DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

『SPEC天』を観たが正直微妙だった。
 大体テレビ版の終盤ころから危なかったのだが。
(以下ネタバレ)
 劇中で「スペック」と称される超能力は、人間が持つには破格の力であり、特にミステリでは反則になりかねないため、物語に緊張を与える方法としては、なんらかのルールが必要となる。たとえば能力の使用には代償がいるとか、致命的な弱点を持つとか。『SPEC』の序盤では、一見完璧に見える能力の隙をついて立ち向かう「普通の人間たち」の活躍がスリリングだった。
 だが終盤以降はルールを無視して瀬文が根性で打ち破るような展開が多くて白けてしまう。また、説明不足で謎が残っている部分も多い。特に当麻が地居を倒せた理由。『翔』だとニノマエをジョジョばりに召喚したことになっているが、そうすると誰もその姿を見なかったのは変だし、復活させる描写もなかった。『天』では別の説明がされたがそれも否定されたし。また、テレビ版で最後にニノマエと戦ったとき、時の停まった空間の中で一瞬当麻の表情が動いた理由も謎のままである。
まあまだ完結編が残っているはずなので、そこで説明される可能性もなくはないが。
 このような事態になったのは、作中でのニノマエの能力が強すぎたこと、当麻の能力や津田の存在によって死の観念がゆらいでしまったこと(序盤のどんどん能力者が切り捨てられていく展開は山田風太郎忍法帖みたいでよかったが、津田やニノマエがしつこく復活してると緊張感がなくなる)、一瞬で消されるだけのために巨大な組織を唐突にちらつかせたり、それが個人の欲望によって駆動されていたことが明らかになる物語スケールの崩壊(これは『ケイゾク』でもそうだったから、西荻弓絵の志向性なのかもしれない)といった理由の他、今回は全然考えてもいないのに人類進化の話を持ってきたという点が挙げられるだろう。
 超能力と人類進化のテーマは珍しくはないが、『SPEC』はハンター×ハンターの念能力のように、「人類の新たな可能性」というよりもあくまで人類の中で優れた存在であり、なおかつその能力も「人類の進化形」という必然性がいままであまり語られず、「こういう能力があったら面白い/あるいはどうやってその裏をかくか」という遊戯的な要素が強いため、そこに人類進化のテーマをつなげられても説得力が薄い(『ハンター×ハンター』で人類史とか言い出したらびっくりする)。この路線はあまり面白くならないと思うのだが、『天』のラストでは文明崩壊後の日本が描かれていたので、もし完結編が作られるとしたら、「人類の行く末やいかに」というような話になってしまいそうである。
 思えば『ケイゾク 映画版』も同様で、あれの場合は「エヴァをやろうとしてマタンゴになってしまった」という評をどこかで見た覚えがある。観ていないが『20世紀少年』の場合、壮大に見えた陰謀が実は個人のちっぽけな欲望に根ざしているが、それは子どもが誰もが持つ壮大な夢であるため、映画版もそれなりに成功したのではないだろうか。それを『SPEC』に適用するなら、ニノマエらの個人レベルの欲望に帰着させようとするベクトルと、人類史におけるスペックの立ち位置という文明論的なベクトルの両方に今後どう折り合いがつけられるかが問題になるだろう。