DEEP FOREST/幻影の構成

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「セクシィ・ギャルの大研究」について・補足


「セクシィ・ギャルの大研究」についてで紹介したように、
腕は、自己防衛やセルフコミュニケーション、男の誘惑などの道具である、
というのが上野千鶴子の主張であったが、
別役実は「思いちがい辞典」(ちくま文庫)において、
腕の機能について、違った角度からの分析を行っている。


「思いちがい辞典」
別役実
ちくま文庫
1999年1月刊 本体価格600円+税

思いちがい辞典 (ちくま文庫)

思いちがい辞典 (ちくま文庫)


本書の「手」の項で、
別役は、「目のやり場に困る」ことと同様に、
日常生活では「手のやり場に困る」ことも意外に多いことを指摘している。
「かしこまってしかるべき人の前で、腰掛けるなり立つなり、
それらしい姿勢をとらなければいけない時、よくそういうことがある。
そしてまた、そのことを意識すればするほど、
とめどもなくどこにどのようにおいていいのか、わからなくなるのだ。」(p.146)


こういった事態に対し別役は、
人間が四足歩行から直立二足歩行ができるまで進化した結果、
手が、ほかの諸器官にくらべてあまりにも長いあいだ自由に委ねられすぎ、
結果として「定型」、すなわち自然に定まるあるべき場所や役割を失ってしまったのではないか、
と考える。たとえば「気をつけ」の姿勢は、
両手の指先を、体側のズボンの縫い目にあわせてピンと張り、
それにより体全体が固定されるわけだが、
このように外からの強制がなくては、手はあてもなくさまようしかない。


そこで別役が例として挙げるのが、
芥川龍之介の「手巾」という短編である。
これは「息子の死をその恩師に伝えにきた或る婦人が、
顔は穏やかにほほえみながら、ふと見せたテーブルの下の両手で、
ハンカチを引き裂かんばかりに握りしめていた、という話である。」(p.147)


この作品に対し別役は、この婦人は「手の使い方」をよく知っていたのだ、と評価する。
「つまり彼女は、「気をつけ」の場合よりも更なる強制をその手に課し、
そうすることで、「息子の死」を「ほほえみつつ伝える」という離れ業を可能にしたのだ。」(同)


このことは逆に、手に「定型」を与えれば、
我々の身体はこの種の離れ業をも可能にするような柔軟性を恢復することを意味するのだと、
別役は述べる。婦人の持つハンカチは実はそのための発明品かもしれないし、
その伝で行けばタバコも同様である。
この場合タバコを持つことで手が「定型」を得て、
それによってなんとなく全身がくつろぐ、という仕組みである。


ということは、
手には常に手それ自体がこなせる簡単な仕事を与えるのが理想だが、
もしそれが不可能ならば、
次善の策として、右手で左手を押さえこんでおくとか、
腕組みや頬杖をしておくとかしなければならない。
これらは「何もしていない手」が、「何かをしているような気にさせる」ために、
人類が生み出した巧妙な工夫なのである。


と、以上のように、手というものは目と同様に非常に厄介なものであるが、
今後その傾向はますますひどくなっていくだろう、と別役は述べ、
「手」の項は終わる。
なぜひどくなるのか、よく考えるとまったくわからないのだが、
そこだけは何も説明せずにさらりと終えてしまうあたりが、別役流の不気味さである。


なんにせよこの議論をふまえれば、
本論で挙げた涼宮ハルヒの表紙などは、

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの溜息 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの溜息 (角川スニーカー文庫)

誘惑や自己防衛などではなく、
単にイラストレーター(あるいはキャラクター)が「手のやり場に困って」、
適当な役割を与えただけの話である、ということになる。
そういう意味ではセルフ・コミュニケーションではあるのかもしれないけれど。


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もっともこの本は、「序」によると、
わざと「思いちがい」をすることで、
正当な知識を活性化をすることを目的としており、
「手」はその中の一項目にすぎない。
だからこの話もどこまで本気で読めばいいのかわかったものではないが、
しかし上野千鶴子の当時の知見を駆使した論考に劣らず、
別役の鋭い観察眼による日常の感覚からの考察もまた、
すぐれた文明批評でありえているという点において、
奇妙でありながら強い説得力をもっており、
むしろこちらの方が腑に落ちるものとしてさえ映るのも確かなのである。