DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

宮部みゆき『模倣犯』B+、パトリシア・コーンウェル『検屍官』B

宮部みゆき模倣犯』(小学館、2001年)B+
 どれが代表作とされるべきかもはやわからない宮部みゆきの作品群の中でも、多分上位に入るだろう。
 構成がやたら凝っているのが特徴で(ネタバレにはなるが)、
マスコミを手玉に取る大規模な連続誘拐殺害事件が起こる
→ 犯人と思われていた男たちが死体で見つかる
→ 犯人と思われていた彼らの視点からの物語が語られる
→ 実は彼らを操っていた真犯人が別にいたことが明らかになる
→ 読者が先に気づいた「真相」に、作中の人物たちが後追いで迫っていく
 という順番になっている。最後の「読者が既に真相をわかっているのに、作中人物が大幅に遅れてそれに迫っていく」という趣向が、もどかしくも優越感があって良いのである。単行本にして上下巻二段組1400ページを一気に読ませる。
 しかし、久しぶりに読んでいて、昔ほどの迫真性が感じられなかった。
 それは、本書で扱われている「劇場型犯罪」が、いつのまにかなくなってしまったせいだと思う。マスコミに報道されることを過剰に意識して行われる「劇場型犯罪」は、今田勇子名義で犯行声明文を出した宮崎勤や、「さあゲームの始まりです」と警察を煽った酒鬼薔薇聖斗事件など、いずれもメディアを通して警察や世間に騒がれることを目的としていた。そして彼らをモデルに、猟奇的な殺人犯がメディアを駆使した事件を起こすマンガや小説が量産された。『模倣犯』もまたその流れの一冊に位置づけられる。
しかし現在はそういう犯罪はほとんど起こっていない。世間を騒がせた大規模な犯罪として、京アニ事件や安倍晋三暗殺事件など思い返しても、犯人から世間への直接的なアピールは全くなく、メディアは後追いで不可解な事件を語るのみであった。(そうすると最後の「劇場型犯罪」はなんだったのか……佐村河内事件やSTAP細胞事件あたりだろうか? 二つともメディアを手玉に取ろうとして無惨に失敗した例といえなくもない)
 そのため、現在においては、世間を相手に自分が主人公の演劇を繰り広げる天才犯罪者・ピースは、この社会のどこかにいるかも?という迫真性は失ってしまっているといわざるを得ないのである。社会派ミステリとしては致命的ともいえる事態だ。
 ではもう読む価値はないのかというと、そんなことはない。むしろ今では、社会派的な文脈から離れて、宮部の巧みな語り口を楽しむことができる。この人も死なせてしまうのか、という、ベストセラーと思ってなめてかかると意外な残酷さがある。
 真犯人・ピースがやや軽率な性格で、割と雑なひっかけでボロを出してしまうのが、この凝りに凝った大作の結末としてはやや不満といえなくもない。しかしそうでもなければ逃げ切ってしまったかもしれないという怖さがある。そしてすべてが終わったあと、何も終わっていないと虚空に訴える豆腐屋の主人の慟哭が胸に残る。決して軽い読み物では終わらない名作である。


パトリシア・コーンウェル検屍官』(相原真理子訳、講談社文庫、1992年、原著1990年)B
 昔はブックオフにいくらでもあった、検屍官シリーズの一冊目。急に興味がわいて買ってみようと思ったら、ブックオフでもなかなかないか、だいぶ汚いものばかりで、当時の人気はなんだったのだろうか、と思いつつ読んだ。
 で、読んでみて思ったのは、なるほど、ジェフリー・ディーヴァーリンカーン・ライムはこれのアップデート版なんだなということである。もちろん科学捜査がテーマの作品は他にもいっぱいあるが、科学的なディティールという点ではコーンウェルは今読んでも群を抜いているように思う。しかし技術レベル的にはリンカーン・ライムに及ばない。
なにしろインターネットはダイヤルネット接続で、DNA鑑定に至っては、誰も知らないから証拠として認めてもらえない、などと主人公たちがぼやくような時代である。1990年には画期的だったのだろうが、今だと古さを感じさせられるだけである。
 ではミステリとしてはどうかというと――犯人が終盤になって割と唐突に出てくるので、ちょっと驚いてしまった。犯人は冒頭に出てこなければならないというミステリの原則を考えると、これはアンフェアになるが、やっていいものなのか。なぜこんなことをしたのか。
 そこでふと思いついたのは、こういう科学捜査主体のミステリというのは、「脱・社会派ミステリ」という日本側の要請のもとでウケたのではないか、ということだ。
 この事件は、清張のような「足で捜査する」アプローチでは解決できない。被害者の人間関係や足取りを徹底的に洗ってもなにもでてこず、最先端の科学的な分析により集まった断片的な手掛かりが、かろうじて通り魔的な犯人をあぶりだすのだ。
 宮崎勤事件のような、身近な人間関係とはまったく異なるところからの侵入者による犯罪事件がクローズアップされた時代に、科学捜査主体のミステリは、それに対抗しうる捜査方法として脚光を浴びることになったのではないだろうか。
 もちろんコーンウェルが清張へのアンチを企図したわけはないのだが、日本でコーンウェルが一時期かなり流行ったのは、新たな時代の犯罪に対する対抗手段への期待ということがあったのではないかと思った。
 検屍官シリーズは今も続いていて、相原真理子の死後はベテランの池田真紀子により翻訳も続いている。時代に合わせてどういうアップデートが図られているのかは気になるところだが、今から追うべきかどうか。