DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

ある感傷的な『ぷりるん。』論

<表>


十文字青『ぷりるん。〜特殊相対性幸福論序説〜』(一迅社文庫)は、誰からも愛されていないと感じていた主人公・ユラキが、周りのみんなに「みんな君のことが大好きなんだよ」と言ってもらうことで救われる物語である。
高校生・ユラキの日常は平穏だった。
脳神経外科医の父と外務事務官の母は多忙で滅多に帰ってこない。
姉の綾はある日突然優等生の仮面を捨て、大学卒業後放浪の旅に出たままたまにしか帰ってこない。
だからほぼ妹のうずみと二人暮らし。喧嘩しながらも仲良くやっている。
部活動は電子計算機研究部、ちょっと気になる部長の小野塚那智は気を引こうとしても自分の作業に没頭しているばかり。
親友の可賀池ノボルとはだべりながら仲良くやっている。
あと、幼馴染みの女の子がいる。その子はある時から「ぷりるん。」しか言わなくなった。何で、と訊いても答えてくれない。ただ「ぷりるん。」とだけ言ってくる。ユラキにはどうすればいいかわからず、そのままでずっと過ごしている。
そんな或る日、ユラキはノボルの勧めで気になっていたクラスメートの桃川みうに告白し、付き合い始める。しかし、幸せになるかに見えた彼は、実はみうが他にもたくさんの男と付き合っているらしいことを知る。彼女はそれを知られても悪びれもせず、別れようとしても泣いて話を拒否する。ユラキは結局何も言えず快楽に身を委ねてしまう。彼女の行動を理解できないユラキは、ノボルがこうなることを知っていた上で、ユラキへの悪意から告白をけしかけたことを知る。
思いもしなかった事態にショックを受けている中、姉が突然家に帰ってくる。ユラキが彼女の実の弟ではないことを知らされる。その事実を既に知っていたうずみは、兄に抱いていた恋心を告白して出て行き、連絡も取れなくなる。
どうすることもできない中、何か悩みを抱えているらしい小野塚部長が、部活中突然怒り出して追い出され、部室もまた居場所でなくなってしまう。
ぷりるんは相変わらず「ぷりるん。」しか言わない。
周りの急激な変貌を何一つ理解できず、どうすることもできず、次第にユラキは感情が麻痺していく。あげく不能になってしまった彼は、姉に誘惑されても何も感じない。


けれどその状況は、ある時をきっかけにふたたび変化していく。
可賀池は確かにユラキへの悪意からみうへの告白をけしかけはしたけれど、同時に親友としてユラキを想う気持ちもまた本物であったことを、彼ら二人がお互いの胸の裡を打ち明けあうことで知る。
みうはユラキを自分のものにしようとして監禁状態に置き独占しようとするが、ユラキに彼女が孤独を癒そうとして過剰に異性との接触と独占を求めていたことを指摘され、ユラキに心を開く。
次いで部室を訪れたユラキは、部長はかつて、ユラキが彼女を好きだったようにユラキのことを好きだったこと、けれど既に次の恋に目覚めていて、ありえたかもしれない未来へのチャンスは過ぎ去ったことを二人は確認する。
姉はふたたび旅に出て行く。それでもユラキは、姉が彼女なりにみんなに気を遣っていることを知る。
妹は入れ替わりに帰ってくる。誰か男のところにいるのだと思っていたら、本当は友達のところにいただけで、ユラキは安心する。


上手く要約できないが、かくしてユラキの日常は再びもとの穏やかなものになる。そのきっかけは、ユラキが他者とのコミュニケーションに目覚めたことだった。
今まで他人との必要以上のコミュニケーションを避けていたユラキは、まず可賀池にキレるという形で他者とのコミュニケーションを始める。それによって彼は、今まで実感することのなかった周囲の人間の自分への感情を認識し、救われていく。ここで重要なのは、ユラキにとってはそう見えなくても、彼を取り巻く人々はそれぞれの仕方で彼のことを愛していた、ということだ。外から見ればユラキもユラキの周囲も物語りの前後でほとんど変化していない。ただ、ユラキの世界の見方が少し変わった、という程度のものだ。しかしそれはユラキにとって大きな違いだったのである。
だが、このユラキの救済の過程は、読んでいていかにもそらぞらしい。それは恐らくコミュニケーションが安易な解決策になっていることと、それに加えて描写の不自然さが挙げられるだろう。全体的にユラキの喋り方は非常に不自然なのである。たとえばユラキはノボルに対して最後にこう告げる。

「ぼくもきみのことを友だちだと思っていた。今後も、できうることなら、友だちでいてほしいと思っている」(p.190)

また、みうはユラキを監禁しようとしたとき、彼の言葉に対して最初は

やだ! やだ……! 聞きたくない!(p.193)

と、コミュニケーションを拒絶しているにもかかわらず、

きみはわからないんだ。何もわかっていないんだ。愛を知らないんだ。きみは愛を欲しているくせに、何が愛か、それはどんなもので、どうすれば手に入れられるのかまるで知らないんだ。(p.210)

という言葉をきっかけに、あっさりとユラキに屈服してしまう。
読んでいて気になったのが、ユラキが妙に文語的で批評的な言い回しをしていることだ。それはユラキが、世界と距離を置こうとする意志を持っていることの現われなのかもしれないし、あるいはビジュアルノベルに特有な、語り手の内面での独白による分析が主軸になるような文章の影響下にあるためなのかもしれないが、周りの世界を批評するように見ているばかりで、自分自身のことに目を向けたりはしない。そのため、たとえば竹宮ゆゆことらドラ!』(電撃文庫)のように、未知の状況に直面して周囲も巻き込むようなあからさまな動揺を見せたり、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジのように、周囲が自分を認めても自分が自身を認めることができないために葛藤したりすることがない。その代わりとして、彼の感じるショックは不能になることで表現される。俵万智の『トリアングル』(中公文庫)でもそうだったが、下手に言葉を尽くすよりも、本人は表面上何も変わらず、しかし身体に影響が出る(しかも性的な能力に)、ということで、逆に効果的にショックを表現できる、ということは確かにある。しかしその一方で周囲とのトラブルの解決は、すべてが言葉によるコミュニケーションが主体となっており、加えてその言葉がユラキのスタンスを反映した不自然な言い回しであったため、話は理屈としてはわかるものの、やはりどこか距離を置いた、読者に訴えてこないものになってしまう。
それに、彼らの語るユラキへの愛はユラキへ語った言葉を信じた上のことでしかなく、ユラキがそれを全く疑うことなく信じてしまった以上、読者たる僕たちにそれを検証するすべはない。ノボルはユラキをうまく言いくるめただけなのかもしれないし、みうがその後どのように生きていくかは何もわからないし、部長は単に冗談でああ言ったのかもしれないし、姉は結局自分勝手なだけなのかもしれないし、妹は本当は誰か男のところにいたのかもしれない。それは言っても詮無いことではあるけれども、あまりに安易に解決していったがために、僕たちの心のどこかに釈然としない気持ちとして残る。


<裏>


――しかし、上に述べてきたような凡庸な分析は実はどうでも良い。
そんなものは、過去の恋愛小説や青春小説で今まで何度となく繰り返されてきたパターンを平凡になぞっただけのものであり、それだけではこの作品は格別優れているとはいえない。『ぷりるん。』が、他の小説と一線を画するのは、エピローグを飾る「ぷりるん。」の真相によって、である。
桃川みうへの告白から始まった周囲とのトラブルが解決したユラキは、最後にぷりるんと向き合う。そしてぷりるんと向き合う覚悟を告げたユラキは、ぷりるんの「ぷりるん。」が、ユラキがすこやかで幸せになるようにとの願いゆえのものだったことを知る。自分の幸せを誰よりも心から願ってくれている人が、自分の一番近くにいたことを知り、ユラキは救われる。
そしてその瞬間、僕たち読者にも大きな変化が起こったはずだ。僕たちはぷりるんの「ぷりるん。」の意味を知ったとき、自分自身の奥底にある根源的な記憶を呼び覚まされずにはいられない。それは、僕たちが幼少の頃飽くことなく繰り返していた願掛けやおまじないについての記憶である。
何だっていい。自分で決めた、自分ひとりだけがその意味を知っている、そんな儀式だ。
たとえば――僕の小学生時代、たくさんのおまじないが流行っていた。コックリさんやミサンガなんてものが全国的に有名だったが、雑誌やマンガにはそれ以外にも無数のおまじないが載っていた。とりわけ僕はじょうさゆりの『おまじないネコチャクラくん』(小学館)や令丈ヒロ子やぶうち優の『占い屋コノミちゃん』(同)というマンガが好きで、そこで紹介されていた「ハッピーのじゅもん」や付録のタロットなんかは今でも覚えているし、クラスの人たちもそれぞれに自分しか知らないおまじないに熱中していた。
中学校の時の国語の教科書には安東みきえの『そこまでとべたら』という短編があった。陸上の大会出場を断念して受験に専念し、それでも将来進むべき道がわからないでいた少女が、病床の祖父の回復と自分の未来への決意のため、後ろ向きに歩いてみたり、朝日に向かってジャンプする、という場面があった。
そんな昔のことは知らないと言うのなら、あずまきよひこあずまんが大王』で、美浜ちよがみんなの合格を願って「千本箸」をやっていたのは覚えている人も多いのではないか。
僕はといえば、小学生時代、校庭の砂の中から、独りで雲母や石英なんかの混じった石粒を集めていたことがあった。それを学校や家の裏庭に積み上げたり、筆箱やポケットの中にしまいこんだりしていた。それは僕なりの結界やお守りだった。
それらはみな、ぷりるんの「ぷりるん。」と同質のものだ。
こういった儀式の動機は人それぞれである。あるものは利己的に、自分の利益のため、あるものは世界や他人を救おうという気宇壮大な夢をもって、それぞれが自分にしかわからない願掛けやおまじないをしていた。しかし動機が何にせよ僕たちは皆子ども時代、確かに「それ」に熱中した。僕たちはそれを厳粛な気持ちで執り行い、その先に何かもっと自分の知らなかった素晴らしい世界が開けているのだと信じていた。なぜならそれは、目の前に見える表面的な世界ではない、もっと根源にある何かへ接続するための手段だったからである。そこには何か世界の総てを支配するような秘密の法則があって、ただ世界に何の意味もなく存在しているだけだった僕たちは、その法則に従って行動することによって、その法則を使いこなすことができる。
その法則は誰も教えてはくれない。親も先生も兄弟も友達も、誰も教えてはくれない。それどころか彼らに知られることは、法則の失効さえも意味する。だからこそ自分で決めなければならない。そしてそれゆえに僕たちはそれが効果を持つことを心の底から信じることができ、同時に信じることができなければ効力は持たない。それは古来からの神頼みのような受動的なものとは本質的に異なる。正統な神学の影で魔女狩りの恐怖に怯えながら探究された、神秘学の系譜に連なるべきものだ。僕たちはそれによって運命を捻じ曲げようとすらしていた。
だから法則はどんなにバカげて見えても、遊び半分で扱ってはいけない。オトナは三島由紀夫の「橋づくし」(『花ざかりの森・憂国新潮文庫所収)のような遊び半分・本気半分で願掛けに興じる女性たちや、カネコアツシ『SOIL』(ビームコミックス)における疑念を抱きながらも儀式に参加する少年達の姿にこそリアリティを感じるのかもしれないが、本来の子どもの儀式とはそんなものではない。むしろ吉村昭の「星への旅」(『星への旅』新潮文庫所収)で描かれる少年たちの集団自殺のような、迷いのない、ある種純粋なものだ。彼らに対し、彼らは自分の作り上げた体系の内部からしか物事を見てないとか、科学哲学的な批判をするのは、それを既に過去に追いやった僕たちの目からは妥当な批判に映るのかもしれないが、しかし彼らにとってそんなものは本質ではない。彼らはそもそもそんな理屈の通用しない場所で生きようとしている。
そして現代において、おまじないとはそういった領域に存在する。
「ぷりるん。」もまた、間違いなくその領域に属しているのだ。
だから僕たちは、ぷりるんの「ぷりるん。」の真相を知ったとき、ぷりるんの中に、忘れかけていた幼い自分自身の姿を嫌でも見出さざるをえない。序盤から登場し、随所に一貫して不可解な異物として僕たちの前に現れていたぷりるんが、最後の最後に、読者自身に最も近い他者――子ども時代の自分そのものだったことが明らかになる。それまで視点人物であるユラキの立場から世界を眺め、しかしどうしてもユラキに没入しきれなかった僕たちは、思いがけないところに「自分自身」を見出すことになるのである。ユラキからぷりるんへの劇的な視点の反転は、それだけで僕たちを深く揺り動かさずにはいない。


ただ――それだけでは子どもの(夢の)全肯定という、前世紀の遺物のような思想に行き着くだけである。
『ぷりるん。』が真に素晴らしいのは、十文字青が「ぷりるん。」に象徴される願掛けやおまじないを、最も美しい形で描きだしながら、それを必ずしも全肯定していないところにある。「ぷりるん。」が何を意味するおまじないかは、ぷりるんしか知らないものだ。そのことこそが、「ぷりるん。」が僕たちの知るおまじないと同質のものであることを保証する。しかし個人しか知らないおまじないは、個人しか知らないがゆえの限界を持っている。あるインディアンの呪師の教えによれば、「不思議」や「怪異」は一人で認識した場合は単なる幻想でしかないが、それが二人以上に観測されることで事実となる。要するに、得体の知れない病に罹ったら、それを診た呪師が病と認め、これは悪い精霊の仕業であると説明されることで初めて治療可能なものとなる。それまではそれは、説明不可能で不可解な現象でしかない。美浜ちよの「千本箸」も、大阪とその法則の認識を共有することによって初めて効力を持つ。一人の了解の内部では、自分自身しか救うことはできない。外部に目を向けるのならば、外部からの承認が必要となる。
それと同様に、ぷりるんは「ぷりるん。」と言い続けることによってではなく、その行為がユラキの幸せを願ってのものであったことを打ち明け、「ぷりるん。」の意味をユラキと共有することによって彼を救う。ここでもそれまで繰り返されてきた「コミュニケーションへの目覚めによって自分への愛を確認して救われる」、というパターンが一貫しているが、このケースは、それまでのノボルやみう、姉妹たちとの和解とは根本的に質が異なる。先に述べたように、彼らの語った愛は、その場のでまかせにすぎないという可能性が存在したが、ぷりるんには、自分の社会生活を犠牲にしてまで「ぷりるん。」とユラキに語り続けてきた、というある程度有力な「証拠」がある。もちろんこれでもまた、ほかの理由が存在する可能性は完全に否定しきれないが、「ぷりるん。」が行為としてあまりにも不可解であるがために、唯一の「合理的解決」としてぷりるんの告白を受け入れることになる。おまじないが「ぷりるん。」という、一切の意味を推測できない不可解な言葉であることも、物語の構成上重要な意味を持っているのだ。お守りを渡すというわかりやすい手や、誰かが知っている可能性のあるおまじない、あるいは音が似ているからと言って「ぱるぷんて」などではいけないのである(もっとも今読み返すと、それ以前のぷりるんが「ぷりるん。」を始めるまでの行動は依然不可解なままなんだが)。かくして真相を前にした僕たちは、先に述べた自身の子ども時代の記憶との共鳴も相俟って、ユラキとともに、ユラキと同等かそれ以上の深い感動を覚える。
だからもちろん、ぷりるんが「ぷりるん。」などといい続けることなく言葉でユラキへの思いを打ち明ければ、ユラキはもっと早く幸せになれたのではないか、という批判をするなら、それは全くの的外れでしかない。ユラキ(あるいは読者)は、それまでの自己犠牲的な「ぷりるん。」という行為が存在する限りによって、その言葉が本当であることを知ることができるのだから。その意味において、「ぷりるん。」という願掛けは、ユラキという他者による承認によって、初めて効力を持ったと言えるし、一見遠回りに見えた願掛けの期間も、決して無駄ではなかったことになる。そしてユラキもまたそれに対し、ノボルやみうのケースとは異なり、ここでは台詞においては言葉少なに

「いきなりで、ごめん。花菱」(略)「好きだ。きみが好きだ」

と言うのみである。それまでの、かたくなに距離をとろうとしていた態度と、これは明確に異なっている。これにより僕たち読者は、「ぷりるん。」がユラキにとってもそれまでのノボルやみうのケースとは全く違うこと、そしてそれらとの対比によって、ユラキが真に救われたことを知ることができる。その意味において、一見陳腐なだけだったそれまでのやりとりも、この物語の構成上必要不可欠であったことがわかる。同様のメッセージを持つ作品として堀田きいち君と僕。』(ガンガンコミックス)二巻の七夕のエピソードがあって、ここには幼馴染の女の子の手術の成功を願って深夜の学校に短冊を吊るしに来る小学生の男の子が出てくる。彼に遭遇した主人公(高校生)たちは、その純粋さに感動しつつ、しかしこっそり笹に願い事をつるすのではなく、その女の子に直接渡してやれ、そのほうがきっと効果があるから、と諭す。それを徹底して朴念仁として描かれている主人公が言うので、確かにイイ話ではあるのだけれど、ここには子どもの純粋さゆえの間違いを大人になった自分たちが修正してあげるという構図があり、男の子のそれまでの行為は徒労として否定されてしまう。それに対し『ぷりるん。』は、「ぷりるん。」とコミュニケーションの両方を肯定するという点で稀有な作品となっているのである。
そしてまた、ここで注意すべきは、この物語の過程が、かつてぷりるんと同様におまじないや願掛けを敬虔に執り行い、しかしいつの間にかそうすることをやめ、もはや昔の自分とは全く違うものになってしまった僕たちの人生そのものの縮図となっている、ということだ。そしてそれにより、ぷりるんがユラキを救うために「ぷりるん。」が不可欠であったように、僕たちにとって少年時代に没頭した儀式は、今ある僕たちが今のようになるために必要不可欠なものだったことをこの物語は示している。子どもを主人公としたファンタジーにありがちな、子ども時代の夢を切り捨て忘れ去っていたオトナの糾弾という平凡な物語はここには存在しない。ここにあるのはどんな過去も無駄ではなく、総体としてすべてが現在と未来のために何らかの意味を持つというメッセージであり、それはある種の機械――一つ一つのパーツは歪で、出来上がったものも酷く不恰好なのに、あるいはそれゆえに、あたかも計算されつくしたかのように統合された一つの機械――として働き、ユラキとともに読む者の人生をも救済するのである。


注:本文中で『ぷりるん。』は作品名、「ぷりるん。」は願掛け、ぷりるんはキャラクターを指しています。