DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

 ピエール・ブールの『猿の惑星』を読んだ。高名な映画版の原作。最新のハヤカワ文庫版の訳。
 猿が支配し、人間が奴隷となっている惑星に迷い込んだ現代人、というコンセプトは共通ながら、細部はかなり違う。そもそも有名な「猿の惑星は実は地球だった」というオチはなく、猿の惑星ベテルギウスの惑星となっている。この惑星もかつて人間が支配していたが、猿に取って代わられてしまった。この星を脱出して地球に戻った主人公は、何百年も経った地球が猿の惑星となっていたことを発見する。小説と映画の特性をそれぞれに生かした皮肉な結末といえるだろう。
 人間が猿に取って代わられた理由というのは二つの方向が考えられる。一つは猿の進化、もう一つは人間の退化である。原作においては、この両方が起こって猿の惑星が成立する。ロボット代わりのペットとして社会に普及した猿が知能を持ち、一方人間は手遅れになるまで事態の深刻さに気付かず文明を明け渡してしまう。しかしブールはもう一つの仮説を提示する。それは一言で言えば、文明は模倣にすぎない、ということだ。人類は知性や創造性を持ち、それが他の動物とは違う、というようなことを言われる。だが本当にそうだろうか。一部の人間は確かに真にオリジナリティのあるものを生み出したかもしれない。だがそれ以外の大多数の人間は、その恩恵を享受するのみで、ただ周りの真似をしてそれを利用しているにすぎない。ということは、模倣する能力さえあれば、文明は存続していくのではないか。まして物まねの得意な猿ならば、実は容易に文明を継承してしまうのではないか? 猿と人間は実は大差はなく、現在の支配関係はたまたまそうなっているだけなのではないか?
 それを証明するのが人間たちの弱さである。猿の惑星に降り立つ宇宙飛行士は、学者2名、ジャーナリスト1名という顔ぶれであるが、知性あふれる学者たちはあっという間に敗退してしまう。一人は猿の人間狩りに怯えて闇雲に飛び出して銃殺され、もう一人は捕えられて動物園の檻にいれられ、あっさり理性を手放して退化した人間と同じ状態になってしまう。チンパンジーの学者コルネリアスは主人公に、理性は得るのも棄ててしまうのも易しいと告げるが、その言葉はこの状況を端的に示している。
 そんな中で一人健闘するのが主人公のジャーナリストである。彼はフランス人ということもあってか素晴らしいプレイボーイぶりを発揮し、こういった異民族の捕虜になった物語の常として、チンパンジーの女性学者を誘惑して味方につけ、彼女を利用して互いに言語を覚え、ついに猿社会の中で発言権を得るに至る。一方で退化した人間の女性も誘惑して子どもを作ってしまう(違う星の生物なんだが…)。この子どもは猿社会から人間の復権を予告する危険な存在とされ、主人公は妻と子を伴って猿の惑星を脱出、地球へと向かう。この作品にはブールが日本軍の捕虜になった経験がいかされていると解説にはあるが、実際こんなことがあったとは思えない。何をやっても徹底的に劣位に置かれる映画版のほうがよほど本当らしい。
 映画は人間と猿の地位の逆転を描いて観客にショックを与えたが、原作は人間と猿に優劣など実はないと主張しているのだ。
 いくつか笑ってしまう点もある。猿がなぜ星を支配するに至ったのか知ろうとした猿たちは、人間に催眠術をかける。そうすると人間たちの集合無意識が覚醒し、はるか昔、猿にとってかわられる人間の記憶を語り出す。それで真相は一気に明かされるのだが、あっけなくてちょっと拍子抜けである。映画版でも催眠、ロボトミー、テレパシー、嘘発見器、洗脳などが各作品に取り入れられていたが、この種のテクノロジーで精神もいかようにも操れるという認識は、人間と猿の優劣関係の解体と並行して生まれたものだろう。
 最後、主人公は猿に支配された地球を去り、また別の星を求めて妻と子とともに旅立っていく。そこに人間がいたら、今度こそ滅亡を回避させるために。小説は彼の手記の形をとり、瓶につめられて宇宙を漂流し(ここもやはり定番)、宇宙旅行中の猿のカップルに拾われる。だが彼らは特に感銘も受けず、すぐに忘れられてしまう。瓶は届くべき人に届かない。宇宙船という瓶に乗った主人公もおそらく着くべきところには着かない。ではブールがこの物語に載せたメッセージは…

猿の惑星 (ハヤカワ文庫SF)

猿の惑星 (ハヤカワ文庫SF)