DEEP FOREST/幻影の構成

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飯嶋和一『神無き月十番目の夜』(河出文庫、1999年、原著1997年、その後小学館文庫)を読んだ。

 慶長7年の陰暦10月。時は江戸時代、戦乱の世が終わりを告げ幕府による全国統一が進む中、常陸国陸奥国の境にある小さな村が消滅した。住民が、老人や子どもに至るまで余すところ無く、一夜にして虐殺されたのだ。平和が訪れたはずのこの時代に、なぜそんな残酷な事件が起こったのか――実際にあった事件をもとに、語られざる歴史を丹念に描いた大作である。

 一村の滅亡という結末は最初に提示されており、物語はそのカタストロフへ向けてただ突き進んでいく。それがわかっているせいで、そこそこ魅力的、という程度のキャラクターたちが、読者には三割増しくらいで鮮烈な印象を残していく。

 本書の特徴として、一人も英雄が出てこないということがある。英雄というのは、あらゆることを一人でやってしまうものである。たとえば明治維新三傑の一人である西郷隆盛は、薩摩藩士から始まり、生涯を捧げるに足る主君との出会いとその死、それにショックを受けての自殺未遂、長州や土佐と協力しての討幕運動の主導、明治政府樹立、その後の征韓論をめぐる内部対立、そして敗北して帰郷し、士族の反乱をなだめようとするが果せず西南戦争を指揮し、敗走の中切腹し、一つの時代に終止符を打つ――という、とても一人でなしえたとは思えないような密度の濃い生涯を送っている。だがそんな英雄的人物は本書には出てこない。物語の冒頭で江戸幕府がこの村に持ち込んだ「火種」を受け止めるのも、それに不満を抱くのも、それを宥めるのも、反乱の象徴的存在となるのも、実際に反乱を起こすのも、戦いの指揮をするのも、すべて違う人間である。そして、彼ら全員が殺されてしまうがゆえに、その「歴史」を語り継ぐ人間もいない。そういった語られざる歴史というのは我々が知らないだけで実はたくさんあるはずで、そういった埋もれた宝物を掘り出しているという興味はある。

 とはいえ、著者の言を信じるなら、本書の元ネタはただ一つ――高倉逸斎の『探旧考証』にある「元和三年丁巳十月、水戸生瀬の百姓、徒党し法を背き腑を貢せず、収納の役人を打殺す、信重大に怒り、物頭を率て彼地に向ひ、一村の百姓残らず誅戮、遺類なし、邦内その威に服し、震恐しけるとなり」という記述、それだけを手がかりに構築された、大部分が想像の産物である。だからというべきか、物語を読んで浮かびあがる構造は、江戸幕府による一律の強引な「近代化」に対して古くからの伝統を守ろうとする前近代の共同体が反抗するという、がっかりするほどに平凡な図式である。大部分の村人たちの反抗のエネルギーの源泉は、幕府の都合で村祭が中止になったり、検地のために田が荒らされたりといった個人的なことであり、彼らは最後は戦術を全く無視して「神域」とされていた行き止まりに逃げ込み、ひとたまりもなく皆殺しにされる。一方で、村人のごく一部ーーつまり反乱の指導者たちは、幕府の検地事業を、強力な中央集権化への第一歩と正しく理解し、伝統に固執する村人たちの心情を蜂起に利用する。まあこれも平凡といえばあまりにも平凡な展開である。

 それでもこの本が「読ませる」のは、ある一人の男ーーまともな思考力をもつ人間たちの中にあって、幕府に反乱を起こすという不合理な決意をした、そのたった一人の人間の狂気が伝染して、最悪の惨劇につながっていくという、サイコスリラー的な恐怖にある。その意味ではスティーヴン・キングやジョン・ソールといったホラー作家と比較されるべき作品ともいえる。しかし本作は悪霊のような「合理的説明」すらなされないという点で、ある種徹底している。なぜ「彼」が唐突に無謀としかいえないーーなにしろ村一つで幕府に立ち向かおうというのだーー反乱に踏み切ったのか、明確な理由は最後まで明らかにされない。「彼」は特に戦術も持たないままに乱戦の中で死に、一切を胸に秘めたままこの世から消える。この物語の最大の良心であった藤九郎という男は、本領を発揮して「反乱を未然に防いだ英雄」になろうとしたその瞬間、あっけなく迎えたその最期に至るまで、「彼」を理解することはなかった。

 読者は「彼」により、豊かな人生を約束されていた人々の可能性が次々に潰されていくのを目にすることになる。たとえば和田竜の『のぼうの城』だったら大活躍したような者たちが、『カムイ伝』のような、劇画史上に残るレベルの高潮にまで達した反乱に向かうこともなく、歴史に何の役割を果すこともなく死んでいく――その未完の可能性こそが、読後に哀切を残すのである。こういった、「実現されなかった可能性」が魅力のとなるようなキャラクターの一つの到達点は、高見広春バトル・ロワイアル』(1999年)の桐山和雄であったかもしれない。彼は物語の行く末を左右するある重大な決断を一枚のコインに委ねる。当時、あの「コイン」により、潰れていった幾多の可能性を悔しがった読者は多いに違いない。

 実のところ、「まとも」な集団のなかに紛れこんだ知られざる狂気とその伝染、という隠れたモチーフ(狂気を精神医学的に分析するのではなく、その狂気が集団に影響を及ぼす過程が描かれる。タイトルやあらすじからはわからないが、物語の主要な動力源になっている、というのがここでは重要)というのは、飯嶋和一のほか、大石圭塚本逭史、大鋸一正といった、90年代後半の河出文庫で活躍した作家たち――より広くは角田光代鹿島田真希黒田晶長野まゆみなども入るかもしれない――に、共通して見られる特徴である。鹿島田真希『二匹』(1999年)や角田光代『学校の青空』(1995年)などは、自分にとっては青春小説というよりもほとんどホラー小説だった記憶があるし、多分今読んでもそうだろう。

 それらはある程度当時の社会を反映しているとはいえるだろうーー安直には、直近のオウム事件がただちに想起される。しかし彼らが描き出すのは、劇作家の別役実山崎哲が一時期熱心に論じたような、イジメや猟奇殺人といった局地的なスケールの事件のほうが近いように思える。劇作家たちが注目したことからもわかるように、狂気を抱えつつマトモな人生を送る彼ら当事者の生き方は、すぐれてパフォーマティヴなものであり、それを物語として描き出す試みは、娯楽性に加えて私小説性をもあわせもつ文学的実験であったともいえる。それらは社会や文明などと持ち出さない分、より身近でありえて、一時期は自分にとっての社会の教科書であった。

 彼ら作家たちはその後、ある者は出版界から姿を消し、またある者は独自の作風を確立していき、集団性はまるでなかったかのように消え去っている。『バトル・ロワイアル』はこのモチーフの一つの頂点ともいえるが、その後は異常性格そのものがテーマとなる作品が相次ぎ、変質していった。それではその流れは全く絶えてしまったのかと言えば、そんなことはなく、青山景『よいこの黙示録』(イブニングKC、2010-2011年)や小山鹿梨子『校舎のうらには天使が埋められている』(講談社コミックス別冊フレンド、2011-2013年)、三部けい『魍魎の揺りかご』(ヤングガンガンコミックス、2010-1012年)などの高度な達成がなぜかコミックにおいて散発的に見出せる。とはいえ潮流と呼べるほどのものではない。果たしてこれはまた復活するのだろうか。河出文庫の読み残しもだいぶ減ってきて、この種の作品に出会える可能性は小さくなる一方である。少し寂しい気が、しないでもない。

神無き月十番目の夜 (小学館文庫)

神無き月十番目の夜 (小学館文庫)