DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

星新一『白い服の男』A、ジョン・バーンズ『軌道通信』B

【最近読んだ本】

星新一白い服の男』(新潮文庫、1977年8月)A

 久しぶりに読んだ。ショートショートとしてはやや長めだろうか。

 よく言えば寓話的、悪く言えば単純で、メッセージがわかりやすすぎるきらいはあるが、それだけに後に生まれた色々な物語の原型みたいなものが見えてくるのが面白い。たとえば「白い服の男」は赤城大空下ネタという概念が存在しない退屈な世界』(ガガガ文庫)との類似でよく挙げられていた覚えがあるし、個人的に注目したのは「特殊大量殺人機」である。これは、「特定の条件に当てはまる人間を選んで殺せる機械」が発明され、それによる世界平和を目指す発明者と、世界の支配を目論む各勢力がドタバタ劇を繰り広げるというものであり、小畑健大場つぐみの『デスノート』とアイデアがよく似ている。

 だからといって、別にパクりというわけではない。星新一の場合は冷戦時代の核抑止論への皮肉が前提にあり、『デスノート』は清涼院流水など新本格ミステリを背景にしたゲーム的な発想があると思われ、全くアプローチは違うのだ*1。しかしそれが結果的に似た構図の作品を生み出すのが面白いところである。

 しかし、かつて気楽に読んだときと比べると、今は作者に関する伝記的な知識があるせいか、厭世的な気分をそこかしこに見出してしまう。元になった単行本はハヤカワ・SF・シリーズで出た『午後の恐竜』だというからなおさらだろう。コントのような話もあるが、半分以上がディストピアものである。これらの作中で、ディストピアに生きる人々は、いずれも最後まで日常に何の疑問を持つこともなく生きており、抵抗することなど思いもよらない。

 そうして星新一の作品群を通してわれわれ読者は、ディストピアを創り上げた体制側と、それに安住する人々のどちらにも属さず、両方を批判的に見る特権的な位置に、強制的に立たされる。星新一の創りあげるディストピアはひどく堅牢強固であり、読んだ後でそれに対する抵抗や変革といった方法を考えさせる余地がないように見える。とはいえだからといって、物語が我々に危害を加える心配はないわけだから、読者が置かれるのは、何もできず、する気もなく、しかし本質は見通している観察者という、安楽だが何の役にも立たない人間という立場である。

 そういう物語ももちろんあって良いのだが――しかし少なくともオーウェルの『1984年』や『動物農場』を読み終えた時は、この中でうまく抵抗するにはどうすればよいか無意識に考えてさせられた気がする。それと星新一ディストピアものとは、まったく異質の読書体験だったのではないか。こういうものに慣れ親しんだことが自分にどのような影響を与えているのか考えると、ちょっと恐ろしい気がする。

 

ジョン・バーンズ『軌道通信』(小野田和子訳、1996年、原著1991年)B

 宇宙時代の少年少女のスクールライフを描く佳品であり、TVアニメ『宇宙のステルヴィア』(2003年)を思い出させる。宇宙空間ならではのスポーツ、エリートたちが受ける特殊な教育などの要素も似通っている。

 時代は2025年、1990年代に戦争や疫病で地球が壊滅的な被害を受け(ユーロ戦争やミュート・エイズによるダイ・オフと説明されている)、一部の人類は宇宙に逃れて衛星を改造し、そこで独立した社会を営んでいる。主人公たち少年少女は、地球での生活を知らない、宇宙で生まれた第一世代にあたる。主人公の少女(13歳)が地球の人へ向けたレポートの「草稿」という形で、理解ある大人たちの庇護のもと、地球からの転校生との出会いやクラス内での対立、成績が上がらないことへのコンプレックス、クラスメイトとの初恋など、青春小説らしいストーリーが描かれる。(以下ネタバレ)

 普通はこういう設定では、何世代も後の安定した社会を描くのが定石であり、わずか一世代でこんな安定した社会を実現できるわけがないというのは誰もが思うところである。実際、終盤になると、実は子どもたちは周到なマインド・コントロールを受けて生活していることが徐々に明らかになっていく。上に挙げた青春小説らしいイベントも、この特殊な社会の担い手に成長するための計画されたものでしかないことが少しずつ明らかになっていくのは、語り口の巧みさと相まってなかなかスリリングではある。

 惜しむらくは本書はシリーズものの一作目なのに、その後の作品が訳されていないことである。この社会がどのように変質していくのか興味はあるが、未来社会独自の言い回しや価値観の描写なども多く、自分の英語力では難しそうだ。

*1:デスノート』が第二部で失速したと言われる(個人的には第二部の方が好きだが)のは、デスノートというストーリーの根幹を握るはずのアイテムが、戦略の一要素に過ぎなくなったことにより神秘性を喪ってしまったことがあると思う。最近発表された続編はますますその傾向を強めている。星新一の短編は奇しくもその隘路を予見させるものとなっているのではないか。