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戦時中のミッションスクールを舞台にしたミステリである皆川博子『倒立する塔の殺人』では、アンリ・バルビュスの『地獄』の話題が何度か出てくる。
乱歩は、アンリ・バルビュスの『地獄』に触発されて「屋根裏の散歩者」を書いたのではないだろうかと、わたしは思う。『地獄』は素人下宿の一室を借りた三十歳の男の独白である。引っ越してすぐ、彼は幻聴のような歌声を聴く。そうして、気づく。歌声は隣室から流れてくる。仕切り壁の上部の鏡板が一枚腐り、煉瓦の合わせ目がずれ漆喰が剥がれて、小さい隙間ができているのだ。男は隣室をのぞき見る。(p.62)
『地獄』は父の書棚にあったのだが、読もうとしたら、まだ早いと父に禁じられたのだった。(中略)
本を運んできた杏子に、「これ、わたし、父に禁じられたのよ」と『地獄』を示すと、
「それなら、きっと、面白いのね」杏子は微笑した。
「極度に虚無的な話ですよ」司書が言った。こちらに視線を向けずつぶやいたので、独り言かと思った。「<われわれのまわりには、どちらを向いても、ただ一つの言葉しかないと思う。それはわれわれの孤独をなぐさめるとともに、悦びの虚しさをあばく、あの廣大な言葉、すなわち無だ。>ラストの一節です」(p.208)
他にもあちこちで本文が引用され、主人公の心情が考察される。ここまで言及されるということは、作者自身の経験が投影されているのかもしれない。皆川博子は1945年時点で15歳くらいで、実際に当時こういったことがあったことは考えられる。
しかしそうするとどの訳を読んだのか。引用されているのは田辺貞之助訳の岩波文庫版なのだが、これは戦後の1954年の出版であり、戦時中の物語に出すのは矛盾する。
バルビュスの『地獄』については、阿刀田高もエッセイ集『夜の風見鶏』(朝日文庫)で回想している。彼によると戦前によく読まれたのは、昭和初期に新潮社から出された『世界文学全集』の32巻『現代仏蘭西小説集』に収められた小牧近江訳であったという。同エッセイに一節が紹介されている。
女は起き上つていた。半裸体の彼女は真白に見えた……彼女は全く裸になるのだらうか、それとも男がさうするのだろうか……。………………………………。彼女の銀のやうな腹の辺は部屋の中での月とたとへ得やう………大きな黒い線が、その腹を擁している。それは男の腕だ。男は女を抱いている。ひきしめる。そして、長椅子の上に押しつけている。それから、男の口は彼女の………………………………………………。接吻しようと近づく、恐ろしい甘さだ。私は黒い体が青白い体の前に跪づくのを見る、そして、彼女は男の上にどんよりとした眼を垂れる。
比較のために同じ箇所の田辺貞之助訳が示されている。
女は、いま、立っている。なかば服をぬぎ、白い姿を浮きださせている。女が自分から裸になるのだろうか、それとも男が裸にするのだろうか。ふっくらとした腿が見える。腹が、夜空の月のように、部屋のなかに銀色の光を放っている。大きな黒い筋が、その腹を横に切っている。男の腕だ。男は長椅子にうずくまって、女をかかえ、抱きしめる。その口は女の性の口のすぐそばにある。ふたりは人為を絶した快い接吻のために、身体を近づける。にぶ色の身体がほの白い身体のまえにひざまずいているのが見える。
同じ部分を訳しているのに、一読してだいぶ雰囲気が違うのに驚く。田辺貞之助の訳は正確ではあるのだろうが、妙にきまじめで単調である。面白みがない。小牧近江の訳は、客観的な叙述の中にときおり主観が強い訳し方をしていて、それが緊張と弛緩のリズムを生み出しているように思える。田辺訳が「腹が、夜空の月のように、部屋のなかに銀色の光を放っている。」とするところを「彼女の銀のやうな腹の辺は部屋の中での月とたとへ得やう」としたり、「ふたりは人為を絶した快い接吻のために、身体を近づける」となっているところを「接吻しようと近づく、恐ろしい甘さだ」と訳すことで、語り手の興奮がときおり見えてくるのだ。また「……」の部分は伏字であるが、これがかえって想像をかきたてるのもあるのだろう。かくて阿刀田の時代の若者は、小牧近江訳を「血をたぎらせて」読んだというわけである。実際、当時の阿刀田の周りの友人はたいていその作品を知っていて、読んでもいるのだが、内容はよく覚えていないという。
実際は阿刀田も弁明しているように、『地獄』自体はまじめな作品である。自分が読んだ記憶では、街に出る世間を地獄とみた主人公が、壁の穴から「世間の裏側」をのぞいてみると、その人間模様はやはり地獄であった――という、逃げ場のない絶望を描いた話だった。残念ながら現代の我々は、覗き見のめくるめく興奮を期待して岩波版に手を出し、きまじめな田辺訳に遭ってがっかりするという仕掛けである。皆川博子の小説でも、少女たちはあくまで真面目に「地獄」とは何かを考えている。
では皆川博子は阿刀田高と同じく小牧近江訳を読んだのだろうか。国会図書館および翻訳作品集成の検索によると、バルビュスの翻訳出版年表は以下のとおり。
1921年 布施延雄訳 新潮社泰西文藝叢書2巻
1923年 安島健訳(要約?) 世界思潮研究会
1930年 小牧近江訳 新潮社世界文学全集32巻
1946年 秋谷澄夫訳 新英社
1950年 小牧近江訳 蒼樹社
1952年 井上勇訳 創藝社
1953年 小牧近江訳 新潮文庫
同年 秋山晴夫訳 角川文庫
1954年 田辺貞之助訳 岩波文庫
1955年 小牧近江訳 世界公論社
1961年 飯島耕一訳 東西五月社
1968年 秋山晴夫訳 二見書房
同年 秋谷澄夫訳 近代書房
1970年 菅野昭正・宮原信訳 集英社世界文学全集デュエット版50巻
(出版年不明確なものや同じ出版社からの重版と思われるものは除外)
何度も出版し直されているようだが、ほとんどは戦後の出版である。先に述べたように、この内よく読まれたのは1930年の新潮社版世界文学全集(当時はほぼ唯一の世界文学全集だったという)だった。「この世界文学全集はほとんどすべての図書館に所蔵されていただろうし、古本屋にもあった。父親の本棚にもないではなかった。言ってみれば、これはシェイクスピアやトルストイなどと同様に、青年たちがたやすく見ることができる本であった。」しかし『倒立する塔の殺人』では、図書室の場面で、
「これ、お願いします」
「アンリ・バルビュスの『地獄』? 暗い話よ。極度に虚無的な。まだ早くないかしら」
「早すぎる本って、ないと思います」(pp.283-284)
と、単行本のような扱われ方をしているため、文学全集ではないと思われる。1923年の安島健訳はタイトルが『地獄物語』となっているし、世界パンフレット通信・名著梗概第2編となっているので、翻訳というよりは内容紹介のものであろう。となると1921年・布施延雄訳の新潮社泰西最新文藝叢書版が一番可能性が高いか。
しかし阿刀田高の読んだ新潮社の世界文学全集版でも伏字だらけの本で、いくらそれが図書館に普通に置かれていたとはいえ、学校の図書室にまで置かれるかどうか。文学全集版は他の作家も収録された中での1篇であるし、単巻となると入れないのではないか。伏字だらけであることも作中で言及はないし、皆川博子の場合は戦後に岩波版で読んだというのが一番ありえるだろうか。作中の少女たちが、官能小説的なものとしてではなくあくまで真面目に『地獄』を読んでいるのも、田辺訳をもとにしているのなら納得できる。