DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

フロイトの文学観

フロイトの芸術観については、「夢判断」の下巻に明確な記述がある。

夢判断 下 (新潮文庫 フ 7-2)

夢判断 下 (新潮文庫 フ 7-2)

夢は、個々の夢思想間のこれら論理的諸関係を表現すべき手段を持ちあわせていない。
(中略)だから、夢の作業がうち壊してしまった関連を復原するのは、夢判断の手に委ねられているのである。
そういう表現能力を夢が持つことができないというのは、夢の材料になる心的素材の性質のしからしむるところであろう。(p.10)

つまり、夢はそれだけではどういう意味なのかわからないので、
それを知るには夢判断をしなければならない、ということだ。
これに続けて、

絵画や彫刻は、言葉を使うことのできる文学にくらべられると、
やはり夢と同じように表現能力において劣っている。絵画や彫刻の場合でも、やはり、それらが表現能力において劣っている原因は、
それに手を加えて絵画・彫刻が何かを表現しようと努めるところの、その素材にあるのである。
絵画は、自分にふさわしい表現法則をわきまえ知るまでは、なんとかしてこの短所をなくなしてしまおうと努力したのであった。
古い絵では、描かれた人物の口から紙片が出ていて、その上には、画家が絵では表現しかねた文句を示す字が書いてある。(同)

とある。

つまりフロイトは視覚的なイメージよりも言語を非常に重視していた、ということになる。
これは例えば、斎藤環「生き延びるためのラカン」(バジリコ)において、

生き延びるためのラカン (木星叢書)

生き延びるためのラカン (木星叢書)

必ずしもイコールではない「こころ」と「言動」を結ぶもの、それが言葉=隠喩であること。
言動はこころの動きをそのまま反映するというよりは、こころを象徴する形で表出される。
(中略)
そして、人間が語る存在である限り、人間の言動はひとつの症状として、そのひとの存在を指し示すことになる。(p.196)

と述べられる部分とも一致するように見える。
ただ上の引用を見る限り、フロイトの方が、
より言語の伝達機能に対して強く信頼していたといえるかもしれない。

フロイトのこのスタンスは終生一貫していたらしく、実際、松代洋一による、フロイトに関する分析とも対応している。
ユング研究者である彼は、訳書「空飛ぶ円盤」(朝日出版社)の解説において、
ユングと比較したフロイトの思想の特徴を次のように述べている。

空飛ぶ円盤 (ちくま学芸文庫)

空飛ぶ円盤 (ちくま学芸文庫)

フロイト精神分析の特徴は、その分析Analysisという語のギリシア語の語源Analusisが、
ラテン語では分解resolutio、還元reductioであることと一致するかのごとく、
対象の表層を極限まで分解し、その裏に隠された意味を見つけ出すところにある。
そこにはロマンティシズムの余地は無く、ペシミズムとシニシズムが生まれるだけである。
それに対しユングは、その反対、Synthesisの方向に向かった、というのが松代の主張である。
ユングは対象を対立と一致を繰り返すダイナミズムの中で、全体として捉えようとする。
松代に言わせれば、

排斥されるのはただ停滞と一面性のみである。

ということになる。
こういった姿勢にユング思想への東洋思想の影響が明確に見出せる。
ここで重要なのは、フロイトが連想と直観による記述を目指したのに対し、
ユングは(自身の)無意識の働きにより浮かび上がるイメージも対象としたことである、というのが松代の理解である。
その内容はフロイトの語る解釈よりも遙かに壮大な、魅力的なものではあるのだが、
あまりに独特すぎて、まあ話として読む分には面白かったものの、
多くの人には難解なものでしかなかったのである。
ふたたび松代によれば、

自分(ユング)は見たもの感じたものを語っただけである、それは余りにも複雑だったから、それを語るには若干の新しい概念を必要とした、というのである。だから、それらの概念に明確な定義を求めることさえ子供じみた要求でしかない。

だから、

言葉の力を信じたフロイトは、「理知の冷たいファナティズム」にかられ、つねに抽象とこととしたが、ユングの見たもう一つの具象世界はイメージと象徴を通してしか行きつくことができない。

こうした両極端の性質を持つ二人が決別し、終生和解することはなかった、というのは、
むしろ必然の結果であるようにも思えなくもないが、
同時にそういった二人が同時期に出会い、それぞれの方向に発展していったことが、
歴史というものの面白さかもしれない。