DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

【最近読んだ本】
早乙女貢奇兵隊の叛乱』(集英社文庫、2015年、単行本1970年)A
 吉田松陰が神格化された現代では貴重かもしれない、維新史の暗部を描く異色作品。なにしろ執念で『会津士魂』全13巻(1970〜1988)・『続会津士魂』全8巻(1989〜2001)を書いて会津の正義を訴えた早乙女が長州を書くのだから容赦がない。
 普通奇兵隊というのは、創設した高杉晋作とセットで語られ、高杉を中心にその活躍がいきいきと描かれ、高杉の死とともに物語からフェードアウトしてしまうのが常である。
 対して、ここでは高杉は一登場人物に過ぎず、むしろ歴史の片隅に葬られていった隊士たちにスポットライトがあてられている。特に前半は、赤根武人、立石孫一郎、世良修蔵など、あまり脚光を浴びない人物が中心に据えられているし、彼らを描く過程で、高杉の伝記小説などでもあまり詳しく触れられない教法寺事件(奇兵隊結成初期の奇兵隊士と長州藩士の衝突事件)などもかなり詳細に語られるのはうれしい。
 高杉との対立の末に奇兵隊の主導権を握るも、その後の度重なる政変の中で孤立し捕われ処刑された赤根、他藩とのつまらない衝突の罪滅ぼしのため手柄を立てようと幕府への反乱を起こし、あっという間に鎮圧され歎願も受け入れられず抹殺された立石、誰も行きたがらず押し付けられた奥州鎮撫総督をそうとも知らずに喜んで受け、みすみす暗殺されることになった世良。あるいは奇兵隊と相対し、まったく新しい戦法に歴史的な醜態をさらした小倉藩小笠原長行やその部下の島村志津摩たち。長州嫌いの早乙女なのでお世辞にも好意的とはいえないが、いずれも愚かながら、人生にめぐってきた一瞬の栄光をなんとか掴み取ろうとして失敗した憎めない人々となっている。
 その中で高杉晋作はどうかというと、「切れ者で融通無碍な精神が、しばしば人の意表を衝く」としながらも、いたるところで直情径行、独善的、分裂症的、無思慮、幼稚単純と手厳しい。言うだけ言って「これは社会性の欠如というより一種の天才的性格である」というフォローになっていないフォローでとどめをさす。

高杉晋作の行動をふりかえってみても、深遠な思想から発した行動や、政治理論とはかなり懸隔があるようだ。常に突飛な思いつきが多く、政治理念に裏付けられたものではない。しばしば、無謀で狂的な行動が、それが無謀であるがゆえに、意表を衝いて成功し、局面打開に思いがけず幸いしている。(p.170)
 女も革命も、かれには遊びだったとしか見えない。道具でしかない。結果としては討幕に功があったのは事実である。幕府という勢力に挑む楽しさが、かれを動かしたに過ぎない。師松陰の復讐も、攘夷も、晋作の青春を彩る片々たる事件にすぎなかったのだ。(p.174)

 こんな批判が数ページにわたって続いたりする。たとえば大河ドラマ『花燃ゆ』では、師の松陰を慕い優秀な久坂に劣等感を抱くごく平凡な青年としての高杉が描かれていたが、本作ではそのような影は微塵も見当たらない。「一種の狂人としての高杉」の集大成といえるだろう。
 こんな風だからあまり人気がなかったのか、作者もあまり楽しくないのか、後半はやや駆け足で俯瞰的に維新後の残党の動きを追う。脱退騒動を経て政府の懐柔策や弾圧を受け弱体化し、明治3年に木戸孝允らの策謀で反乱首謀者の主だったものが処刑され、奇兵隊が完全消滅したところで終了。大楽源太郎、富永有隣、河上彦斎前原一誠などなど、奇兵隊と関連をもって表舞台から消えていった人は他にもいるのだが、ひとこと程度で消えていくのが少々不満。
 その中で台頭してくるのが山縣有朋である。仲間を仲間とも思わず、彼らの死体を踏み台にしてのし上がっていく悪人として描かれ、だいぶ恨みがこもっている。解説の葉室麟も「司馬史観」とならぶ「早乙女史観」があるのではないかと言っているが、実際かなり筋の通った罵倒が展開される。
 しかし教法寺事件など、奇兵隊士が事態を何も知らない無抵抗の藩士をよってたかって斬りつけるなど、想像以上に凄惨な殺し合いで驚かされる。1969年刊行という時節柄か、志士に対する幕府の弾圧を学生運動に対する官憲による弾圧に比していたりしていて(脱走した隊士をことごとく斬首したのを「これで良かった」などと広沢真臣が書簡で述べているのに対し、「先般の大学騒ぎでのゲバ棒検挙のあと某大臣が言っていたのとよく似ている」と皮肉っている)、奇兵隊士と学生たちを重ね合わせるようなところもある(「大学生の鬱屈した感情も諸隊兵士に似通っていないか」との記述もある)。そう考えると詳細に描かれる奇兵隊内部の争いも、それを通して学生運動内ゲバを描きたかったのではないかと思えてくるのだが、今となっては知る由もない。


篠田節子『絹の変容』(集英社文庫、1993年、単行本1991年)B
 篠田節子のデビュー作。最初からのこのレベルというのもすごいが、この話が第3回小説すばる新人賞受賞作というのもちょっと驚く。
 虹色に輝く絹をつくりだす野生のカイコが発見され、主人公が二人の仲間を得て養殖や絹の製品化に挑むが、それが思わぬ悲劇を巻き起こす――という話で、バイオパニックホラーとでもいうべきか。中編というべき長さで、要点をコンパクトにまとめてスピーディーに物語は進み、なにか寓話めいた読み心地である。
 自然界で圧倒的に弱いはずのカイコの幼虫が肉食化し、アレルギー性をも備えて人間たちを襲うさまは、西村寿行の『蒼茫の大地、滅ぶ』や『滅びの宴』あたりを想起させる。西村の場合はイナゴやネズミが人間に反逆するが、大発生したイモムシがカーペットが移動するかのように行進して八王子の住宅地を蹂躙するヴィジョンは、人間より圧倒的に弱いはずのものが人間を圧倒する瞬間の恐怖を伝えるに十分である。
 獲得形質が遺伝することになっているなど科学的な欠点は措くとしても、小説として難点を言うなら、文章にあまりに詩情がない。たとえば虹のような光沢を持つ絹を、まっさきに「レーザーディスクのような」と言ってしまうのは、確かにわかりやすいけど、即物的にすぎて夢がない。どうせ言わせるのなら、絹の商品化を主導する男に「夢のない感想」として言わせるべきだったのではないか。
 ために、イモムシの襲来もどこか淡々として、西村ほどのインパクトがないと思う。むしろこの場合はカタストロフより前――かつて絹織物で財をなし、今は包帯工場を経営しているかつての名家の若旦那が道楽ではじめたカイコの研究(このあたりのディティールが良い)が、やがて人や金を動かし成功の希望をみせつつ、一方ではきたるべき悲劇の兆候もあちこちに芽生えながら、いつしか事業が彼の制御できないものへと巨大化していく――という、その破滅への予感こそが魅力だろう。カタストロフ後はもう、なるようにしかならないという諦めが読者にも伝わってくる。
 どうせ冬がきてみんな死ぬんだろ、と思っていたらそうはならず、あくまでバイオテクノロジーにこだわったラストをむかえて、それにラブロマンスもかかわってくるあたり、エンターテイメントとしてサービスは良い。やや小粒感は否めないが、のちのベストセラー作家への萌芽を充分感じさせる良作である。