DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

 小池真理子『墓地を見おろす家』(角川ホラー文庫、1993年、1988年角川文庫刊の改版)を読んだ。

 正直なところ、読んでいる間はさほど面白いとは思えなかった。
 舞台は大規模な墓地の隣の、古い屋敷――ではなく新築の高層マンション、というのが当時の新機軸だったのだろうが、予想に反して住人たちの群像劇とはならず、ほとんどがさっさと逃げ出して、中盤には2家族と管理人のみになり、最後は1家族だけとなる。これがまず拍子抜けである。何のための舞台設定か首をひねる。
 恐怖現象も、どこかで見たようなものが散発的に起こるばかり。ペットの怪死、見えないが確かに感じられる不気味な気配、カマイタチ、やたら故障するエレベーター、見え隠れする謎の人々、ガラス戸に次々に現れる大量の手形、墓地をめぐる因縁話、どこからか聞こえてくる話し声、闇に潜む怪物、そして襲い来るカタストロフ――しかしあの手この手はいずれも既視感はぬぐえず、しかも意図的に「真相」がぼかされているので、つながりが見えてこないのである。怪異の側でやることに一貫性がないのも良くない――怪異に論理性を求めるのは野暮、とはネット上の書評でも言われてはいるが、しかしどうにも納得できない。
 特に、人によって怪異の「応対」が違うのがさっぱりわからない。作中、うまく逃げ出せた住人もいれば、逃げ出せず閉じ込められる住人もいる。彼らが正体不明の恐怖に怯え続ける一方で、明らかな部外者が、マンションに足を踏み入れようとしたばかりにあっさり殺されてしまう(しかも身体が一瞬で蒸発して「影」だけが残るという、原爆体験を経た「日本的」な殺し方)。いったい「敵」は何がしたいのか、法則が見出せず、何が何やらわからないうちに、伝聞のような形で「何か」が起こったことだけが告げられ、物語は幕を下ろす。怪異の全体像を描き出さないことで恐怖を演出する、というのは、『エイリアン』や『ローズマリーの赤ちゃん』などでおなじみの手法とはいえ、ここまで煙に巻かれるのはいただけない。
 作者がスティーヴン・キングモダンホラー現代日本に移植しようとしたのは、読めば明らかである*1。本作の初刊は角川文庫で1988年、角川ホラー文庫が1993年創刊と考えると、先駆的な試みであるといえる――実際、解説によれば、絶版後も根強い人気があったらしく、リバイバルという形で創刊の1993年にホラー文庫で再刊している――が、それはホラーがジャンルとして未成熟な時代の産物ということも意味する。上に挙げた怪現象は、今となっては陳腐化してしまっているのは否めないだろう。それにまた思うに、高層マンションを舞台にしたホラーなら、お手本とすべきはキングやクーンツよりもむしろ、バラードの『ハイ・ライズ』のような作品ではなかったか。


 だが――こうして不満を残しつつ読み終え、しばらくして断片的にいくつかの場面を思い出そうとすると、それがどうにも得体の知れない恐怖とともに浮かび上がってくるのである。ネット上でよく見る「意味がわかると怖い話」の類ではないが、全体像が見えてから最初に戻ってみると、何気ない場面が妙に怖いのだ。それはつまり、怪異の進展と軌を一つにして進展するもう一つの物語――平凡で幸福な一家と見えていたものが、せっかく買ったマンションを手放すことができないでいるうち、それぞれの抱える、修復不可能な心の闇が露になっていく――という、小池真理子お得意のストーリーが重ねあわされるという構成がうまく機能しているということであろう。土俗的な怪異と偶然そこに引っ越してきた現代人の心性は、無関係であるにもかかわらず、オーバーラップして描かれることで、読者がそこに通底するものを無意識に見出してしまい、そこから普遍的な恐怖が立ち現れて来るのだ。それはまさに、多くの作品で家庭崩壊と怪異を並行して描き出したスティーヴン・キングの手法そのものである。その意味で小池真理子の『墓地を見おろす家』は、キングの正統な後継作品のさきがけと称するに足る作品といえる――今はそう思うのである。

*1:同様の試みの作品としては赤川次郎の『魔女たちのたそがれ』『魔女たちの長い眠り』の二部作が成功例として挙げられるだろうか。現代人が土俗的なものに由来するとおぼしき恐怖現象に襲われるが、それに対抗するのが科学よりも発火能力や予知能力など、SFアクションに近い意匠であるところに新鮮味があった。その後ゲーム化もされたし、今見ると『ひぐらしの鳴くころに』系統の源流のように見えなくもない。