DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

 光瀬龍『ロン先生の虫眼鏡』(徳間文庫、1980年、単行本1976年)を読んだ。

 日本の第一次世代SF作家の一人であり、東洋哲学をSFに取り入れたと高く評価された光瀬龍(1928-1999)は、もとは高校の生物・地学教師でもあり、退職後も在野の研究者として、本書のような生物エッセイを何冊か出している。
本書はタイトルの「虫眼鏡」が示すように、ひたすらにミクロな世界を拡大して見せる。それは、いつしか「虫の個性」というべきものを描き出してみせる。それが本書の魅力である。
 たとえば、ジガバチが紹介される。これは昆虫記などで定番の有名なハチで、親は土を掘って穴倉をつくり、その中に針で刺して麻酔をかけたアオムシをもちこみ、そこに卵を産んで、入口をふさいで去っていく。アオムシは身動きできないまま生き続け、孵った幼虫はその身体を食い尽くして成虫となり、穴倉をでていき、親と同じようにして子孫を遺していく。
 この、穴を掘ったり、アオムシに麻酔をかけたり、元の巣穴にもどったり、幼虫がアオムシを死なさずに食べつくしたりといった行動が、いちいち精緻に成り立っていて、進化の不思議さというものを考えさせるのであるが、光瀬龍はジガバチの一頭一頭を丹念に追い、その姿を描き出し、「個体差」があることをみつけだす。例えば、土に穴を掘る時に、ただ土をくわえてどけていくものと、石をくわえてそれをスコップ代わりに掘るものがいるというのだ。行動はすべて本能で決まっているはずなのに、同じ種で違いがあるのだ。この違いが子孫にまで受け継がれるものなのかはわからないが、と言いつつ、著者は眼の前にいる一頭を描写していく。
 これは多くの生物学者のネイチャー・エッセイとは一線を画していると思う。彼らはいってみれば、ミクロの追究の末にマクロを見出す、という型の文章が多い。彼らの目の前にいるジガバチは、ジガバチという種全体の代表であると同時に、大自然の象徴でもある。ボルヘスのエル・アレフではないが、ちっぽけな虫の中に宇宙が封じ込められている――ということを見出すのが、生物学者の暗黙の使命のようですらある。それは、学問が「役に立たねばらない」という観念を批判しつづけた日高敏隆が、初期において『動物にとって社会とは何か』や『動物という文化』といった本を書いていたことでも明らかである。昆虫を語ることで、いつの間にか文化や文明を語ってしまう――それがある時期の自分にも「カッコよく」みえたことも確かである。自分が大学で生態学を専攻したのも、そこに惹かれたからということが大きい。
 しかし、光瀬龍は、それ以外の視点を教えてくれる。彼の著作は、生物学的にはあまり役には立たない。光瀬がみたその個体はそうなのかもしれないが、他の個体はどうなのかわからないし、何か一般性を見出せるようなものでもない。それでも、光瀬龍は自分の見たことをただただ描き続ける。それは「宇宙」を感じさせるものではないが、自然をより身近なものにする。パラメータの操作で扱えるような存在ではなく、人間と対等な隣人であることを読者に感じさせるのだ。
 それでは、ネイチャーエッセイと称して、書斎に閉じこもり、庭先に来た鳥や花を面白がるだけのエッセイと同類のように思われてしまうかもしれない。だが、光瀬龍は、アマチュアであると同時に、まぎれもなくプロの「生物学者」である。酷暑の中ひたすらジガバチが来るのをまちうけ、キツネの観察の際には絶対に動いてはいけないので小便も垂れ流してくさむらに身を潜め、金魚が野生ではどれくらい生きられるかを知るために自分も潜水して追う、などなど、文字通り身を張って観察する。
 その根底には、失われていく自然への愛情がある。それは心無く自然を開発してフクロウの棲み家を奪っていく社会や、魚を無計画にとっていく若者らへの憤りとして本書の中にも現れてくる*1。冒頭には、「個別から普遍を見出す」系の教授が出てきて、文明とは何か、人間はなぜもっとも優れた生物になれたのかを語ってみせる。光瀬龍はそれを理解しながら、納得しきれず、虫たちの姿をえがきだす。それは結局、自然の大切さを謳いながら、生物全体をひとつの集合としてしか見られないことを批判しているようにも見える。ある種、社会学に対する民俗学方法とでもいうか、計量的な方法への反逆を企図しているようにさえ見える。ただそれは、あくまでも普遍を見出そうとする科学には本質的に相いれず、光瀬も在野の研究者でいたからこそ、このスタンスを維持できている。そのあたり、光瀬はどうしようもなく「文学者」である。
 光瀬の幅広い虫への愛着のみならず、生涯を通しての虫とのかかわりを通して、自伝的な要素も含むこのエッセイ、とかく理系書の古いものは「知見が変っているから」と敬遠されがちであるが、それとは距離をおいて書かれた本書は、ぜひ読み継がれていってもらいたいものである。


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 ところで、私事であるけれども、この本を読んで、一つ疑問が解けたことがある。小学生時代、市立図書館で「実録!私は幽霊を見た!」というようなタイトルの本を借りて読んでいたとき(すぐに親にとりあげられたが)、こんな話があった。
 投稿者は、最近に祖母を亡くした。それ以来、夜になると、祖母の部屋から、「パタパタ、サッサッサッ」という、ほうきで掃くような音が聞こえるようになった。もちろん電気を点けてのぞきこんでみても、誰もいない。しかし電気を消してまたしばらくすると、「パタパタ、サッサッサッ」という音が聞こえてくる。そこで家族はこう話し合った――これはきっと、きれい好きだった祖母の霊が、生前の習慣で部屋を掃除しているのだと。
 祖母が幽霊になって現れて、やることが掃除なのだとか、そこで一緒にほうきも実体化しているのだとかいうことが、哀しくもあり可笑しくもあり、印象に残っていたのだが、これは光瀬龍によれば、チャタテムシという虫の仕業らしい。これは、0.5ミリから3ミリ程度のとても小さな虫で、古い障子などにとまっていると、淡褐色の色彩もあって見分けがつかない。この虫が、大あごの裏で板の表面や壁をまるで掻きとるように打ちたたく性質があるという。この「鳴き声」が、茶道でいう、茶をたてる音に似ていたため、チャタテムシというのである。光瀬龍は、知人の相談で、亡くなったひい祖母さんの霊だというのに対してこれの話を書いているのだが、恐らく先ほどの投稿者の場合も正体はこの虫だったのだろう。
 してみると、ほとんどがやらせと言われるこの種の投稿本の中でも、少なくともこの話は「実話」だったことになる。むかし、日本のどこかに、チャタテムシの「鳴き声」を祖母の霊と真剣に考えた家族がいたのである。そう考えて、20年越しで初めて、なぜだか背筋が少し冷たくなった。

*1:これはまだ抑えているが、奥本大三郎との対談『虫のいい虫の話』では、奥本に引きずられて二人とも若者への愚痴ばかり言っていて、少々不快なレベルである。