DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

 星新一の『夢魔の標的』(新潮文庫、1977年、単行本1964年早川書房)を読んだ。

 ショートショートの神様と呼ばれた星新一の、数少ない長編小説の一つである。彼の長編は、『ブランコの向こうで』や『声の網』などの連作長編を除けば、これと『気まぐれ指数』くらいのはずである。作者自身、長編という形式を意識しているのか、星新一の作品と思って読むと、スタイルの違いに面食らう。
たとえば、書き出しはこんな風である。

 歩きながら、なにげなく顔をあげた。ビルの上にある大きな時計の針は、午後の八時ごろのところにあった。
 昼のあいだ、どこかの物かげにひそんでいた闇。それらが解放されて徐々に空気中を立ちのぼり、空に広がりおわった時だった。だが、満潮になっても容易に波に没しない岩礁がある。ちょうどそれに似て、このあたり都心の繁華街は、なかなか闇を寄せつけようとしなかった。
 大通りに並ぶ商店街の飾り窓からは、照明が限りなくわき出し、暗さをあくまで押しかえしている。また、裏通りに並ぶバーの建物の壁の上では、ネオンサインの光の糸によって、ぬいとりが果てしなくつづけられていた。盛り場は人びとの雑踏によって昼の眠りから覚め、ますます、ごきげんな表情を作りかけていた。

この調子で、情景描写が2ページにわたって続いてからストーリーが始まる。比較のため、手元にある『おのぞみの結末』(新潮文庫)から一文目を抜き出してみる。

休日の午後、青年が自宅、すなわちマンションの一室でぼんやりとしていると、玄関でベルの音がした。(一年間)

研究室のなかでエフ博士がひとり実験をしていると、来客があった。きちんとした服装の紳士。声をひそめて話しかけてきた。(ひとつの目標)

からだが少し熱っぽかった。体温計ではかってみようかと思ったが、それはやめた。何度あるか知ったところで、どうしようもないのだ。また、そんなことをやっている時間も惜しい。おれには、早くやりとげなければならない重要な仕事があるのだ。(あの男この病気)

 いずれも一文目から、情景描写もそこそこに、なんらかの行動が始まる。
 ショートショートの場合、長さの制約があるので、すぐにストーリーに入って行かなければならない。文章も簡潔にならざるを得ず、それゆえに乾いた文体などとも評されることになった。また、『夢魔の標的』においては、登場人物も増田、恵子、西田などと固有名を与えられ、普段はエヌ氏などと抽象化されているのと対照的である。星新一作品の特徴といわれるものが、戦略的に獲得されてきたものであることが、この長編によってよくわかる。ただ、後半は叙述が平板になり、読んでいて少々退屈だった感がある。
(以下ネタバレ)
 話としては、SFというよりはパラノイア小説という印象である。恐らくは、筒井康隆の影響があるのだろう。ただ、腹話術師の人形がある日突然、術師の意志に逆らい勝手に喋り始めるというのが、星新一らしい奇想である。そもそも腹話術師という、身近でもなんでもない人物が主人公というのも良いし、多分読者が真っ先に気になること――人形が勝手に喋っているというのは、人形が命を得て喋るというホラー小説的展開なのか、腹話術師が自分でも知らないうちに心にもないことを言ってしまう精神分析学的展開なのか、という疑問を、一切置き去りにして話が進んでいくというのも、人を食っている。
 それだけではない。話は様々な疑問を読者に持たせたまま、淡々と進んでいく。そもそもなぜ、人形が喋りだしたのか、なかなかわからない。発端らしきものはいくつかある。たとえば、主人公は三週間ほど前から、奇妙な夢を見ている。目の前に黒い箱がぼんやりと見えている、というものである。どうやら近所の人も同じような夢を見ているらしい。夢に出てくる箱の位置関係からすると、どうやら同じ箱を見ているらしいのである。しかしそれはどうやらテープレコーダーらしいということになり、彼は電器屋に買いにいくが、そのとき一緒に奇妙な催眠テープをもらい、それで催眠をかける。それが彼を悪夢や不可解な現象に導くが、黒い箱がテープレコーダーというのは後に否定され、奇妙な黒い箱が現れる*1
 人形が喋るということはあくまで一つの現象として、意味が不明確な断片的なエピソードが、関連もわからないままに語られていく。人形がストーリーの中心に置かれるのは、あくまで主人公が腹話術師で、生活に不可欠の手段であるからに過ぎない。彼は、テレビのショーには腹話術人形に吹き替えを当てるという下手な風刺のような状況の中で、平穏な生活を取り戻そうと医者に行くなど試みるが、何とか事態が進展しそうになると、偶然の行き違いにより「消極的に」阻まれる。彼はそれを何者かの妨害と考え、すべてをそれに結び付けて「理解」していく。この辺、起伏に乏しく、読み進めるには少々気力がいる。
 彼の症状に興味を示す女医との出会い、人形の吹き替えをする女性との恋などの転機を経て、彼女たちの協力により、すべては「異次元人の侵略」という「物語」で「解決」される。しかしこの答はあまりに陳腐すぎるし、いくつか不可解なままの謎もあって、本当は何か違う「真相」があるのではないか、と疑ってしまう。それが意図的なものなのか、読み終えたあとは「本当の答」を考えて、しばらくは何が起こっても、主人公の考えがうつって「何かの意図」を読み取ろうとしてしまうようになっていた。現実の変容がSFの一つの機能であるなら、これもまたそれを果たしていることにはなる。

夢魔の標的 (新潮文庫 ほ 4-13)

夢魔の標的 (新潮文庫 ほ 4-13)

*1:謎の黒い箱といえば、やはり短編小説が専門の阿刀田高による『黒い箱』なんて傑作長編もあった