DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

 ダンカン・カイルの『海底の剣』(原題A Raft of Swords, 1973年、仁賀克雄訳、ハヤカワ文庫、1976年)を読んだ。

 表紙が良い。潜水艦を駆使する海洋冒険小説と予想して、あわよくば田中光二の『我が赴くは蒼き大地』のようなものを期待していたのだが、さすがにそれとは違っていた。が、つまらなかったわけではない。仁賀克雄は解説で正統派の冒険小説という風に紹介しているが、私見では決してそれで済むものではない。今読むと、冷戦の終結と、それによる「スパイ/スパイ小説の死」を予見した小説といえる。
 作中年代はよくわからない。発表が73年であることから、その数年以内の未来というところか。実在人物として、ソ連外相のグロムイコが出てくるのだが、この人は在任期間が長いのであまり参考にはならない。
 おおざっぱには、世界史の教科書にも触れられるデタントの時代であるといえる。この時期に飛躍的に進んだ東西の歩み寄りは、その後のソ連アフガニスタン侵攻等で再び硬化するものの、それまでの一触即発の緊張関係はなくなった――という点では、冷戦末期に入ろうとする時期である。
 物語の発端は冷戦初期にさかのぼる。東西陣営の全面的な核戦争を予測したソ連首脳部は、西側諸国の領海内に工作員を潜入させ、秘かにミサイルを設置していた。しかしそれは出番を迎えることなく時は流れる。そしてデタントの時代、カナダのバンクーバーに設置されていたミサイルが、主に経年劣化により、いつ発射されるかもわからない不安定な状態になっていることが判明する。折しもグロムイコがカナダを訪れ、東西陣営が歩み寄りを見せようとしていた時期に、そんなものが発射どころか存在を知られるのもまずい――というわけで、KGBの主導により、極秘のミサイル回収作戦が始まる。ミサイル設置当時とは異なりレーダー網が発達した今、ミサイルを西側陣営に気づかれずに持ち出すことはできるのか? 頭脳と人手を駆使した大がかりな作戦が始まり、一方イギリス情報部も、わずかなきっかけから異変を嗅ぎ取り、追跡を始める。KGBはそれを振り切りつつ祖国の体面を保つため、さらなる陰謀がめぐらされていく。
 総ては徒労である。かつて祖国が設置した兵器が無駄になり、それがあることを正直に申し出ることもできないので、こっそり撤去する。それだけのために、何人もの人が巻き込まれ、命を落としていく。祖国の発展のためでも、世界の平和のためでもなく、国の一部の体面を守るための任務に、ある者はそうと知りつつ、ある者は何もわからないまま従事していく。そしてイギリス情報部は、手に入れた手がかりを現在進行の陰謀と信じてそれを追い、やはり命の危険にさらされていく。
 様々な立場の人物の視点が絡み合い、複雑な構図の中で頭脳戦やアクションを展開していく手腕はいかにもベテランの巧みさで、特にイギリス情報部が、いくつもの手がかりを潰されながらも極秘作戦に迫っていく様は、読んでいてハラハラする。ミサイルを隠す大ネタも、本当にあれでうまくいくのか――太さはどれくらいなのか、水に浮かべるとどの面が上を向くのか気になる――のだが、面白い。しかし総ては徒労なのである。
 これは冷戦終結後のスパイたちの姿であり、「スパイ小説の終焉」の姿である。冷戦の終結はすなわちスパイの死である――というようなことは、ミッション・インポッシブルか何かで言われていたが、スパイは米ソを主軸とする冷戦構造の中でこそ存在できるものであり、それがなくなれば、スパイはもう用済みで、過去の遺物たる兵器の片付けなんてことに使い捨てられるしかない――もしくは自分で陰謀をでっちあげて、それを叩く他ない、というのが、たとえば阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』であった。デタントの時代に、ダンカン・カイルはそれを予見していたのだと言える。
 もちろん「スパイ小説の死」は虚構に過ぎない。21世紀に入り、スパイ小説は『ジョーカー・ゲーム』などで再び隆盛を見せ、古典的作品のリバイバルも続いている。そもそもそれ以前にも、謀略小説などの名で松岡圭祐麻生幾五條瑛らが傑作を発表していた。冷戦の終結は、そのインパクトにより、事実を覆い隠していた。その影響から、小説の世界もようやく脱しつつある。だから『海底の剣』は、冷戦終結からゼロ年代まで続いた「スパイ小説の死」というフィクションの、始まりを告げる作品だったと言えるだろう。