小林秀雄とクリシュナムルティ――『栗の樹』感想
【最近読んだ本】
小林秀雄を読むときは、デジャヴのような気持ち悪さに悩まされる。何しろ重複が多いのだ。たとえば有名な「無常という事」は、収録されている本を文庫で調べてみただけでも、
『無常という事』(角川文庫)
『古典と伝統について』(講談社文庫)
『モォツアルト・無常という事』(新潮文庫)
と、主要な文庫を全制覇する勢いであり、講談社に至っては文芸文庫の『栗の樹』にも入っている。ほかにも、たとえば『考えるヒント』(文春文庫)は、色々なエッセイや講演の寄せ集めだから、いくつかの文章は本書にも収録されている。タイトルもいい加減だから、『古典と伝統について』には「平家物語」という同じタイトルの文章が2つ収録されている。だから小林秀雄の文庫本を2、3冊読むと、常に「これはもう既に読んだのではないか」という不安と戦いながら読むことになる。もともと小林秀雄の文章というのが、話題がとりとめなくあちこち飛ぶので、どれかの話題がどこか記憶の隅に引っかかってすでに読んだような気分になる。編集者はよかれと思って自分の推す文章を入れているのだろうが、それでこうも重複するのでは困ったものだ。
しかしかくも称賛される「無常という事」は、実際そんなに良いものなのだろうか。「無常という事」は冒頭、
「或云(あるひといはく)、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つゞみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云(いはく)、生死無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へと申すなり。云々」(一言芳談抄)
という短文が引かれる。そのあとが持って回ってわかりにくいのだが、自分の言葉で語り直してみると――小林秀雄が比叡山を訪れていた時にこの文章が思い出され、その意味が突然「分かった」気がしたというのである。その時何がわかったのか、今では思い出せないが、しかしその瞬間、自分は鎌倉時代そのものにタイムスリップすらして、心境を理解できていた気がするという。そのときに得られた「気分」は、今理屈で考えてもよみがえることはない。そんなことを言っても歴史学的には無意味なのだろうが、確かにその時理解できていた。そしてそういう形での過去の把握こそが、歴史学的な過去の把握よりも本物なのではないか。そんな風なことを、繰り返し言っている。詳しく読めば、当時の時代思潮への批判とか、もっと色々と示唆的なことを言っているのかもしれないが、自分で読めた範囲ではこれだけである。
これぞ悪名高い印象批評というべきもので、これだけだとよくわからないのだが、ところで『考えるヒント』の3巻(文春文庫)には、「信ずることと知ること」という講演録がある。のっけからユリ・ゲラーを称賛しているという奇妙な講演なのだが、その中で、
私の友達の今日出海のお父さんというのが、もうとうに亡くなったが、心霊学の研究家であった。インドの有名な神秘家、クルシナムルテという人の会員でした。だから私はああいうことは学生の頃からよく知っていました。(p.7)
ここでクルシナムルテ、つまりクリシュナムルティという意外な名前が出てくる。ジッドゥ・クリシュナムルティといえば、神智学協会の幹部であるリードビーダーがインドで見出してきた天才少年である。彼は成長して恐るべきカリスマを発揮し、「星の教団」の指導者となるが、のちに信仰には教団は不要であるとして解散し、その後は一人の聖人として生きた。作家の今東光・今日出海の父・今武平は、どうやら「星の教団」に日本人として唯一参加していたものらしく、クリシュナムルティの著書の翻訳もしている。その関係で、小林秀雄も学生時代からその思想に触れる機会があったというわけだ。
小林秀雄論というものをあまり読んできたわけではないが、このつながりに触れていたものは見たことがない。しかしこれは、小林秀雄について考えるうえでかなり重要なのではないか。小林秀雄といえば、晩年のベルグソンの神秘主義への傾倒が有名であるが、それ以前から、神秘主義的な思考が一貫して根付いているのではないか。
同じ講演の中で、彼はベルグソンにも触れている。ベルグソンがある会議に出席していた時、精神感応があるかどうかという話題になった。ある女性が、戦争のときの夫の死の光景を、遠いパリでまさにその時刻に、その通りに夢に見たという話をする。だがフランスの名高い医者が反論する。そういう報告はたくさんあるが、その夢が間違っていたという報告も非常に多い。それなのに、正しい方ばかり注目して、精神感応が実際にあるというのはいかがなものかと。それに対して、そこにいたもう一人若い女性が、
「先生、先生のおっしゃることは私にはどうしても間違っていると思われます。先生のおっしゃることは、論理的には非常に正しいけれど、何か先生は間違っていると思います」と言ったというのです。ベルグソンは、私はその娘さんの方が正しいと思ったと書いている。(p.9)
その医者は夫人の見た夢の話を、自分の好きなように変えてしまう。その話は正しいか正しくないか、つまり夫人が夢を見た時、確かに夫は死んだか、それとも、夫は生きていたかという問題に変えてしまうというのです。しかし、その夫人はそういう問題を話したのではなく、自分の経験を話したのです。(略)それは、その夫人にとって、たった一つの経験的事実の叙述なのです。そこで結論はどうかというと、夫人の経験の具体性をあるがままに受取らないで、これを果して夫は死んだか、死ななかったかという抽象的問題に置きかえてしまう。そこに根本的な間違いが行われているというのです。(p.9)
自分はこの話を理解できたとはとても言えない。穏当な表現をすれば、夫の死を本当に幻視したかどうかはともかく、自分が夫の死をまざまざと見たように感じたのはまぎれもない事実である――ということになるのだろうが、それが事の本質をつかみ取れているかどうかは自信がない。なんにせよ、こういわれてしまうと、議論は無意味になってしまい、我々としては何も言えなくなる。そしてこの構図は、先に挙げた「無常という事」でも同じである。比叡山にいたあの瞬間、小林秀雄はあの女房をめぐる短文が理解できていた。歴史学的に誰がなんといおうと、それは揺るがないのである。
ここには小林秀雄の考え方が端的に現れている。今まで、小林秀雄の批評の方法論というのは、坪内祐三も引いているように、
私の書くものは随筆で、文字通り筆に随ふまでの事で、物を書く前に、計画的に考へてみるといふ事を、私は、殆どした事がない。筆を動かしてみないと、考へは浮ばぬし、進展もしない。(坪内祐三『考える人』新潮社、p.13 より孫引き)
というあたりに明快に語られているとみられてきた。確かに、とりとめなく連想的に広がっていく彼の評論やエッセイの方法論は、これで十分に説明されているように見える。確固たる知識や理論体系によって対象を解剖的に論じるというより、心に浮かんだイメージを真実として書き留めていく。非論理的な飛躍が多くて難解とも魅力ともいわれる彼の文章は、それで説明がつくように見える。
しかしその深層には、実は神秘主義的な方法がナマで潜んでいたのではないか。彼の評論は思索と呼ぶよりはむしろ、瞑想や幻視に近いものだったのではないか? 彼の評論やエッセイは、それこそクリシュナムルティが多く残したような、瞑想録や講話のようなものに近いのではないか? 入試に使われる評論文として、論理的・客観的に読み解くべきものではなかったのではないか?
では小林秀雄はいかに読まれるべきか。小林秀雄についての論考はあまり読んでいないが、たとえば江藤淳のように伝記的な事実(特に中原中也をめぐる恋愛の問題)から思想を追うものが主流であるように見える。あるいは坪内祐三が警告しているように、多くの論者は「小林秀雄をだしに己れを語ろうとしたがります。たとえば己れの文学的青春であるとか文学的自意識であるとかを」(『考える人』p.15)。しかしそうではなくて、他者とのかかわりや時代との取り組みとは離れて、ある種の宗教者や幻視者の著作として捉えるべきだったのではないか。もちろん人の思想はその人生や時代とは切り離せるものではないが、たとえばゴッホやモーツアルトの伝記的な事実との比較から小林秀雄の論を間違いとするような読み方は、小林秀雄が目指したものとは離れてしまうのではないかと思うのである。
「無常という事」の感想から話が長くなって、『栗の樹』の感想を書いていなかった。本書は、こういった論考よりも、時折現れる、友人たちを語ったエッセイが面白かった。先に挙げた今日出海のほか、志賀直哉、菊地寛、深田久弥、川端康成などそうそうたる顔ぶれが、入れ代わり立ち代わり現れて、小林秀雄との交流が語られる。たとえば小林秀雄が初めて講演をしたときには、志賀直哉にスーツを借りに行き、ちょうど居合わせた志賀の甥に借りたのだが、それが着心地がいいものだから一週間以上返さないでいたという話とか、深田久弥と雪山にスキーに行って、無理をして難しいコースに行って危うく遭難しかけた話とか。全体に、謹厳な雰囲気の文学者たちの、笑えるエピソードを集めている。これは実体験だから具体的であり、ちゃんとオチもあって意外に読みやすい。こういったエピソードが、難解な講演や評論の中にも時折ひょっこり出たりするので油断できないのである。こういった部分を集めていったら当時の文壇模様を知る貴重な証言集になるのではないかと思うのだが。