DEEP FOREST/幻影の構成

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「言語E」について

「言語E(エネルギー) 現実編」
小田野早秧著
自費出版(非売品)
昭和45年3月13日発行


本書の内容は一言で言えば、「言霊の科学」と言えるだろうか。
著者の小田野早秧(おだの・さなえ)は1908年生まれの女性である。2001年に93歳で亡くなった。
1949年、父の死の夜の神秘体験をきっかけに「真理」の探究を始め、
60歳を過ぎてその研究の成果をまとめ、本書はその序説にあたる。


彼女の思想の特徴は、楽天的なまでの言語への信頼と、
制約を知らないスケールの大きな発想にあると言える。
何しろ、「言葉(コトバ)」を「光透波(コトハ)」、
すなわち光の一種であると読み替えた時点で、常人の発想からは一つ抜きん出ていると言えるのではないか。
これにより「言葉」は、その字そのものから直接「祝福の光」を意味することになるし、
この解釈に沿えば、聖書冒頭の有名な「初めに言葉ありき」は、
神の「光あれ」や「言葉は神なりき」と直接的に呼応するものとなるし、
光の一種である書き言葉が話し言葉に対よりも優れているという発想は、
ポストモダン思想におけるエクリチュール概念との接続も可能にするものかもしれないが、
しかしそういった海外の思想になど、彼女は目も向けないのである。


そればかりか次々と、

「真・誠(マコト)」=「真光透(マコト)」、
「命(ミコト)」=「実光透(ミコト)」、
「御言葉(ミコトバ)」=「実光透波(ミコトハ)」、
「言葉・詞(コトバ)」=「光透波(コトハ)」
「識(シキ)」=「詞基」
「意」=音+心すなわち「心音」
「空気(クウキ)」=「食基(クウキ)」
「目の視力(メノシリョク)」=「命(メ)の詞力」=「飯(メシ)」
「漢字(カンジ)」=「完字」「完慈」
「動き(ウゴキ)」=「宇光基(ウコキ)」
「囲む(カコム)」=「加光務(カコム)」
「心(ココロ)」=「此処露(ココロ)」
「務め(ツトメ)」=「通透命(ツトメ)」
「仏(ホトケ)」=「法透計(ホトケ)」「実法解(ミホトケ)」
「成長(セイチョウ)」=「整調」「清澄」

という具合に、その多くは光と結びつけて言葉を読み替えていく。
要するに、この世界の真実は言葉そのものに隠されていた、というわけだ。
たとえば命=実光透(ミコト)とは、
「命の実質は光が透化したエネルギーである」こと、
言葉=光透波(コトハ)とは、
「言葉は光が透化した波長エネルギーである」ことを示しているということになる。


彼女は、後に「字分け」呼ばれることになるこの手法を中心にして、独特な宇宙論を構築していった。
小田野自身はこれを「天然コンピューター」(頭脳)による「完字表」あるいは「天の実鏡図(ミカガミズ、実況図)」の作成と称しており、
それにより出される結果は非常に複雑な、「人工コンピューターでは到底出ない」ものらしい。


その一端として、著者は「恩」という字を解読してみせる。
まずこの字は、分解すると「因」と「心」になる。
そして「恩」の読みは「オン」。これと同音の字は「音」である。
ここから「恩(心因)即音」、すなわち、「恩」と「音」は同じ音族に属することになる。
また、同じ音族である「音」の読みは「ネ」「オト」などがあり、
それぞれ「根」と「大透」と読み替えられる。


以上をまとめると、
「恩とは根は大透の音」、
すなわち「真の恩は心因をなすところの根本に相当する無限大に透化した誠の音象である」
という結論が導き出される……らしい。
実際はこれも簡略化したもので、更に細かい分析が入るのだが、彼女は恐るべき熱心さで、
あらゆる字を字分けしていったらしい。


とはいえいくら「真実」だからと言って、
そんな日本語だけでしか通用しない話をされても、と言う人のために、
彼女は周到に、独自の言語分類体系から自身の論の根拠を示してみせる。
すなわち、以下のように。
1.表音文字(一次元的)…カタカナ、ひらがな、ローマ字
2.表形文字(二次元的)…象形文字
3.表意文字(三次元的)…漢字


このうち、1の表音文字は人間の内奥から発した音を元にした素朴な文字であり、
2の表形文字は人間の外部にある事物を元にして作られた文字であり、これら二つは全く反対の性格を持っている。
そして3の漢字は、1と2の両方の特徴を兼ね備えている、非常に優れた文字である。
字分けをすれば、「漢字=完字」という点にもその事実は示されている。
世界中の言語が上の三種の文字の内、どれか一つのみを使用している中で、
日本語は1と3の両方の特質を二つながら持っている、唯一の言語である。
だから日本語は総ての言語の中で最も優れた言語なのだといえる。
そして彼女は、この言語を得ることにより「真実」を知らされた日本民族は特別なのだ、と断言し、
読者に日本民族に与えられた使命を示す。
ではそれは何か?
例によって「日本」を字分けすると、
日=光・次(「に」→ニ→次?)
本=秀・云(こうなる過程は不明)
となるという。
まとめると「光を次いで(継いで)秀即先端を云即運行する」
つまり、言葉(光透波)を継いだ民族として、真実を知らない他の民族を導いていく、という意味である。
本当はもっと様々な意味を引き出せるらしいが、著者はここまでにとどめている。


ミステリ作家・清涼院流水のJDCシリーズに登場する「R(ラー)言語」もかくや、という話で、
あまりの強引さに笑ってしまいそうになるが、
かつての欧米の言語学にしても、言語を
・屈折言語(ラテン語ギリシア語、アラビア語など)
・膠着言語(日本語、トルコ語ハンガリー語など)
・孤立言語(中国語、ベトナム語タイ語など)など
に分類し、屈折言語を最も優れた言語としてその優位性を示そうとしていたのだから、
実はそれほど笑えたものでもないのかもしれない。


まあ以上のように説明してしまうと他愛ない気もするが、
何しろ彼女自身は言葉を全面的に信じているので、
各所でその素晴らしさが不思議な興奮をもって語られる。

どうかするとこの「ことば」に対して「言葉では表現出来ない何かがある。
それが言えないから言葉は不便だ」とことばに不便の責任を冠せる人がいます。
そう言う人は「言葉で言えない」自分の実力自体を、その不便と断定することばで現に表現して、
尚「ことばそのもの」には決して成立しない、只そう言う人が自前で立てた限界をも、
そのままそこに表している、その「ことば」本然の自在性にはそっくり背を向けて、
丁度自分の手で目を押えて、その手を除けることをせずに「何も見えない不便な目だ」と目に因縁をつけるのと同じことを演じています。(p.68-69)

正に「ことば」は人間に取っての絶対無比の便法、否! 便・不便等という部分的な生易しいものではなく、
どれほど仰天してもしたりない、真に絶対であり、実に無限そのものであると言うことだけは、
私にとって唯唯「絶対絶命の確信」です。(p.69-70)

呉々も「字」は物ではありません。生命の変異現象なのです。
大自然の絶対無限大生命が注ぎ込まれ続ける「心音波=超光波」に裏付けられて、
私達の生命の中に何時も智(透網トモ・血)恵の力として、脈動しているのです。(p.134)

その帰結として、このような発言に及ぶ。

文盲の放置はそれこそ「人間性自体」に対する残酷の極と言うべきです。
丁度無事に産れて来た乳児に、水だけ与えて平気でいるのと、少しも違わない残忍さです。(p.122)


流石にここまで来てしまうと少々引いてしまうが
しかし自身の思想を絶対唯一の真理と確信しているがゆえに、、
その文章には、いかなる思想も仮説の一つとして提出するしかない我々の時代にはない、
不思議な気魄と未来への明るさに満ちているのである。


そして、現代は彼女の述べるような言語の本質が忘れられたまま、無自覚に乱用され汚染されている。そう分析する。
それが当時社会を騒がせていた学園騒動や青少年の非行に現れているのだと。
そういった社会批判的な面では、深刻に国を憂えていた同時代の文明論者たちと立場は変わらないともいえる。


それに、こういった思想を非科学的だと笑うのは簡単であるが、
これを出版した1971年、彼女が63歳であったことを考えると、
今読んだ上で感じる、時代や年齢の制約と無縁な奔放さ――現代のラノベ的な想像力の中では「新しさ」すら感じられる――に驚かずにはいられないのではないか。


それより何より、彼女の示すビジョンは科学的・非科学的以前に、読んでいてとても気持ちよいのだ。
たとえば彼女は人間は自然現象の一部であり、
その深奥において大自然とつながっていると説き、
しかしそれだけでは潔しとせず、自らの「思考能力」により「文化」を作り出し生活している、という、
日本古来の自然観と社会科学的思想の混交した自然観を述べたかと思うと、宇宙論の部において、
全宇宙における存在を、「無限存在(宇宙)」と「有限存在(それ以外のすべてのもの)」とものすごく大雑把に分け、
そうしたとき、有限存在が総て例外なく無限存在に「包まれている」ことに気付き、
「<無限>により懐胎される有限存在」、つまり「宇宙により懐胎される全存在」、という理念をぶち上げる。


私はこの宇宙のビジョンが大好きである。
なんというか、宇宙滅亡1万年後の太陽系、なんていう話とは全く違う、不思議に壮大で魅力的なイメージではないか。
第一いざ想像しようにも、できそうでできない。
視点をどこに定めれば良いのか、それさえも定かではないのである。
これが宇宙を懐胎する、というのであればSF小説ではありふれたイメージであるが、
宇宙により懐胎されている、というのは自分はまだ読んだことがない。
これは同時代におけるアポロ計画などの「宇宙時代」の理念とはまったく違う次元の発想なのだ。
日本におけるファンタジックな宇宙観の源流には、彼女の同時代人として稲垣足穂宮沢賢治などがいるだろうが、
彼らにせよ想像していたのはあくまで人間の視点に立脚した宇宙だった。


しかしそういう気宇壮大な宇宙観を得ただけでは彼女は満足しない。
我々生物・無生物を含めたあらゆる存在を包み込む母なる宇宙(「大宇宙胎」と言う)が「真空」であるということには、何か意味があるに違いない。
そう確信し、専門家に「真空とは何か」をわざわざ訊ねに行く。
答えは、「絶対乾燥質であることと電磁場が無条件に無数に働く」という素っ気無いもの。
もちろん彼女は納得せず、それでも何かあるに違いないと考えるのだが、
ここで注目すべきはこれが量子論的立場からの回答であることと、
彼女がそういった最新の理論にも関心を向けていた、ということだろう。
真空の概念に革命をもたらしたとされる「ディラックの海」で有名なP・ディラックが1902年生まれ、1984年没の同時代人であったことを考えると、
日本的な自然観から出発し最新の理論まで取り込んだ、その貪欲で自由奔放な知性には驚かざるを得ない。


彼女は第二次大戦を始めとする激動の時代を生き抜き、
後にも先にも誰一人到達できない壮大な「真実」に辿り着いた。
その全貌はその一端しか明らかにはならなかったものの、これに続く「沿革編」(未入手)を著した後、
彼女は93歳という長寿を全うして亡くなり、
現在はその思想に共鳴した人々が「命波論」という学問に体系化し、今もなお研究が続けられているという。