DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

黒岩重吾の『紅蓮の女王 小説推古女帝』(中公文庫、1981年、単行本1978年光文社刊)を読んだ。

 しかしまあ、ひねりのない表紙である。もしかして使い回しかと思って、永井路子の『太平記』をひっぱり出してきたが、かたや炎、かたや(多分)夕焼けで、装幀は黒岩が上野憲男、永井が粟屋充なので違った。しかし改めて見ても、一続きの絵にすら見えてしまうのはいかがなものか。似ているといえば、前から佐藤雅美の『信長』は山岡荘八の『織田信長』の使い回しではないかと疑っていたのだが、今確かめてみたら、描いた人は同じだがさすがに違う絵だった。

織田信長(1) 無門三略の巻(山岡荘八歴史文庫 10)

織田信長(1) 無門三略の巻(山岡荘八歴史文庫 10)

信長〈上〉 (文春文庫)

信長〈上〉 (文春文庫)

 何か元ネタのある構図なのだろうか…。


 本書は、炊屋姫(かしきやのひめ)が30代敏達天皇(びだつてんのう)の后となり、彼の死後、用明天皇崇峻天皇と代替わりの政争を経て、推古天皇に即位するまでを描く歴史小説である。黒岩重吾は初めて読んだのだが、文体がある種特徴的で少し読みにくい。情勢の説明の時、典拠として日本書紀等をよく引くのだが、そのまま記述に採用するかと思うと、あまり根拠を述べず「疑わしい」とか「信じられない」と言って自分の解釈を設定したりするので、素直に受け入れれば読めるのかもしれないが、そうできないとつらいのである。もっとも中盤はフィクションの部分が大きくなるのか、あまり典拠の説明がないので、次第にスムーズに読めるようになる。
 助かるのが、尾崎秀樹と比較的長い解説対談をしていることで、フィクションとしての設定がどのあたりかこれで初学者にもわかる。蘇我氏百済の王族の子孫だとか、政争に巻き込まれて死んだ三輪君逆(みわのみきみさかう)という男を炊屋姫のひそかな愛人に設定されていることだとか。聖徳太子との対比で凡庸な政治家として描かれることの多い蘇我馬子が陰謀家として、すべての黒幕となっているのが出色で、巧みにライバルの対立を煽り、天皇をも凌ぐ権力を持つに至る。三輪君逆を殺された炊屋姫の凄まじい復讐心も、結局は彼の駆け引きの道具にされているあたり、現代を舞台に社会派推理小説を多数描いた黒岩らしいと言える。これで複雑な政治変動が理解できる、と自画自賛しているが、どうも現代劇を読まされている気分にはなってしまう。
 小説推古女帝といいながら、物語は炊屋姫が推古天皇に即位するところで終わる。三輪君逆のための復讐を果たして、すべてを喪ったところで、彼女の人生は終わったのだ、というわけである。
こういった、歴史の表舞台に出た時には実はその人の人生は終わっていたのだ、という捉え方は、斬新なようで実は意外に多い気がする。ほぼ同時代を扱った山岸凉子の『日出処の天子』も、聖徳太子が有名な隋への国書を出すところで終わり、その唐突な終わり方が、奇妙な一致を示している。別にこの時代に限らなくても、最近読んだところで、板垣退助を描いた三好徹の『孤雲去りて』は、維新での活躍を経て有名な「板垣死すとも」の事件で終わってしまい(実際はその後30年以上生きて自由民権運動にかかわり続ける)、邦光史郎の『小説田中角栄』もまた、角栄が総理大臣に就任したところで終わる。いずれの著者も、著者は対象の人生の物語をそこで「終わり」としたのである。本人としては、そこからが真の人生であったはずなのだが、著者はそう評価しなかった。そこに歴史への「鋭い批評」というものがあるのかもしれないが、いくつも続くと飽きてしまう。それに、その後のことも知りたいというのも人情ではある。
 『紅蓮の女王』は、抜け殻のようになった推古女帝をよそに、ロマンチストの厩戸皇子とリアリストの蘇我馬子がいずれ対立していくであろうことを匂わせて終わる。黒岩重吾がこの作品を皮切りに、古代史をテーマにつぃて長大な作品を次々に書いていくことができたのは、作家としては幸福であったように見えるが、しかし一方で、それと同じほどの精力を傾けた、戦後を舞台にした大河小説や推理小説群は、ほとんど忘れられているように見える。彼の人生を描くならば、始まりと終わりはどのように置かれるものか、考えてしまう。

紅蓮の女王―小説 推古女帝 (中公文庫)

紅蓮の女王―小説 推古女帝 (中公文庫)