奥泉光『葦と百合』B+、貫井徳郎『神のふたつの貌』B
【最近読んだ本】
奥泉光『葦と百合』(集英社文庫、1999年、単行本1991年)B+
現代文学の第一線で活躍し続けている奥泉光の、長編小説としては第一作に当たる。前半はミステリの外見を持ち、後半ではメタフィクション的な手法を用いて虚実を曖昧にし、虚構世界における事実のあり方を探っていく――という、『バナールな現象』『モーダルな事象』『「吾輩は猫である」殺人事件』『プラトン学園』『グランド・ミステリー』そのほか諸作品で定番として展開された仕掛けが既にみられる。
物語の中心にあるのは、かつて新潟の山奥で、理想社会を目指す実験として作られた小規模なコミューン「葦の会」。大学生の一時期そこに恋人と参加したものの、そこのリーダーに恋人を奪われて決別し、後には医者となった男が、(別の女性との)結婚を控えてそこを再訪する。荒廃した跡地のもっと奥に、元恋人と彼女を奪った男がまだ二人だけで生活しているらしいという情報を得た彼は、彼らの姿を求めて森の奥へと踏み込む。そして彼は、夢とも現実ともつかない奇妙な世界へと迷い込んでいくことになる。
こういう現実と虚構が混ざりあっていく、ディック的やカフカ的と称される小説は、昔は読んでいる間はただ振り回され、よほど頭が良いか幻視者でもなければ書けないもののような気がしていた。ただのお話であるとわかっていつつも、もしかしたらこの奥には現実が解体されてしまうような、このつまらない日常を脱出できるような神秘の鍵が隠されているのではないかという気がしていたのだ。
しかし本作に関しては、意外にロジカルに作られていることがわかる。使われている仕掛けは2種類に分類できる。一つ目は超常現象によるもの、二つ目はメタフィクション的な仕掛けによるものである。前者を作中世界内における矛盾、後者を作中世界の人物には意識されない、テクストレベルでの矛盾と言っても良いかもしれない。
一つ目は、作中で超常現象(らしきもの)を起こすものである。科学的にはありえないことを起こし、起こったことはすべて幻覚や妄想だったという解釈を提示したうえで、しかしそれだけでは説明できないような余地を残すのである。これにより、真実がなんだったか曖昧になる。
それを可能にするための道具が、本書ではたびたび登場する幻覚キノコにあたる。このヒッピー文化お得意のアイテムは、実に簡単に、作者に都合の良い、現実とも幻覚ともつかない世界を見せる。このあたりの使い方はやや安易ではある。
二つ目は、作中世界内では説明のつかない、テクストレベルで見たときに現れる矛盾である。一つ目は作中世界の人物に実際の現象として認識されるのに対し、二つ目は認識されないことが多い。たとえば作中作として出てくる小説の書き出しが本作の冒頭の書き出しそのものであるという入れ子構造や、冒頭の場面から分岐して事件の起こらなかったまったく別の未来が最後にぽつんと描かれるというものである(本作はおもしろさはこのラストの新鮮さにある)。これは作中世界の人間には認識されない、テクストレベルの矛盾である。
ひとくちに「虚実が曖昧になる」とはいっても、実際にはこの二つの手法が混ぜ合わされて使われているのだ。
この2種類で、ある程度メタフィクション小説の分類ができるかもしれない。たとえば阿部和重の『シンセミア』など神町三部作は一つ目の手法、『インディヴィジュアル・プロジェクション』では二つ目の手法がさらに進化して使われている、というように。なろう系にみられるループものは、二つ目の手法を使いつつ、複数の矛盾するテクストをさらに別の物語によって結合させていると説明できる。
しかしこういう緻密な構築性のほかにもうひとつ、この小説を読むには、作中でもわざとらしく名前があがる真木悠介的な、コミューンやヒッピー文化への憧れがある。多くの人間がこの時期、理想社会の実現を求めて小規模な共同体をつくり、自分の理想の実験を試みて、挫折していった。
奥泉光自身が、こういった動きにどの程度かかわったことがあるのかはなんともいえない。しかし、彼が多用するメタフィクションや虚実の混交といった要素が、虚構世界における事実の探究という現代文学における大きなテーマに挑むものに見えながら、その実は薬物による変性意識状態の表現が真の目的なのではないか、と思うこともあるのだ。とりわけ終盤、主人公の友人たちが一連の事件に巻き込まれたとき、精神感応が起こったらしいことがちらりと触れられているところに注目したい。個人の幻覚を超えたその現象は、ティモシー・リアリーのLSD実験やカルロス・カスタネダのドン・ファンのもとでの修行が目指した物質文明からの解放や精神の融合といった「夢」を、小説の中で実現したもののように思える。それをほんの少し触れて見せたところに、奥泉光自身の願望が一瞬のぞいたように思うのである。
貫井徳郎『神のふたつの貌』(文春文庫、2004年、単行本2001年)B
まずとりあえずは、この小説はミステリであるとともに、宗教小説であるといえる。そしてどちらかというと、宗教小説寄りである。
たとえば二階堂黎人の『聖アウスラ修道院の惨劇』は、同じくミステリであり宗教小説であると言ってよいと思うが、こちらはあくまでミステリ的な解決が先にあり、その説明のために宗教の論理が持ち出されてくるという印象を与える。
一方本書では、主人公が生涯をかけて真摯に繰り返す「神は我々を見捨てたのか、なぜ悲劇は起こるのか」という問いかけが中心にある。それについての考察や議論がメインとなり、それを現実へ適用するかのごとく事件が起こるのだ。終盤明らかになるミステリ的な構造は、この物語の宗教的・寓話的な構造を明らかにするために効果的に使われている。
自分の内奥から発する問いや欲望を純粋に追い求めることで悲劇が起こっていくのは、貫井ミステリのお得意のパターンでもある。デビュー作の『慟哭』のごとく、あまりに精緻に構築された「悲劇」に、読後やるせない気分になるのはわかっているのだが、読む側にはどこかそれを求めるようなマゾヒスティックな気分がある。
(以下ネタバレ)
だがこれは、本当に宗教小説として捉えて良いのか、と読み終えてから考えた。
見方をかえれば、これは昔流行ったサイコサスペンスの変奏ではないか。主人公の思考が詳細に描かれているから、読者は彼らの行動の理由を知ることができる。しかし作中の人々は主人公の内面など知らない。外部から見れば、だれからも慕われる善良な牧師親子が、ある日いきなり人を殺したという、カミュの『異邦人』ばりに不条理な話である。多分あの親子は死んでしまったから、なぜそんなことが起こったのか、作中の人々は永遠に知ることはないだろう。
サイコサスペンスの犯人は、他人にはとても共感できない、しかし独自の徹底した論理を持ち、その論理で次々に人を殺していく。登場人物がなす術なく殺されていくのをみるうち、読者は自分もまた殺戮対象のひとつにすぎないことを悟る――それが、このジャンルの醍醐味である。その殺人鬼が、フィクションの境界を踏み越えて自分を殺しに来そうな錯覚を覚えれば、小説として成功したとみて良いだろう。『羊たちの沈黙』や『ハンニバル』の最後で何処へともなく姿を消したハンニバル・レクターが次に現れるのは、「読者の前」なのである。
本作はそういった作品群とは逆に、理不尽なはずの殺人の物語が恐怖よりも美しさや哀しさといった印象をあたえる――さすがに妊娠した恋人に暴力を振るうところなど時折嫌悪を感じるところもあるが、全体としての読後感は意外に悪くない――のが不思議である。主人公の態度があくまで真摯だからか? 客観的な記述が他人事のように距離をおかせるからか?
個人的には、貫井徳郎の多くの作品にみられる精神世界的なモチーフ、もっといえばスピリチュアルへの憧憬が、読者に伝染しているのではないか、という疑いをもつ。奥泉光の場合、コミューンやヒッピー文化への憧れは前提のものとなっており、それがない読者には入りこみにくいものになっていた。しかし貫井徳郎の場合はそういった世界への憧れをもたないところから出発して、憧れや信仰を抱くに至るまでを描いている。自分がこの作品を読み終えたときに哀しさや美しさを感じてしまったということは、それに「説得された」ということに他ならないのではないか。
こうなると、冒頭で書いた「宗教小説である」とはどういうことか、ということが問題になってくる。『慟哭』で新興宗教にのめりこんでいく男を描いたのをはじめ、カルト宗教、もっと広く言えばなにかの信念に魅入られていく人々を、貫井徳郎は説得力をもって描いてきている。それが単に小説的な味付けとして採用されているのか、それとも逆に、本人の内的な欲求の表現の手段として人に読まれやすいミステリという外皮が選ばれているのか――我々は、たとえミステリよりも宗教がメインになろうと、結局のところ主軸はミステリにあるのだと思おうとしている。しかし貫井徳郎自身が本当に向かおうとしているのは、宗教的な信念の「布教」そのものなのではないか。貫井徳郎を読むたびに気になるのは、そこのところなのである。