DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

 コリン・ウィルソンの『黒い部屋』を読んだ。オカルト研究で名高い著者の唯一のスパイ小説。
 キーワードとなる「黒い部屋」というのは実在した心理実験である。音や光を外界から遮断した部屋で長時間すごして、人間に与える影響を調べる。最初の一日は、外界からの刺激が劇的に低下するため、集中力が高まって思考能力が格段に上がる。しかし時間が経つにつれて逆に何か刺激を求めるようになり、ついには発狂寸前まで追い込まれてしまう。そのため能力開発と拷問の双方から注目されている。
 主人公の音楽家キット・バトラーは、能力開発のためと聞かされこの実験に参加する。だが実はこの実験は、黒い部屋を拷問に利用する謎のスパイ組織・ステーションKに対抗する人材の養成訓練でもあった。黒い部屋実験に驚異的な長時間耐え抜いたバトラーは、ステーションKの正体をさぐる任務を与えられてプラハに潜入するが――
 さすがというべきか、小説としてのバランスはほとんど考えられていない。大部分が「黒い部屋」に関する議論や実験で占められ、実験中にはサイケデリックでエロティックな幻覚を見たりと、他のオカルト小説とやっていることがあまり変わらない。とはいえプラハ潜入やアクションシーンなど息詰まるようなシーンも一部あり、読んでいて決してつまらなくはない。
 スパイ小説としては、これからは核ではなく情報の時代だ、というのが主なメッセージ。核兵器そのものではなく、核を誰かが持っている(らしい)、というような、真偽不明の情報だけが飛び交い、それを効果的に利用した者(正しい情報を手にした者、ではない)が勝利する、そんな時代だということだ。もはや世界を動かすのに本物の核兵器は必要ない。そこでは国家やイデオロギーの役割は消失し、今までとは全く異なる論理が場を支配することになるだろう。象徴的なことに、主人公は祖国愛や任務への使命感ではなくただの興味で任務を引き受け潜入した挙句、最後には敵の親玉の演説に感動してあっさり寝返ってしまい、そこで物語は唐突に終わってしまう。
 作中で空虚な国際情勢議論がなされることからもわかるように、本作ではもはや東西陣営の対立は無効化している。スパイになるようなインテリたちにとっては、もはや敵や味方といった区別は成立せず、魅力的な情報を与えてくれる者についていくのが正義なのである。彼らにはグレアム・グリーンのような戦争のトラウマも、ジョン・ル・カレのような組織の歯車として生きる人間の悲哀も、イアン・フレミングのようなフェアプレイの精神もない。作者本人が狙っているかどうかはともかく、アンチ・スパイ小説として異彩を放つ作品となっている。

黒い部屋 (1974年)

黒い部屋 (1974年)

なお、「黒い部屋」実験はアメリカの認知心理学者Jack Vernonにより行われた。『暗室のなかの世界―感覚遮断の研究』ジャック・ヴァーノン(大熊輝雄訳、みすず書房)という研究書が出ているとのことだが未入手。

暗室のなかの世界―感覚遮断の研究 (1969年)

暗室のなかの世界―感覚遮断の研究 (1969年)