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トーマス・アルトマンの『わたしだけの少女』(松本みどり訳、創元ノヴェルス、1994年)を読んだ。救いのない、心の闇を丹念に描いた物語であった。
主軸となるのは二つの物語。
一つは平凡な主婦のエミリーの物語。愛する夫と小学校に通う姉弟を子にもち、幸せなはずの彼女は、独りで家に残される孤独、出張の多い夫への浮気の疑念などによる閉塞感から、自分を解放してくれる変化を待ち望んでいる。
もう一つは同じく一人の主婦の物語。彼女は幼い娘を事故で亡くし、絶望に囚われている。その現場に居合わせながら何もできなかった夫を殺した彼女は、娘の死が信じきれず、街をさまよい、エミリーの娘に出会う。死んだ娘によく似た少女を自分の娘と信じた彼女は、エミリーが転機をもとめて始めたベビーシッター組合に参加する。
組合への参加者は四人。その中の誰かがエミリーの娘を狙っていることを、エミリーはまだ知らない。強迫的な不安から家庭の外に眼を向けようとするエミリーの隙をつき、子どもたちに魔の手が迫ろうとしていた……
(以下ネタバレ)
二つの並行する物語が最後に合流して全体像が明らかになる、という構図は、日本では黒田研二『ウェディング・ドレス』や貫井徳郎『慟哭』など、技巧的に優れた作品が多々あり、それに比べると本作は、工夫はしているものの意外性はあまりない。
むしろ読みどころは、冒頭から既に狂気に陥っている二人の女性の、カタストロフへの突進にこそある。暴発寸前の緊張感で500ページ近く読ませる力量は並ではないが、逆に言えば結果ではなく過程こそが読む楽しみであって、クライマックスになったらほっとしてしまったくらいである。訳者にはこの過剰なまでの妄執は訳していてどうだったのかぜひ知りたいものだが、残念ながら訳者あとがきはなし。
不満を挙げるなら、それなりに描写が割かれているエミリーの浮気(未遂)相手や、もう一人の主婦の盲目の父親などが、あまり大きな役割を果たさないまま退場して伏線が未消化になったり、犯人の女性が「わたしに息子はいない、欲しいのは娘だけ」という状態なので姉弟の弟が物語の進行上邪魔になったり(散々ひどい目に遭った挙句捨てられてしまって可哀想なのだ)と、少々無駄な部分が多かったように思われる。小池真理子あたりなら、その辺を削って短篇にしそうである。
二人の女性の身勝手な妄執の果て、最後は子どもたちの精神崩壊という犠牲を払って物語は終結する。エピローグのエミリーに特にそのことへの反省が見られないのが酷い。結局ふたりは子どもへの愛よりは自身への愛によって自滅していったように見える。その独善が日本語訳タイトルにも現れているといえるだろう。なお、原題は"Kiss Daddy Goodbye"で、二人の女性の夫との決別に焦点が当てられているように見えるが、明らかに日本語タイトルのほうが適切である。
- 作者: トーマスアルトマン,Thomas Altman,松本みどり
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1994/07
- メディア: 文庫
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