DEEP FOREST/幻影の構成

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 南原幹雄の『天下の旗に叛いて』(新潮文庫、1992年、単行本1990年)を読んだ。

 時は室町時代、六代将軍足利義教の治世。将軍と並び立つほどの権力を持つ鎌倉府の長・足利持氏は、権力の奪取をもくろみ反乱を起こすが失敗、敗北の末自刃においこまれる。世にいう永享の乱である。
 ――という話を前振りに、持氏の遺児たちの運命を描いたのが本書である。命からがら逃げ延びた春王丸(12歳)・安王丸(9歳)の兄弟は、関東に強大な勢力を誇り、持氏とも関係が深かった下総の豪族・結城氏を頼る。当主の氏朝と息子の持朝は、迷いを抱えつつも、忠義心と同情心から、一族郎党を挙げて彼らをかくまい、幕府に対して叛旗を翻す。世にいう結城合戦である。十万余の軍勢を相手にわずか一万の軍勢による攻防は一年以上にわたったが、味方に続くものがなく、結城親子も春王丸・安王丸の兄弟も滅亡に至る。これらの戦乱と、それに前後する騒乱の時代は、あまりメジャーではないものの、本書の他、山田風太郎の『室町の大予言』をはじめ、安部龍太郎の『彷徨える帝』、赤松光夫の『神璽喪失』、岡田秀文の『魔将軍 くじ引き将軍・足利義教の生涯』など、皆無というわけではなく、根気よく探せば豊かな達成が見られる。
 本書のコンセプトたる圧倒的な軍を迎え撃つ孤城、という点では、和田竜の『のぼうの城』のような話である。より正確に言うなら、『天下の旗に叛いて』をエンターテイメントとしてより洗練させたのが『のぼうの城』である、ということになる。『のぼうの城』は、豊臣秀吉軍の小田原攻略の一環として行われた、石田三成による忍城攻めを描いている。水田の泥を利用した防壁や、農民たちも「人」として協力する籠城戦(それでいてなぜか足軽にはほとんど「数」としてしか言及がない)など、似た要素は見出されるが、しかし『のぼうの城』の方が、単純に読んでいて楽しい、という点では優っている。
 たとえば『天下の旗に叛いて』では、蜂起の動機はあくまで「義」であり、それによって起ちあがった集団が私欲や疑心暗鬼により崩壊していくところに無常感をのこすのが主眼であるが、『のぼうの城』は、蜂起の動機は領主・成田長親の単なる「意地」であり、人々を率いるのは彼の人柄である。この方が、「義」に訴えかけるよりも、喜劇的・人情もの的な空気を帯び、国全体ではなく個人的な物語となり、「重み」がなくなる。
 また、『のぼうの城』は、敵味方双方の立場を描き、勝ち負けの問題を不明確にしている。『のぼうの城』は、成田長親が忍城石田三成から守り抜く話で、その意味では長親が三成に勝つが、大局的には北条氏は秀吉軍に降伏したのであり、敗北しているといえる。しかしそういったことと関係なく、長親は家臣や領民を守り、三成もまた、鬱屈を抱えていた中で、意地を通す彼に清々しいまでに負けたことで「成長」する。『天下の旗に叛いて』の場合は、あくまで結城氏側からのみの描写であり、いかに彼らが美しく義を通したとしても、やはり負けてしまうことで、読後はさわやかとは言いかねる。
 他にも、『天下の旗に叛いて』が、家臣が名前のみでほとんど描写されないまま死んで行くのに対し、『のぼうの城』が登場人物の人数を、攻防戦に必要な最低限に限定したことで、それぞれの個性を引き立たせているとか、『のぼうの城』のほうがアクション中心で、『天下の旗に叛いて』が正義とは何かをめぐる議論が多いのに紙数をとられているなど、様々な点が対照的に指摘することができる。そこから、エンターテイメントの技術の発達が可視化される。『天下の旗に叛いて』は決してつまらないわけではないが、やはり読んでいて楽しいのは『のぼうの城』のほうである。その分、南原幹雄の時代にあった「正義とは何か」という問い――あるいはそれに代わるべきテーマ――は、雲散霧消してしまっているのだが。
 とはいえ、両作とも、エピローグとして、彼らの物語をも呑み込む「歴史」が語られる点では共通している。石田三成関ヶ原で敗北し斬首されるが、結城氏や足利持氏らを滅ぼした足利義教もまた、本書の結城合戦のすぐのちに暗殺され、さらなる混乱の時代に入っていく。大体歴史小説の醍醐味というのは、歴史上の、ごく限定された数の人物の生きざまをクローズアップした末に、最後にそれが巨大な歴史の流れの一部として実感される、その瞬間にあると思っていて、その意味では本書もまた、正統な歴史小説として満足のできるものであった。

天下の旗に叛いて (新潮文庫)

天下の旗に叛いて (新潮文庫)