DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

 河野修一郎『千年の森』を読んだ。
 著者は1945年生まれで、鹿児島大学の工学部を出て化学会社に勤務の傍ら執筆、他の本は小説『植樹祭』(みすず書房)やノンフィクション『検証!くらしの中の化学物質汚染』(講談社現代新書)など。多分昔エコロジストの立場を前面に出していた池澤夏樹のような立場と思われる。
 だからこの物語も、ジャーナリストの主人公がある事故の真相を追うという、社会派ミステリ的な始まりを見せて期待させるが、著者の主軸はあくまで文明批判であるため、謎解きの興趣はあまりない。しばらく話を聞くうちにいつの間にか美女に気にいられて唐突に真相を教えてもらえる、という展開はありがちである。ただ村の開発計画の実態については実際に調査でもしているのか、ルポルタージュを読んでいるような巧みさがある。
 もうひとつ池澤夏樹と同じ点をあげれば、この作家はニューエイジ的な要素の影響が非常に強い。タイトルの「千年の森」というのは、東京で若者たちの間で流行しているという都市伝説である。どこかはわからないがどこかに「千年の森」というユートピアがあり、そこに住む美女に会えば永遠の命を授かるという。一方、その森には研究施設があり、怖ろしい人体実験が行われているという説もある。最近若者の失踪事件が多発しているという噂があるが、それはこの「千年の森」に行ったのだという。
 キリスト教千年王国論。カリフォルニア・ムーブメントのユートピア思想。ニューエイジ・サイエンスにおける宗教と科学の統合。それらを20世紀の日本で再現したケースのひとつが、80年代や90年代の新興宗教である。主人公のジャーナリストは、ある村の自然破壊についての調査をする過程で、偶然であった美女の導きで、その背後で暗躍する秘密結社の存在に行き着くのだが、それはまさしくそれらの新興宗教を戯画化したような、科学を宗教としてとらえた新しい宗教団体であった。
 信者たちは山奥に造られた巨大な研究施設の中で、日がな一日瞑想などの宗教修行をしている。彼らがそこにいるための条件は、教義に従って生きること。
「ひとつ。私は科学を信仰し、科学の神に仕えます。
ひとつ。私は科学の正義が、人類を救うものであると信じます。
ひとつ。この神に許された天才たちが、その才能を発揮することを称え、応援することを惜しみません。
ひとつ。私は会のメンバーやその他の秘密を決して他人にもらすことはありません。」
 この単純な教義のもとに結社が作られている。入会した者たちはそれに従い、不老長寿や新しい環境で人類が生きるための研究実験の材料として自らを差し出している。何しろ科学の「正しさ」を信じているので、人体実験も楽にやれる。たとえば地底100メートルに信者を送り込んで、人間が居住できるかを調べるとなれば、信者たちは喜んでそこへ行き、思い思いの神に祈りながら毎日を逆らいもせず平穏に過ごす。既に8人中2人が死んでいるという――
 この話がオウム事件以前に書かれたのならそれなりに先見性をもつものとして評価できたのだろうが、残念ながら本書の発行は97年であり、山の中にある畑や白い建物群からなる研究施設は、サティアンヤマギシ会の下手なメタファーでしかないのは明らかである。
 おそらく作者はオウムのような団体に科学者作家として向き合おうとして、ニューエイジイデオロギーの代表的たる「科学と宗教の融合」を根底において90年代の世紀末的現象の一つの統一的な姿を描き出して見せた。しかし現実のオウム真理教は河野修一郎が恐らくひとつの救いとして提示した科学的な側面すらない、アニメ的な想像力で駆動されていたということがその後指摘されている。その意味でこの作品はオウムへの批判にはなりえない。
 ただし、科学教団で人間性を失ってモルモットとして生きている信者たちのグロテスクな姿が、同時に何がしか未来へ貢献しているという矛盾は、今読むと現代科学そのものの戯画として非常に面白い。残念ながら小説は宗教団体のメタファーであることを出ず、真実の提示とそれに嫌悪感を覚える主人公、というところで止まってしまい、あくまで局地的な現象に終わってしまう。もう少しスケールの大きな物語にもできたのではないかとも思うのだが。

千年の森 (徳間文庫)

千年の森 (徳間文庫)