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フレドリック・ブラウンの『霧の壁』を読んだ。
読んでいる間は少々退屈で、田中小実昌の訳のおかげで読み進めていったが、最後になってそれもまた仕掛けの一つだったことが判明して、やはり流石である。
主人公の「ぼく」は、気がついたときには直前までの記憶を一切失っていた。そして目の前には祖母の射殺死体があった。数日前に離婚までしていた「ぼく」は社会復帰をこころみながら、何とか真相を突き止めようとするのだが……
先ほど述べたように、展開は非常にかったるい。いくら読んでもまったく真相が明らかにならないのである。一番怪しい「ぼく」のアリバイは真っ先に証明され(銃声がしたとき「ぼく」は別の場所にいたという証言があった)、その後も思いつくままに素人調査を続けるが、どれも真相には至らず否定される。
一方で明らかになっていくのは、「ぼく」の過剰なまでのお人よしっぷりである。自分が犯人かもしれない可能性を知りつつ積極的に真相究明に努力するだけでなく、自分に入る祖母の遺産から家政婦にお金を払ったり、何か悪いことがあれば真っ先に自分の責任かと気に病んだり。しかも周囲には、「君ならそう言うだろうと思った」と呆れられながらも苦笑されてしまう。彼がそんな善人であることは誰もが知るところだったのである。あまつさえ記憶を失った理由が、大好きな祖母の死体を目にしたショックである。
しかし、あるきっかけから連鎖的に明かされていく真相は少し残酷なものである。
(以下ネタバレ)
結局のところ原因は、殺された祖母のエゴイズムが自ら招いた復讐であり、物語中「ぼく」に何くれと世話を焼いてくれていた異母兄も、その行動の背後には秘められた悪意があった。しかし「ぼく」は二人の罪のすべてを許してしまう。真相を闇に葬ることを決意し、離婚した妻と再出発することを決意して物語は終わる。読後感のさわやかさはこの作品については定評がある。このラストが独善的に映らないのは、地味に「ぼく」のいい人っぷりを印象付けてきた展開によるものだろう。その意味で多少退屈な展開も有効に機能したといえる。しかしこれは本当にハッピーエンドなのだろうか。
この時代は精神病の遺伝が真面目に心配されていた時代で、妻との離婚にはそれが関係していた。結局彼が精神病の血筋だというのは誤解だったのだが、こうなってみるとやはりこの血筋には何か異常があるように描かれているようにしか見えない。祖母と異母兄が極端な悪意を持ち、「ぼく」は極端な善意を持つ。犯罪が狂気により起こされるのなら、それを解決するのも常識ではなく狂気である、ということだろうか。ブラウンのシニカルな認識が現れている結論ということなのだろうか。
色々と疑問を持つラストではあった。
- 作者: フレドリック・ブラウン,田中小実昌
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1960
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