは、苦し紛れに出した非難がタイミングよくはまってしまった印象。

 しかし「航海遠略策の建白書に朝廷を侮辱する文言があったらしい」という誰も根拠を示せない中傷から長井の失脚と切腹まで行くとは、現代の風刺のようでもあり恐ろしいが、長井自身は個人的には松陰らに悪感情は抱いておらず、ただ松陰を江戸に送ることを伝える使者になったことで恨まれたというのがそもそもの悲劇の発端になっているあたり、史料に基づきながら悲劇を構築する歴史家と小説家の才が存分に発揮された隠れた力作といえる。

 

藤本ひとみ『聖戦ヴァンデ』上・下(角川文庫、2000年、単行本1997年)A

 『もう一つの維新』が明治維新の暗部とすれば、こちらはフランス革命の暗部。革命勃発後、革命軍に追われる王党派貴族は、宗教を禁じられ反発する農民たちを糾合してヴァンデ地方で反乱を起こす。最初は優勢に戦いを進めていた王党軍は人望篤いリーダーの不慮の死をきっかけに劣勢となり、数万の勢力はやがて全滅への一途をたどることになる。革命軍は貴族も農民も容赦なく虐殺し、この事件は指揮官の暴走として歴史の闇に葬られることになる。

 バスティーユ牢獄襲撃事件を起点に、貴族の青年と平民の少年が、やがて反乱軍の指導者と革命軍の指揮官としてクライマックスで対峙し、見下す側が追われる側に、足蹴にされていた側が追う側に転じる――という「本筋」がどうでもよくなるくらいに、壮大なスケールの群像劇が描かれる。時として主人公のようになるロベスピエールをはじめ、その崇拝者のサン=ジュストら国民公会メンバー、一方の反乱軍の歴代司令官やその仲間、彼らと袂を分かち独自の戦いを続ける者、一時的に支援者となる忍者みたいなふくろう党など、実在の人物も多数まじえて描かれ、ヴァンデ反乱に物語を制限した関係でその後の運命が描かれない者も多数いるが、それぞれに鮮烈な印象を残す。

 また印象に残るのがフランスの地理的なスケールの大きさで、どうしても明治初期の士族反乱と比較してしまう。日本では蜂起後は数日ももたずに鎮圧され首謀者は逃亡を図ってもすぐに逮捕・処刑となってしまうのに、フランスでは怪我さえしなければどこまでも逃げ続け、各地の反乱勢力や外国の援助のもと何度でも盛り返す。江藤新平前原一誠がもっと広大な国で反乱を起こしていたら……まああまり変わらなかったかもしれないが。

 しかし読んでいて思うのが、ロベスピエールの描き方の難しさである。本書では徹底した虐殺を指揮したのはロベスピエール自身ではなく、ロベスピエールを崇拝する(おそらく架空の)少年指揮官の独断専行というワンクッションが置かれる。彼は最後に虐殺の罪の責任を負って切り捨てられ、ロベスピエール本人が指揮していたらどうなっていたかは曖昧にされる。思えば長谷川哲也の『ナポレオン』でも、ロベスピエールは非情な政策を断行しつつ裏では「これも革命のためだ」とナイーブに傷つく姿がいちいち描かれ、言い訳がましく感じた。「正義」の立場だった人物の悪行を描くのは藤本ひとみでさえもどうしても腰が引けて見えるというのは、日本では西郷隆盛西南戦争をどう描くかという問題にも通じるものかもしれない。

赤川次郎『台風の目の少女たち』B、山本美希『ハウアーユー?』A

【最近読んだ本】

赤川次郎『台風の目の少女たち』(ハルキ文庫、2012年)B

 夫も娘も捨てて不倫の末駆け落ちをしようとしていた女性が、大型台風の接近によりそれを阻まれる――というところから物語が始まる。嵐を避けて、山間の町の人々は近くの体育館を避難所とするが、次第にひどくなる嵐の中で孤立する。殺人事件が起こったり、銃を持った男が紛れ込んだり、そこへ夫の不倫相手や娘の恋人の浮気相手が現れたり、事件が次々に起こる中でそれぞれの思惑が絡み合い、生き残る道を模索していくことになる。

 赤川次郎だけあって読みやすいが、題材のわりに読み口があっさりしすぎている印象。不倫や殺人といった大事件が起こっては数行で通り過ぎていくのは、300ページに満たない本では仕方ないのかもしれないが。個々人のドラマは災害下の非常事態の中では扱いが小さくならざるをえないはずで、そこであっさりした描写にも説得力が生まれるはずだったのだと思う。しかし本作では、肝心の台風の描写が窓の外の嵐のようにいまいち実感のないものとなっており、臨場感に欠けていた。理由を考えてみるに、赤川次郎の作品では登場人物の会話で物語が進むことが多いということがある。それは確かに読みやすいのだが、逆に言えば会話ができるというのは、台風がその程度であるとことを暗に示してしまっているように思えるのだ。近くにいるのにコミュニケーションもままならない危機的状況下での生、というのがやはり、災害小説でのスリルの一つではあるまいか。

 赤川次郎の他の災害ものとしては『夜』が好きだったが、あれは災害よりもそれにより甦った謎の怪物のほうが恐怖を演出していた。本作では殺人鬼のような者が出てきてもすぐに退場するような肩透かしの連続で、それに代わる存在はなかった。

 

 久しぶりに赤川次郎の作品を読んだが、色々文句を言っても「赤川次郎らしさ」はこの作品でも健在である。町の人たちが頼りない中で、たまたま都会から来ていた女の子が思いがけないリーダーシップを取って話を引っ張っていったり、町医者のような老人が豊富な知恵で状況を見通しているといった要素は、いかにもと思ってしまう。故郷に帰ってきたような懐かしさである。

 

 

山本美希『ハウアーユー?』(祥伝社、2014年)A

 夫は日本人、妻は外国人、娘がひとりという、近所からみても幸せそのものの家庭。だが夫がある日突然失踪したことで、その幸福が崩壊する。夫は携帯電話を家に置いていったから、明らかに自分の意志で出ていったのだ。それでも妻はいつか夫が帰ってくると信じ、連絡をひたすらに待ち続けるが、やがて精神のバランスを崩していく。平静を装いながらも、退行したり暴れだしたりと次第に奇行が目立っていく母親に耐え切れず、娘は恋人を作って出ていってしまう。近所からも見放される中、ただ隣家の女の子はたった一人の味方となり、物語の終りを見届けることになる。

 岡崎京子的な、時に乱雑とも見えるような筆致は狂気を表現するのにふさわしく、読んでいて胸に迫るものがある。しかし岡崎京子がそうであるように、かなり計算されて物語が構築されていることが、打ち明けすぎともとれるあとがきからわかる。もっともその割にはスピード重視な展開で、一気に読み終えてから思い返すと色々と無理がある。一体妻の実家はどうなったのか、留学中に恋に落ちたというが駆け落ちだったのか、妻が天涯孤独の身だったのならそれを捨ててしまったほどの理由は何なのか、妻には昔に別の恋人がいたようなことがちらりと示唆されているが、彼女の意識の中には原因への心当たりが全くないらしいのはどういうことか。読み終えてみると色々疑問がわくものの、読んでいる間はそれどころではなく、夢中だった。

 読みながら思い出したのは、カネコアツシの『SOIL』(ビームコミックス、2003~2010年)だろうか。あれはニュータウンの平凡な一家がまるごとある日突然失踪し、事件を調査するうちに住人の狂気やニュータウン造成前の歴史などの隠された背景が浮かび上がってくるというサスペンス漫画であった。

 それと比較したときに『ハウアーユー?』に感じるのは、「意味づけへの徹底的な拒否」だろう。結局のところ彼女の人生の物語は、我々読者に何をもたらしたか――というと、特に何も、わかりやすい教訓や警告は残してはくれない。彼女の人生に深くかかわることになった隣人の少女は、成長してから彼女の人生をめぐるドキュメンタリーを作ろうとするが、彼女のことは何一つ明らかにすることはできない。インタビューを受けた近所の人々が語るのは彼女が自分にどう見えていたかということだけだし、少女もまた何か語ろうとしても自分自身のことを語るばかりである。

 それでも、彼女が確かに生きていたのだということは、泣きじゃくって真っ赤に腫らした目や、認めきれない絶望に歪んだ表情を通して、読んだ我々の心に焼き付いて残っている。しかし、その内部で何があったのかを知ることは、我々には永遠にできない。そう考えたとき、冒頭のぺソアの引用が納得できる。

わたしが死んでから 伝記を書くひとがいても

これほど簡単なことはない

ふたつの日付があるだけ――生まれた日と死んだ日

ふたつに挟まれた日々や出来事はすべてわたしのものだ

 個人的には、これは最後に置かれるべきではないかと思う。読者に与えられるのは、彼女が生まれ、そして死んだということだけである。釈然とせずに読み返したとき、このぺソアの詩に触れてその意味を知ることになるのだ。

 

 男性としてはやはり、不在の夫が気になったが、女性が読むとどうなのだろう? 途中で、これは夫は最後まで出てこないか、全部終わった後にのこのこ出てきて海でも見つめながら「疲れたんだ」などと述懐するとか、そんなところなのだろうとは思ったけれど。一方で、理由の全く見えない失踪は理不尽であるがゆえにかえって衝撃的で、頭は合理的な解釈を生み出そうとしていた。もしかしたら夫は単に携帯電話を忘れて出ていっただけで、何かの事件に巻き込まれて身元不明のまま死んでしまったのかもしれない……などと考えると、これは安部公房の『砂の女』を妻の側から見た話なのかもしれない。あの主人公も結局もどらず、妻が届け出て死亡扱いにしたのだったか。妻は待っている間どうしていたのだろうか、と初めて思った。

宇津田晴『俺の立ち位置はココじゃない!』B、梨屋アリエ『スリースターズ』B

【最近読んだ本】

宇津田晴『俺の立ち位置はココじゃない!』(ガガガ文庫、2017年)B

 男らしくなりたいのに「姫」と呼ばれている少年と、女らしくなりたいのに「王子様」と呼ばれている少女が出会い、「理想の自分」を目指して協力して奮闘するコメディ。

 文章力の賜物というべきか、どれだけ努力しても姫と王子様扱いされて空回る前半のドタバタが良く書けていて、後半でいくつかの事件を経てそれぞれが男らしく/女らしく活躍しても、率直に言って「似合わない」と思ってしまった。この辺作者がマジメに1巻で一段落させようとしたために、よく言えば正統派、悪く言えば無難にまとまってしまったように思える。どうやら2巻で終わってしまうらしいが、かなり手堅い(新人かと思ったら少女向けラノベで既に実績のある人だった)ので、前半のノリをそのままで不憫キャラとして投げっぱなしで終われば、もっと続いたのではないか。

 

梨屋アリエ『スリースターズ』(講談社文庫、2012年、単行本2007年)B

 裕福ながら両親の愛に飢え、葬式に紛れ込んで得た死体写真の投稿ブログを主宰する弥生。

 貧乏で親の愛が得られずに運命の愛を求め、恋人をつくっては別れを繰り返す愛弓(あゆみ)。

 非の打ちどころのない優等生として生き、親や教師の期待やクラスメイトの妬みに押しつぶされそうな水晶(きらら)。

 境遇の全く異なる3人の中学生がネットを通じて出会い、最初は集団自殺しようとするが失敗し、「スリースターズ」というグループを結成して社会を破壊するための自爆テロを企てる。

 あらすじをまとめるとそういう風になってしまうが、爆弾が登場するのは最後の方だし、おそらくティーンズ向けの小説なのでもちろんテロが実行されるわけではない。物語の3分の2以上は3人が出会う前の、それぞれが居場所を失うまでに充てられる。これがすごく上手くて、周囲のひとりひとりが軽い気持ちで心無い言動をした結果、もはや修復不可能なくらいに3人を孤立へと追い込んでいく様は、見ていて胸が痛い。そして彼女らの直面した問題に対して、必ずしも十分な答えは出ない。ただ、もといた社会から逃げ出して、自爆テロのために予期せぬ迷走を繰り広げた末、愛弓は新たな愛を見出し、水晶は価値観の違う人たちに出会って自分の全く知らない世界があることを知り、再び歩みだす勇気を得る。物語は彼女たちが弥生もまた立ち直らせようと決意するところで唐突に終わる。未来は決して明るくはないが、どこか希望を感じさせるラストである。

 しかし改めて考えると、実際のところ3人の未来はどんなものなのだろうと思ってしまう。3人を追い詰めていった社会は、これから対決することが困難に思えるくらいに強大で残酷に描かれる。弥生については解決を見ず、親の愛を得られず死体写真に自分の生を見出す心の空虚が埋められるかどうかはわからない。愛弓の母親は親としての役目を放棄して姿を消し、その友人は恋人を取られたと勘違いしてクラスに悪い噂をばらまいている。水晶を縛ろうとする母親は反抗する娘を屈服させるために包丁まで持ち出すし、彼女の成績に嫉妬するクラスメイトは被害者意識すら持ってクラスを煽動して孤立させる。そんな人たちに、いったいどうやって抵抗できるのだろうか。もしかしたら彼女たちは、一時間後には再び社会への絶望に囚われているかもしれない。ネット上の感想をみても、未来を読者の想像にゆだねるラストは賛否両論のようだ。解説の雨宮処凛は、作品を絶賛し共感を示したあとで3人の未来について述べる。

 少女たちは、きっとすぐに忘れてしまうだろう。

 スリースターズのことも、それぞれのことも、お風呂に薔薇の花を浮かべた夜も、さよならパーティーも、自爆テロ計画を立てた短い日々も。

 きっと一年も経てば、この日々のことは幼い頃の記憶よりもあやふやで白昼夢のような手触りになっているだろう。そして三人はもう連絡なんかとっていなくて、お互いの顔も思い出せないのではないだろうか。

 少女の一年とは、そういうものだ。

 そして、おそらくそれぞれが恋におちて、失恋をして、傷ついて、そんなことを繰り返して、気がついたら三人は彼女たちが「つまらない」と思っていたような大人になっているだろう。(p.484) 

 ここに示されているのはおそらく「良い未来」ではないだろう。けれどそうすることでしか、三人は生き残ることはできないというのが雨宮の結論だ。雨宮処凛の自伝的要素を含むとされる小説『ともだち刑』(2005年)の主人公は、中学時代のイジメをうまく切り抜けられなかったことで、美大を目指す予備校に通う現在も、心の傷を抱えてうまく社会と折り合えないでいる。その雨宮ならではの、批判的な結論といえる。

 たとえ過去が真っ暗で、ひょっとしたら未来も暗いものかもしれないが、いまこの現在は輝いてそこにあり、それはきっと心の支えになるであろう――という形式の物語は、テンプレートとしてよくある。それは物語としてみた場合美しいのだが、必ずしも現実に対して有効な答えを与えてはくれない。答えを出す困難さは、多くの物語が挑んでは壁に阻まれてきたように見えることからも察せられる(たとえば同じように社会から外れてしまった少女と少年が犯罪を通じて出会う作品として、松岡圭祐の『マジシャン』(2002年)とその続編『イリュージョン』(2003年)があるが、これも完結編として予告されている『フィナーレ』はいまだに刊行されていない)。本作でも、500ページ近く読んで、答えは得られない。そういうことが主眼の物語ではなかったかもしれないが……雨宮の解説に見るように、すでに答えはほぼ決まっているのに、それを明言することをややはぐらかされた気分になったのは事実である。

源氏鶏太『永遠の眠りに眠らしめよ』B、ジャック・カーティス『グローリー(上・下)』B

【最近読んだ本】

源氏鶏太『永遠の眠りに眠らしめよ』(集英社文庫、1985年、単行本1977年)B

 サラリーマン小説の草分け的存在として知られる源氏鶏太が、作家人生の後期に手掛けた怪奇小説のひとつ。

 主人公は、ある日突然、社長の急死によりその後釜に座ることになった男。専務という立場に満足していた彼は思いがけない幸運に喜ぶ間もなく、次々に奇妙な事態に見舞われる。出世競争に敗れた昔の友人がふらりと現れ嫌味を言って去っていったかと思うと彼がすでに死んでいたことがわかったり、社員の一人が突如凄惨な自殺を遂げたり。謎の女、既に死んだはずの人たち、生霊、互いに矛盾した現象、ドッペルゲンガーめいたそっくりさん、白日夢といった不可解な出来事の連鎖の末、彼は同じ現象に見舞われていた秘書とともに、すべての事象をつなぐ驚くべき真相を突き止める――

 さすがにベテランだけあって読みやすく、つまらないことはないが何しろ長い。さっき会った人は幽霊でした、街で会った人がXXに見えたけど別人でした、さっきXXと会って何か意味深な話をしたけどあれは夢だったかもしれないという、主要人物が半分以上果たして生きているのか死んでいるのかすら何一つ確かなものがわからない、しかもよく似た展開がずっと続く。これはやはり連載小説だから行き当たりばったりに進んでいるのかと思ったら、著者には珍しい書下ろし小説だという。読んでも読んでもなかなか終わりが見えないのは迷宮めいてそこはかとない恐怖ではあったが、まさかそれを狙ったのではないだろう。

 ばらばらの出自を持っていると思われた主要キャラたちの先祖が、実ははるか昔になにか関係があって、それが現代の彼らに影響しているらしいという、徐々に見えてくる真相は面白いが、最後は淡路の呪われた一族という、やたら具体的なところに行きついてしまったのは驚いた。同じく血筋というものを主軸に据えることが多かった横溝正史だったら架空の島や村が舞台だが、ここではそれすらしていない。淡路島内の地名は流石に架空のようだが、やはり人によっては良い気持ちはしなかったのではないか。

 物語の構造としては、ある日突然に分不相応な地位についてしまった男が、内心に抱いたうしろめたさを克服して立派な社長となる――という話を怪奇小説として描いているということになるだろうか。秘書が同じ立場に置かれるために「仲間がいる」という心強さから多少恐怖や孤独が薄れてしまったのが惜しい気がする。やはり怪奇現象は一人で逃げ道のないものが一番怖い。

 

ジャック・カーティス『グローリー(上・下)』(長野きよみ訳、ハヤカワ文庫、1990年、原著1988年)B

 目の前にいるのに姿が認識できない殺人鬼、という冒頭は魅力的である。風呂の最中に殺される女性というのは、多少『サイコ』を意識しているのだろうか。

 イギリスを舞台にサイコホラーとポリティカルサスペンスの融合……というとどんなかと思ってしまうが、ある政治的陰謀のため口封じに雇った殺し屋が実はサイコキラーだったという話。主人公はアル中の元刑事で、殺人鬼が残したわずかな手がかりを辿っていった末に、アメリカや中南米の某国の政治経済を揺るがす巨大な陰謀に迫っていく。

 つまらなくはないが、やはり二つのジャンルの食い合わせが悪い印象。ポリティカル・サスペンスでは、人間は合理性に従って生きる(ことになっている)ため、物語に入り込んでくる不合理性がドラマとなるのだが(家族を守るために敢えて不利益な行動を取るとか)、サイコホラーはむしろ不合理な行動こそがメインであり、その中に実は合理性の芯が通っていることが恐怖を煽るという、ベクトルの異なるジャンルである。そのためサイコホラーパートとポリティカルサスペンスパートはあまり交わらずに終わってしまう印象だった。

 実際のところサイコキラーが依頼と関係なく欲望に任せて殺人を続けたせいで、解決の糸口が見つかってしまうのだから、国際政治をコントロールしていたつもりが、アル中の元刑事ひとりに追い詰められてしまう政財界の大物たちはたまったものではなかっただろう。妻を突然の事故で失い、ショックでアル中になった元刑事が、事件をきっかけに立ち直ろうとして、何度となく酒に溺れそうな危機を迎えるのが一番ハラハラしたかもしれない。

小田実『ガ島』B、フレデリック・ポール『ゲイトウエイ』B

【最近読んだ本】

小田実『ガ島』(講談社文庫、1979年、単行本1973年)B

 遺骨収集という名目で金儲けのクチを求めてガダルカナル島を訪れた大阪商人が、ジャングルで遭難し、彷徨の末に幻覚の中で日本軍の一兵卒となり、ガ島=餓島の激戦の悪夢を見る。今でいうと奥泉光が書きそうな話であるが、実のところその部分はラスト数十ページに過ぎず、メインはそこに至るまでの旅行小説であり、それを通して描かれる高度経済成長期の風俗を描き出した小説である。

 時代は70年代、一代にして大手トンカツ屋をつくりあげた大阪商人が、偶然から妻の姉と香港に旅行に行くことになり、そこで出会った山師めいた男とガダルカナル島にリゾート開発という話につられて現地を訪れるまでの旅が詳細に描かれる。

 書き出しはこんな感じである。

 なにしろ、こわいことが昔から大きらいな男なのである。それで、ヒコーキなんか乗ったことがない。自慢じゃないが、ほんとうの話だ。あんなものが、そもそも、飛ぶはずがあるものか。昔の、プロペラをたよりなげにまわしてやっとこさ飛んでいた「赤トンボ」あたりの練習機ならいざ知らず、今の世の中、そんな悠長なことではラチがあかぬ。ピカピカ光る巨大な翼にエンジンをいくつもぶら下げて、ゴウッーとかウウッーとか首狩り族の雄たけびそこのけのドー猛な叫びをあげながら、デパートほどもあるジェット機が中天めがけて一直線に馳け昇る。言わずと知れたジャンボというやつだが、わたしの見るところ、あんなものが実際に飛ぶはずがないのである。あれはただあんなふうに見えているだけのことで、わたしのような下界の見物人も、なかの団体旅行も、夢を見ているのである。老若男女、そろいもそろって夢を見ていて、それで、飛ぶ。飛ぶように見える。

  こんな調子で、何か見たら何か思わずにはいられないという勢いでとにかく喋りまくる。それは小田実自身でもあるのだろうが、批評とも感想ともつかない無駄話が続くので、読み飛ばしているといつの間にか場面が変わっていたりして困ってしまった。自分は何か見ても「特に感想はない」ということがよくあるのでうらやましいくらいである。

 とはいえ、この饒舌な文体で浮かび上がってくる大阪商人というのが本当にうまくて、開高健小松左京藤本義一といった大阪文学の作家たちに一脈通じるものがある。「うまいで、安いで、ワッハッハッ」なる大ヒットCMからして正直好きになれないのだが、高度経済成長期の日本人のステレオタイプ的な姿をこれほど克明に描いた小説も珍しい。全編にわたって酋長、黒ンボ、土人といった言葉が飛び交うので、『HIROSHIMA』などと違って再刊はまずムリだろうが、時代の資料としてのぞいてみる価値はある。

  

フレデリック・ポール『ゲイトウエイ』(矢野徹訳、ハヤカワ文庫、1988年、原著1977年)B

 太陽系に発見されたヒーチー人の遺跡「ゲイトウエイ」。ヒーチー人は何者か、どんな姿でどんな文明を築いていたのか、確かなことは何もわからないが、代わりにそこにはただ大量の宇宙船が残されていた。それに乗った人間はよくわからない仕組みで自動的にどこかに連れて行かれ、運よく別の遺跡にたどりついてヒーチー人の遺産を持ち帰れば大儲け、運が悪ければ無惨な死体になって帰還するか、死体一つ戻ることも叶わない。

 かくてゴールドラッシュよろしく賞金稼ぎたちがゲイトウエイに集い、一攫千金を目指してどことも知れない旅に旅立っていく。

 主人公もそこに集まった冒険者の一人ということで、能天気な冒険小説を予想していたが、決してそんなものではない。主人公が臆病で(まあ当然なのだが)怖がって、チャンスがあってもなかなか旅立たず、その間の無為の日々と、彼を置いて先に旅立つ仲間たちが描かれる。そんな彼がゲイトウエイで過ごす日常と、10年以上あとの彼――遂に旅立って無事に帰還し、巨万の富を得たものの、精神を病んでいる彼――のカウンセリングロボットとの会話が交互に延々と描かれ、最後に物語は一つになり、彼が決定的に精神を病むに至ったある事件が明かされる。

 ストルガツキー兄弟の名作『ストーカー』を意識しているのが第一だろうが、アメリカ史におけるゴールドラッシュ、隆盛した冒険小説へのアンチテーゼ、ヴェトナム戦争による社会全体のトラウマと精神分析の流行など、多様な含意が見える。ヒーチー人の遺した宇宙船による宇宙の探索は、一見すると古き良きアウタースペースもののように見える。しかし、それはただ機械に運ばれていくだけの受動的なものであり、またカウンセリングにおける精神世界の探求は外宇宙の探索と並行して描かれ、宇宙文明レベルの事件が個人レベルのトラウマに収束していくといった構図は、インナースペースものそのものである。これはニューウェーブへの皮肉か、それともニューウェーブとそれ以前のSFの融合という一つの解決なのかはSF史に詳しくないのでよくわからない。

 ただ試みとしては面白いものの、これをずっと読むのはやはり退屈である。続編では謎のまま終わらせたヒーチー人の正体や、主人公が精神を病むに至った事件の解決が描かれるようで、軒並み評価は悪い。どうしようかな……