DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

セルラー・シンドローム』(パークプーム・ウォンチンダー監督、2007年・タイ)A
 タイの現代社会の闇を描いたサイコ・ホラーということだが、題材は「インターネットのプライベート動画流出の恐怖」という、日本でも充分ありうる問題だろう。ごく平凡な青年たちのグループが、ひとりずつネットに盗撮動画をあげられ、ある者はショックで自殺し、ある者は復讐で殺されていき、主人公は恋人までも標的にされて焦燥を深めるが、盗撮者の正体は一向にわからない。ドラマ『魔王』の犯人視点をカットしたような不気味さである。
 この話、「犯人は物語の当初に登場していなければならない」というミステリの作法に忠実なので、犯人はさほど意外ではないが、脚本が良いので楽しめる。俳優たちもイケメンすぎず、それぞれに個性もあって、演技もうまい。最初と最後の墜落死をはじめ、バンコク市街を立体的に駆使して空間的な移動も観ていて面白い。実は百合っぽいところもあって、二人でそういう漫画を読むシーンがあったのだが、あれはもしかしてほしのふうた? 
 難をいうなら犯人と主人公が愛し合うようになったのは運まかせに近いわけで、よくうまくいったものだと思う。他の人と同じように殺せばよかったのに、よほど自信があったのか
 残念なのは、この監督、他の作品は日本でDVD化されていないらしいこと。監督デビュー作品のScared(2005年)は、新入生歓迎旅行のバスが山奥で橋から転落、学生たちは歩いて森からの脱出を目指すが、彼らは次々に何者かに襲われていき――という、日本でもよくあるサバイバルもので観てみたいのだが、タイ語のDVDは字幕なしということでちょっとためらう。日本人のレビューで字幕がないのはそれほど問題ないとはあるが……
https://www.ethaicd.com/show.php?pid=22005&asso=1049

【最近読んだ本】
小島アジコ『アリス イン デッドリースクール』(麻草郁原作、電撃コミックスEX、2015年)A 麻草郁原作の戯曲を基にしたコミック。平和なのんびりした時間を過ごす女子高に、3話目のラストにて突然あらわれたゾンビ。漫才コンビをめざす優と信子をはじめ、何とか逃げ延びた生徒たちは屋上に立てこもるが、ゾンビの感染は予想外に速く、彼女たちも何人かが侵蝕されはじめ、状況は刻一刻と悪化していく。生き残った者たちは脱出を試みるが――
 コメディアンが状況の外側に立ち、世界の終末を見届ける――という構図は、最近は田村由美の『7SEEDS』にもあったし、古くはシェイクスピア劇の道化までさかのぼるだろう。ここには「笑いが世界を救う」という信念があると思う。実際本作では、笑うことでゾンビの発症を抑えられるという噂も紹介され、「ええ、大阪ではそれでもう何人も進行がとまって……」「また大阪か!!」「?」「あっ気にしないで下さい、ただの映画ジョークっス」というネタがある。
 笑いはこの作品においても秩序側と崩壊した世界のいずれにも属さないが、そういった「笑い」への信頼が信用できないものになっている現在、何とかみんなを笑わせようとする優たちは、余計悲痛なものになってしまっている気がする。
 滅亡に向う世界をコミカルかつはかなげに描き、小島アジコの絵柄はコミカライズとして成功している。



ジョン・ハットン『偶然の犯罪』(秋津知子訳、早川書房、1985年) A
 今年一番面白かった小説はこれかもしれない。あらすじがなかなか読ませるので、長いが引用してみる。

 殺人事件の捜査など、コンラッドにとっては無縁のもののはずだった。有能な教師にして模範的市民、現代の甘やかされた若者や堕落した同僚たちの手本となるべき廉潔な人格者。だから、あの晩ポルノ雑誌を買ったのも、ポルノ映画を見たのも、ふとした出来心にすぎなかったのだ。妻との間に隙間風がたち、学校の合併問題によって将来に不安がきざした時、ちょっとした気晴らしを求めたくなって、何が悪い? そしてそのあと、ヒッチハイクの女の子を何がしかの期待をこめて生まれて初めて拾ったことだって、一体何が悪かったというのだ……?
 だが、その夜コンラッドの運命は大きく狂ってしまった。荒地で二度までも起った少女強姦殺人事件。あろうことか、彼は容疑者として巻きこまれてしまったのである! 醜聞をおそれ、警察に小さな嘘をついたために、コンラッドはずるずると、アリ地獄のような深みにはまっていった――!
 英国の師範学校を舞台に、辛口のウィットにあふれた人間描写と鋭い心理描写をちりばめ、緻密かつ意外なプロットで描きあげた傑作サスペンス! 英国推理作家協会ゴールド・ダガー賞受賞。

 なんとなく、小谷野敦が好きそうな気がする。あと、三谷幸喜にドラマ化してもらいたい。コンラッドの関心は、学校が大学に合併されて自分がポストを喪うのではないかということにあるが、新しいポスト獲得のための運動に専念しようとするコンラッドの前に、刑事たちは執拗に事件の捜査と称して現れ妨害する。そして彼らの捜査は、コンラッドの全く知らないところで、円満と信じていた夫婦仲の危機も進行させていく。そのしつこさが、あたかも古畑任三郎が推理ミスをして無実の人間を追いつめていくような悲喜劇となっているのだ。ひとつひとつは小さな不運なのだが、それがコンラッドも知らないところでやがて積み重なって彼を地獄へ引きずり込んでいくのが実にうまい。
 あらすじは幾分同情的だが、翻訳者の秋津知子はあとがきでコンラッドに憐れみを感じると留保をつけつつも、「利己的で、独善的で、卑劣で、なんとも鼻もちならぬ人間である」と手厳しい。これは読み手の男女差ということもあるかもしれない。個人的には、なんとかインテリとしての体裁を取り繕おうとしてことごとく失敗するコンラッドは、プライドの高さゆえに逆に滑稽で、ひたすらカッコ悪く同情しきりであった。山下和美『天才・柳沢教授の生活』の柳沢教授は笑われながらもどこか気品があったが、こちらはポルノ映画を最後まで観て偉そうに批評したり、ナンパをしても若者に見向きもされなかったり、自分の良心にそむいていないか心中で問いかけながらつい嘘を重ねてしまったり、笑ってしまうくらい惨めである。これでもかと繰り返されるカッコ悪さのいくつかは、誰しも多少身に覚えのあるところなのではないか。
 ハラハラしながら、一体これがどう落着するのかと思っていたら、ラストは多少急ぎ足になってしまったのが瑕といえば瑕。まあこうでもしないと終わらせようがなかったというのは理解できる。あえて難をいうとすれば、死んだ娘が自分が車に乗せてあげた娘と別人だと全く気づかなかったのは何なのか。新聞記事で写真とか見なかったのか
 ストーリーテリングはなかなか上手い作家で、ぜひ他作品も読んでみたかったのだが、一作目は未訳で、本作以降は作品はないらしいのが残念。

【最近読んだ本】
丸山健二『踊る銀河の夜』(文藝春秋、1985年)B
 三編収録の短編集だが、どれも同じような印象。いずれも都会から置き去りにされた島に住む、ひとりの男の一人称で、明確なものではないが、みな何かしら鬱屈をかかえている。物語は時系列を前後しながら、徐々に男の置かれている状況を浮き上がらせ、そこかしこにカタストロフの予兆を見せつつ、しかしなかなか何も起こらずページが進んでいく。生き別れた兄のヤクザや妻の焼身自殺事件、沼の主の大きな鯉など、それぞれにシチュエーションやガジェットを工夫してはいるものの、印象が変わるほどではない。
 この雰囲気が好きな人もいるのだろうが、個人的には合わない。文体は簡潔というよりぶっきら棒に近く、ハードボイルドというよりは終始意味もなく不機嫌な人という風にみえる。たとえばこんな風に――

今や私は完全に解き放たれている。拘束され、圧迫され、極度の緊張を強いられるような条件は、悉く滅している。胸のうちを占めている深い充足のどこにも陰りはなく、魂の際限のない膨らみをはっきり自覚することができる。(p.64)

 人によって意見は異なるだろうが、個人的には読んでいてとても満足してるようには見えない。昂ぶる心をおさえてクールにふるまっている、ならまだ良いが、単に無愛想になってしまっている。
 個人的にこういう人は苦手なのだ。一人称なのだが、内面はあまり語られないので、断片的な記述から彼の置かれている状況を再構成するしかないのだが、その作業がどうも、目の前にむっつり黙り込んでいる人がいて、恐る恐るご機嫌うかがいをしているような気分になってくる。著者近影をみると実際に怖そうなのもいけない。自然描写などに時おり見せる詩情が読んでいる間の救いか。
 どの物語もカタストロフの予兆を孕みながら、決定的な変化が起こる直前に、読者の想像にゆだねる形で幕を下ろす。それによって娯楽小説になるところが文学作品として成立してしまっているのは、作者にとって幸福なのか不幸なのか。


ニック・カッター『スカウト52』(澁谷正子訳、ハヤカワ文庫)B
 あらかじめB級と思って読めば面白い、えらくスタンダードなホラー小説。無人島にキャンプに訪れたボーイスカウトの少年5名と引率の男1名というシンプルな『蠅の王』的状況の中に「怪物」が侵入することで、楽しい孤島のキャンプは恐怖の牢獄に一転する――というのも、パニック小説お得意のパターンである。
 怪物――というか、島に漂着したその男は、異様にやせ細り、異常なほどの食欲を示し、土や壁の板までむさぼり食う。彼は暴力衝動に駆られ暴れまわった末に死ぬが、その症状は引率の男から少年たちまであっという間に感染していく。疫病ものとゾンビもののいいとこどりというところである。ここで、怪物が見た目はあくまで人間であるため、ボーイスカウト精神に則りみんなで助けようとしたことで悲劇になる、というのは、皮肉が利いていてよいと思った。
 明かされる真相はそれほど重要ではない。
(以下ネタバレ)
 その正体は軍が作り出した生物兵器の実験体だったということなのだが、その生物兵器をつくった研究者はダイエット薬品のつもりで作っていたとか、男が島にたどり着いたと知ると、島のまわりを封鎖して島と少年たちを兵器の実験材料としたとか、その実験をろくな隠蔽工作もせずにやったせいで、のちに裁判で全部あばかれたらしいことが、途中にはさまれる断章からわかる。そこには知性的なところなど何もなく、じゃあなんで軍はこんなバカなのかと言えば、パニックホラーはだいたいそんなものだから、としか言えないだろう。彼らはお約束の行動をとり、舞台が整う。
 こういったことはおぜん立てに過ぎず、この異常な状況での少年たちの「覚醒」こそが本筋だろう。少年たちをいい子におさえつけていたリーダーがいなくなったことで、彼らは自分こそが主導権を握ろうと反乱を起こす。もちろんこのスタンダードなホラーのことだから、彼らは反乱を起こすと同時に生物兵器に感染し、無惨に斃れていく。システマティックにストーリーが進み、そこから逸脱するのが少年たちの持つ異常性である。支配願望や嗜虐癖、暴力衝動の解放――これには兵器の感染による精神の変容という後押しもあるのだが、どうも彼らがもともと持つ異常性が変に増幅されてしまうために、同情の余地がない気がしてしまう。それぞれ工夫はしているのだが、少々やりすぎの感があり、5人の少年があまり区別できなかった。
 とはいえ500ページ以上読んできた末のラストは、意外にしんみりしてしまう。生き残った少年がみんなを追想して「みんないい奴だった」と言うところにはほろりとさせられて、いやそんなにいい話ではなかった、と慌てて打ち消してしまった。本当に、B級ホラーと割り切って読めば良い作品である。ハヤカワ文庫は文学作品も娯楽作品も、装幀が均質に立派なのが良くないところではある。

【最近読んだ本】


宮本昌孝田中光二『漂流の美剣 失われし者タリオン1』(ハヤカワ文庫、1987年) B
 『剣豪将軍義輝』などで有名な宮本昌孝のデビュー長編。
 北欧の中世と神話の混交した世界観をベースに、大陸制服をもくろむ帝国と、それに抵抗する小国家群、そして国に縛られず自由を求めるバイキングたちが烈しい攻防を繰り広げる中、自身の使命を求めて戦う盲目聾唖の戦士タリオン――ということで、どうやってハンデを克服して戦うのか興味があったのだが、テレパシーのような能力で周りの様子がわかるので、常人より勘が鋭いし強い。手塚治虫の『どろろ』が身体欠損を利用して戦っていたのと似たようなものか。
 この主人公、性格も善良で勇気があって頼もしく、安定感がありすぎるくらいなのが逆に不満。1巻だけでもいくつもの事件が起こり、重要人物も何人も死ぬのだが、思い入れを持つに至る前だったのであまり感慨がない。10巻以上出て未完なのでどこまで読むか。


夏目イサク・嬉野君『熱帯デラシネ宝飾店1』(ウィングスコミックス、2017年) B
 ある村の大地主の次期当主である主人公の少女が、当主の大叔父の死の直後、分家の幼なじみの陰謀に落ち追われる身となる。少女は大叔父の遺言に従って国外へ脱出し、大陸の「燭銀街」なる街で、彼女に与えられた「遺産」である3人のボディガードに会う。彼らは「宝飾店」と名乗る便利屋だった。彼らは命令に従い彼女を護ることを誓い、少女は彼らとともに反撃を試みる。
 女の子一人に彼女を囲む3人の男という乙女ゲーム的構図、自分の安全も顧みず他人を助けようとするヒロイン、文句を言いながらも彼女を助けるボディガード、そして事件を経て強まっていく絆――とそれなりに面白いが、肝心のヒロインのキャラがいまいちつかめない。
 幼なじみ(妖狐×僕SSの御狐神に似ている)にはめられて一夜にして追われる身にされてしまったにもかかわらず、あまり動じず、恨む様子もなく冷静に対処する一方で、変に世間知らずなところもあり、しかし咄嗟の機転は利くというキャラで、いったいこのヒロインは男前なキャラということなのか、平然と行動しているように見えて実は内心深いところで傷ついているということなのか、1巻を読んだ限りではどちらともわからなかった。とりあえず2巻までは読みたい。国外に出たところから話が始まってしまったから日本に戻るのがだいぶ先になる可能性もあるが…
 

横溝正史『獄門島』(角川文庫) A
 これから横溝正史を読むという人には、是非これを一番最初に読むべきとお勧めしたい。
 このところこの『獄門島』に始まり『本陣殺人事件』『犬神家の一族』『悪魔の手毬唄』と立て続けに読んでみたが、いちばんおもしろかったのはこれだと思うのである。
 正直トリックは他作品に比べてあまり印象に残るものではない。死してなお生者を縛る老人の妄執、連続して殺される兄妹(姉妹)、あるテーマに沿った見立て殺人、戦後の混乱期だからこそ起こりえる事件といった要素は、のちに書かれた『犬神家の一族』の方が完成度が上であると思う。
 だが『獄門島』の場合、事件そのものより、ラストで事件が解決したときに金田一耕助が犯人に告げる一言――明かされるたった一つの小さな事実により、事件どころかこの島が積み上げてきた歴史が崩壊する。犯人が発狂し憤死する瞬間、読者もまたその絶望を共有する。それこそがこの作品の肝であると思う。
 この積み上げてきたものが音を立てて崩れ去る瞬間の絶望とカタルシスバタイユ的な蕩尽などと言ってしまいたくなる)、他の作品にもないか期待していたのだが、あくまで横溝の興味は動機や犯行の異常性、血縁のもたらす悲劇、さらにはそれのもたらす謎の合理的な解決といったところにあるらしく、300ページ近く読んできて最後に何もかもすべて台無し、というようなものが他になかったのは残念である。これは横溝が最初から周到に狙ったというよりは、偶然に生み出された結末とみるべきだろう。それゆえに横溝作品をいくつも読んでいれば予測のつくようなラストでもあり、だからこそこれを最初に読んでほしいと思うのである。

折原一『赤い森』(祥伝社文庫、2013年)の年表

赤い森 (祥伝社文庫)

赤い森 (祥伝社文庫)

 折原一『赤い森』は、もともと祥伝社文庫の『樹海伝説 騙しの森へ』(2002年)、『鬼頭家の惨劇 忌まわしき森へ』(2003年)と出版されたものを第1部・第2部として合本し、第3部に完結編として『赤い森 鬼頭家の秘密』を加えて『赤い森』(祥伝社、2010年)として刊行されたものである。
 森の奥深くにある山荘で起こったと言われる一家惨殺事件の噂を中心に事件が起こるが、折原一らしく事実関係がかなり錯綜しているので、まとめてみた。
 なお、姉妹編の黒い森は未読のため、読む機会があったら修正するかもしれない。
(以下ネタバレ)

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 戦時中のミッションスクールを舞台にしたミステリである皆川博子『倒立する塔の殺人』では、アンリ・バルビュスの『地獄』の話題が何度か出てくる。

乱歩は、アンリ・バルビュスの『地獄』に触発されて「屋根裏の散歩者」を書いたのではないだろうかと、わたしは思う。『地獄』は素人下宿の一室を借りた三十歳の男の独白である。引っ越してすぐ、彼は幻聴のような歌声を聴く。そうして、気づく。歌声は隣室から流れてくる。仕切り壁の上部の鏡板が一枚腐り、煉瓦の合わせ目がずれ漆喰が剥がれて、小さい隙間ができているのだ。男は隣室をのぞき見る。(p.62)

『地獄』は父の書棚にあったのだが、読もうとしたら、まだ早いと父に禁じられたのだった。(中略)
本を運んできた杏子に、「これ、わたし、父に禁じられたのよ」と『地獄』を示すと、
「それなら、きっと、面白いのね」杏子は微笑した。
「極度に虚無的な話ですよ」司書が言った。こちらに視線を向けずつぶやいたので、独り言かと思った。「<われわれのまわりには、どちらを向いても、ただ一つの言葉しかないと思う。それはわれわれの孤独をなぐさめるとともに、悦びの虚しさをあばく、あの廣大な言葉、すなわち無だ。>ラストの一節です」(p.208)

 他にもあちこちで本文が引用され、主人公の心情が考察される。ここまで言及されるということは、作者自身の経験が投影されているのかもしれない。皆川博子は1945年時点で15歳くらいで、実際に当時こういったことがあったことは考えられる。
 しかしそうするとどの訳を読んだのか。引用されているのは田辺貞之助訳の岩波文庫版なのだが、これは戦後の1954年の出版であり、戦時中の物語に出すのは矛盾する。
 バルビュスの『地獄』については、阿刀田高もエッセイ集『夜の風見鶏』(朝日文庫)で回想している。彼によると戦前によく読まれたのは、昭和初期に新潮社から出された『世界文学全集』の32巻『現代仏蘭西小説集』に収められた小牧近江訳であったという。同エッセイに一節が紹介されている。

女は起き上つていた。半裸体の彼女は真白に見えた……彼女は全く裸になるのだらうか、それとも男がさうするのだろうか……。………………………………。彼女の銀のやうな腹の辺は部屋の中での月とたとへ得やう………大きな黒い線が、その腹を擁している。それは男の腕だ。男は女を抱いている。ひきしめる。そして、長椅子の上に押しつけている。それから、男の口は彼女の………………………………………………。接吻しようと近づく、恐ろしい甘さだ。私は黒い体が青白い体の前に跪づくのを見る、そして、彼女は男の上にどんよりとした眼を垂れる。

 比較のために同じ箇所の田辺貞之助訳が示されている。

女は、いま、立っている。なかば服をぬぎ、白い姿を浮きださせている。女が自分から裸になるのだろうか、それとも男が裸にするのだろうか。ふっくらとした腿が見える。腹が、夜空の月のように、部屋のなかに銀色の光を放っている。大きな黒い筋が、その腹を横に切っている。男の腕だ。男は長椅子にうずくまって、女をかかえ、抱きしめる。その口は女の性の口のすぐそばにある。ふたりは人為を絶した快い接吻のために、身体を近づける。にぶ色の身体がほの白い身体のまえにひざまずいているのが見える。

 同じ部分を訳しているのに、一読してだいぶ雰囲気が違うのに驚く。田辺貞之助の訳は正確ではあるのだろうが、妙にきまじめで単調である。面白みがない。小牧近江の訳は、客観的な叙述の中にときおり主観が強い訳し方をしていて、それが緊張と弛緩のリズムを生み出しているように思える。田辺訳が「腹が、夜空の月のように、部屋のなかに銀色の光を放っている。」とするところを「彼女の銀のやうな腹の辺は部屋の中での月とたとへ得やう」としたり、「ふたりは人為を絶した快い接吻のために、身体を近づける」となっているところを「接吻しようと近づく、恐ろしい甘さだ」と訳すことで、語り手の興奮がときおり見えてくるのだ。また「……」の部分は伏字であるが、これがかえって想像をかきたてるのもあるのだろう。かくて阿刀田の時代の若者は、小牧近江訳を「血をたぎらせて」読んだというわけである。実際、当時の阿刀田の周りの友人はたいていその作品を知っていて、読んでもいるのだが、内容はよく覚えていないという。
 実際は阿刀田も弁明しているように、『地獄』自体はまじめな作品である。自分が読んだ記憶では、街に出る世間を地獄とみた主人公が、壁の穴から「世間の裏側」をのぞいてみると、その人間模様はやはり地獄であった――という、逃げ場のない絶望を描いた話だった。残念ながら現代の我々は、覗き見のめくるめく興奮を期待して岩波版に手を出し、きまじめな田辺訳に遭ってがっかりするという仕掛けである。皆川博子の小説でも、少女たちはあくまで真面目に「地獄」とは何かを考えている。

 では皆川博子阿刀田高と同じく小牧近江訳を読んだのだろうか。国会図書館および翻訳作品集成の検索によると、バルビュスの翻訳出版年表は以下のとおり。


 1921年 布施延雄訳 新潮社泰西文藝叢書2巻
 1923年 安島健訳(要約?) 世界思潮研究会
 1930年 小牧近江訳 新潮社世界文学全集32巻
 1946年 秋谷澄夫訳 新英社
 1950年 小牧近江訳 蒼樹社
 1952年 井上勇訳 創藝社
 1953年 小牧近江訳 新潮文庫
 同年 秋山晴夫訳 角川文庫
 1954年 田辺貞之助訳 岩波文庫
 1955年 小牧近江訳 世界公論社
 1961年 飯島耕一訳 東西五月社
 1968年 秋山晴夫訳 二見書房
 同年 秋谷澄夫訳 近代書房
 1970年 菅野昭正・宮原信訳 集英社世界文学全集デュエット版50巻
 
 (出版年不明確なものや同じ出版社からの重版と思われるものは除外)


 何度も出版し直されているようだが、ほとんどは戦後の出版である。先に述べたように、この内よく読まれたのは1930年の新潮社版世界文学全集(当時はほぼ唯一の世界文学全集だったという)だった。「この世界文学全集はほとんどすべての図書館に所蔵されていただろうし、古本屋にもあった。父親の本棚にもないではなかった。言ってみれば、これはシェイクスピアトルストイなどと同様に、青年たちがたやすく見ることができる本であった。」しかし『倒立する塔の殺人』では、図書室の場面で、

「これ、お願いします」
「アンリ・バルビュスの『地獄』? 暗い話よ。極度に虚無的な。まだ早くないかしら」
「早すぎる本って、ないと思います」(pp.283-284)

 と、単行本のような扱われ方をしているため、文学全集ではないと思われる。1923年の安島健訳はタイトルが『地獄物語』となっているし、世界パンフレット通信・名著梗概第2編となっているので、翻訳というよりは内容紹介のものであろう。となると1921年・布施延雄訳の新潮社泰西最新文藝叢書版が一番可能性が高いか。
 しかし阿刀田高の読んだ新潮社の世界文学全集版でも伏字だらけの本で、いくらそれが図書館に普通に置かれていたとはいえ、学校の図書室にまで置かれるかどうか。文学全集版は他の作家も収録された中での1篇であるし、単巻となると入れないのではないか。伏字だらけであることも作中で言及はないし、皆川博子の場合は戦後に岩波版で読んだというのが一番ありえるだろうか。作中の少女たちが、官能小説的なものとしてではなくあくまで真面目に『地獄』を読んでいるのも、田辺訳をもとにしているのなら納得できる。