DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

「セクシィ・ギャルの大研究」について

セクシィ・ギャルの大研究
上野千鶴子
光文社カッパ・サイエンス
昭和57年刊 定価690円


「だから、男は、女と結婚するのではない。ほかの男に対して結婚するのである。」(p.41)


本書は上野千鶴子の処女出版に当たる。
そして、本書の刊行は、当時出版界にとっても非常に大きな出来事だったらしい。
何しろ推薦が山口昌男栗本慎一郎である。
この2人は今ではあまり言及されることもないが(特に後者)、
前者は文化人類学者、後者は経済人類学者として、
ともにニューアカデミズム・ブームの中で思想界の中心的な存在であった。


この二人が手放しで絶賛しているのだが、
山口昌男は本書を「処女喪失作」と呼び、
栗本慎一郎は「処女でもないのに処女作をカッパから出す」と驚く、と言う具合に、
実に下らない事を申し合わせたかのように述べており(勿論本の紹介もちゃんとしているのだが)、
それどころか上野自身も散々本書を「処女喪失作」と呼んだ挙句、
「栗本さんは、私の処女を喪失させて、カッパというトリックスター集団に引き入れようと企んだようです。」と書いている。
今から見るとセンスを疑ってしまうが、ここには本書の出版に喜び浮かれる彼らの姿が現われている――ようにも見える。


上野千鶴子は著作云々よりもフェミニズムの代表的論客として有名であり、
本書もタイトル通り、当時の女性のファッションや性、政治や学問への意識に社会学的にアプローチし、男性のみならず女性にも攻撃を加えるもの――かというと、
実はそうではない。
むしろ本書はもっと広汎な、「しぐさの人間学」というべきテーマを扱っている。


「しぐさ」とは、人間が社会において、言葉とともにコミュにケーションの手段として用いるものである。
だがその意味するメッセージは社会によってことなり、「しぐさの文法」ともいうべきものを形成している。
人は自分の属する社会の中でその文法を学び、社会に対してメッセージを発する。
その究極的な目的は、社会における自分の役割をアピールすることにある。
つまり偉い人は偉く見える身振りを周囲に見せ付ける、というような。
それに基づき上野は、人間をホモ・パフォーマンス、あるいはホモ・エンギモノ(縁起物にかけている?)と呼んでいる。


といっても、ここまでは別段珍しい議論ではない。
しかし上野はそこでもう一歩踏み込む。
すなわち、人間の社会における最も大きな役割分担――男の役と女の役、という、上野の専門とする領域に言及するのである。
上野は、人間の他の動物と比較した場合の特殊性として、
発情期以外にも性交が可能であることを挙げる。
それゆえに、人間は年中オスとメスの役割をそれぞれ演じなければならない。
他の動物は概して発情期以外は性別の区別なく行動する(そうでない場合も本当はあるが)。


そしてこの男の役割と女の役割の内容というのは、
対称形を成すように見えてそうではない、というのが、本書の重要な主張である。
すなわち男は男(つまり同性)に対して「男らしく」振舞うことを要請されるが、
女は男(つまり異性)に対し「女らしく振舞う」ことを強制される。
「女らしさ」を象徴するしぐさは大抵以下に示すように男性への性的なメッセージとして解釈される。
それはその「しぐさの文法」を作り出してきたのが男だから、である。
つまり男性中心社会の結果としてそういった構造が出来上がったというわけだ。
そしてその前提を元に社会における「しぐさの文法」を読み解こう、というのが本書の目的なのである。


本書において上野が主に参照するのは二つの本である。
一つは社会学アービング・ゴフマンの「ジェンダー・アドバタイズメント」。
彼の「人間の自己が他人の前に示される演技である」、という主張は本書の軸でもあり、
実際本書はこの本の講読をきっかけに生まれたそうで、
これを日本に即して書き直したのが本書であるといえる。
もう一つが動物行動学者デズモンド・モリスの「裸のサル」(角川文庫)。
動物の行動の研究から人間の行動を分析して見せた、当時ベストセラーとなった名著である。
主にこの二つを柱に、文化人類学社会学記号論、動物行動学等、
広汎な学問の諸報告を参照しながら議論は進む。


ここで上野が注目するのは、主として広告の写真である。
それは広告というものが、社会の一歩先を行くものであると同時に、メッセージを伝えるために、
大衆の共有する了解事項を反映したものでなければならない、という性格を持っているからだ。
それゆえに広告を分析することにより、
その時代の社会の典型的な考えの基準が表現されているのを見ることができる、というわけである。
とはいえ恐らくその選択は恣意的なものにならざるを得ず、
科学的・実証的な研究になりうるかというと難しい気はするが。
そんなわけで本書には多数の図版が掲載されているのだが、
それをそのまま引用するのも問題があるかもしれないので、
ここでは適宜主にマンガ作品の表紙から読み取ってみたい。


まず上野が採りあげるのは、広告写真に男女が現われる場合のイメージである。
結論から言えば、
a)男の方が女よりも大きい。
b)位置的に男の方が女よりも上に来る。
c)男は女の肩や腰に手を回している場合が多い。
というもので、この内のどれかを満たしている可能性が高い、ということだ。


これらの内まずa)の男の方が大きい、
即ち「男は大きい、女は小さい」という法則は、
社会において、特に日本では、たとえば夫婦茶碗や夫婦箸というもので現われている。
こういった女性のもののほうが小さい、というのは機能的にむしろ不便でしかない場合もあり、
このことからこの法則を上野千鶴子は現実よりも神話に属するものと考える。
しかし厄介なのはこの「神話」が現実よりも現実的である点で、
もし現実と神話が食い違ったら、現実の方が捻じ曲げられてしまうのである。
例えば髪の長い人の後姿を見て女性だと思ったら実は男性だった、というような。
こういった社会背景が広告写真を通して見える、と上野は主張する。


そしてここで上野は、当然起こるであろう反論も採りあげる。
それは男が女より大きい、というのは、
人類学において統計的に証明されていること(女が男の体格の80パーセント)、という事実である。
こういった男女の差異があることを性的二型性というが、
さらに霊長類について調べると、
性的二型性の大きいゴリラ(つまりオスの方が大きい)は一夫多妻制であるのに対し、
性的二型性の小さいマントヒヒ(オス・メスほぼ同じ大きさ)は、一夫一婦制である。
これはゴリラのほうが性的ポテンシャルが高いため(一妻では満足できない)であると考えられ、
これを敷衍すれば人間も性的二型性がある以上むしろ一夫多妻制が合理的だ、ということになるのだが、
上野はそれを提示した上で「あくまで仮説なんだから」とたしなめている。


こういった性的二型性をファッションに適用すると、
ユニセックスのファッションが流行するのは、
女性の社会的地位が上昇した時代であり、逆に性的二型性の大きいファッションの流行る時代は男女の格差が激しい時代、ということになる。
女性がジーパンをはき始めた頃、
「私はジーンズをはいて初めて性的に主体的になれた」と述懐する女性が多かったというが、
それもその伝であろう。


b)の男の方が上に来る、というのは、
確かに見回せば様々なところに見出せる。
例えば、男が立てば女は座り、
男が座れば女は寝そべる、
男がソファに座り、女は床にじかに腰を下ろして男の膝に寄り添う。
多分容易に何らかのシーンを想起できると思うが、
例えば少女マンガのような少女が主体となる状況下では逆転することもありえる。


そしてc)は、自分のナワバリの主張なのだと上野は言う。
基本的に腕を組んでいる人は自分を防御するためのナワバリを主張する仕草である、といわれているが、
女性の肩や腰に手を回し抱くことで、
男はその女を自分のナワバリに入れたことになる。
そして女性はナワバリに入ることで宝石や毛皮を買ってもらい、
男の富・名声・権力を共に得ることができ、
男の方はそういったものを与え、その女性を回りに見せびらかすことで、自分のナワバリの威信(防御力)を高める。
冒頭の言葉を再び挙げれば、
「だから、男は、女と結婚するのではない。ほかの男に対して結婚するのである。」(p.39)


これは漫画の例で言えば、
小畑友紀僕等がいた」(小学館)の表紙がわかりやすいかもしれない。

僕等がいた 1 (フラワーコミックス)

僕等がいた 1 (フラワーコミックス)

僕等がいた 2 (フラワーコミックス)

僕等がいた 2 (フラワーコミックス)

[rakuten:ebest-dvd:10970019:detail]


あるいは森薫「エマ」エンターブレイン)。

エマ 9巻 (BEAM COMIX)

エマ 9巻 (BEAM COMIX)

ビームコミックス エマ 8巻(通常版)

ビームコミックス エマ 8巻(通常版)

ぺんたぶ・神葉理世腐女子彼女」(エンターブレイン)。
腐女子彼女。1 (B’s LOG Comics)

腐女子彼女。1 (B’s LOG Comics)

ナワバリを主張する男たち。


かたやま和華「お狐様のから騒ぎッ!」(エンターブレイン

お狐サマのから騒ぎッ! (B’s‐LOG文庫)

お狐サマのから騒ぎッ! (B’s‐LOG文庫)

これなどはあからさまである。


逆に中原アヤラブ★コン」(集英社)はそういった通念を逆手にとっていると言える。

ラブ★コン (3) (マーガレットコミックス (3563))

ラブ★コン (3) (マーガレットコミックス (3563))

ラブ★コン (4) (マーガレットコミックス (3604))

ラブ★コン (4) (マーガレットコミックス (3604))


そうすると、志村貴子放浪息子」(エンターブレイン)はどうなるのかな……

放浪息子(6) (BEAM COMIX)

放浪息子(6) (BEAM COMIX)

放浪息子(5) (BEAM COMIX)

放浪息子(5) (BEAM COMIX)

これは確かロミオとジュリエットを意識しているわけだが。


またBLにおいても、
「攻」のキャラが位置的に「受」のキャラよりも上に来る、という構図は見られる。

これは相手のナワバリに入るのを拒否している、という非常にわかりやすい構図である。
結局最終的には受け入れてしまうわけだが。


但し、必ずしも「攻」が上とは限らない。

純情ロマンチカ (7) (あすかコミックCLーDX)

純情ロマンチカ (7) (あすかコミックCLーDX)



以上は(主に)男と女が共に存在している場合だが、
では「女性のみ」で見るとどうか。
先に述べたように、人間は動物の中でも特異的に「常に発情期」のような状態にある。
だから、女性は常に性的メッセージを社会へ発信している、と上野は述べる。
その最たるものが発情した女性器を見せることであり、
それでなければ服を着ていなければ性器の見えるポーズをとること、である。
それがファッション写真の女性が脚を広げたりあぐらをかいたりするような、普通ならはしたないとされるようなポーズである。


そこまでストレートでないものとしては、
唇や乳房を強調する、というものがある。
これは動物行動学における、唇は女性器、乳房(もしくは膝小僧を並べたもの)は尻のメタファーであり、
それゆえにセックスアピールになりうる、という議論に基づいている。
ちなみに男性の場合鼻(特に高く、脂ぎったもの)やネクタイがその象徴になりうる、
と上野はいう。


これらは「かたち」に注目しているが、
勿論ただ唇があるだけでは性的メッセージにはなりえない。
それがメッセージたりうるためには、何らかのしぐさが必要である。
例えばリップスティックを唇に近づける女性の写真だとか、
唇から舌をのぞかせている写真などで、
舌やリップスティックを男性器のメタファーととれば、容易に性的なメッセージを読み取れる。
先に挙げたストレートなものとしては、
四つんばい(ないしはそれに近い体勢)で尻を見せる、
あるいは後ろ向きの女性が体をねじって顔だけ振り向く(見返り美人のような)、
といったポーズが性器を見せるポーズである。


袴田めら「最後の制服」(芳文社

最後の制服 1 (1)

最後の制服 1 (1)

の表紙も、この伝でいくと明確な性的メッセージを発していることになる。
しかしそれを言うなら、
先に挙げた「放浪息子6」も高槻よしのは背を向けて顔だけこちらを見ている。
放浪息子(6) (BEAM COMIX)

放浪息子(6) (BEAM COMIX)

これも性的メッセージと言うわけだろうか。


こういった性的メッセージが広告において頻繁に見られる(と上野が主張する)のは、
興味を持たせるための手段として、
性欲が食欲や睡眠欲などと違い、基本的にいつでも刺激可能なものであるからに他ならない。
そのお手軽さから、必然として広告写真には性的メッセージが氾濫することとなる。
しかしそれらの性的メッセージは本来、男にのみ向けられるもののはずである。
それが男女両方へアピールする商品からはっきりと女性向けの商品にまで適用できるのは何故なのか。


それは、広告の作り手が無意識的に男のみを想定しているから、ということもあるが、
同時に女性が男性の目を内面化して同性を判断しているからである、と上野は言う。
女性が女性に対し「セクシーね」というのは、
つまり「男の目から見るときっとセクシーに違いない」という意味なのである。
そして女性は広告で「セクシーな」女性を見るたびに、
「男たちの欲望の対象になる(ほどの価値のある)女」を見出し、
ナルシズムに酔うのだ――と、上野はやや強引に、男性優位社会の構図をここにも見出す。
最初のほうで言った、性の役割の非対称性にもそれはつながるだろう。


また、チンパンジーなどで見られる服従の姿勢――頭を下げ、身をかがめ、自分を小さく見せる――が、
地位の上下ではなく男女の間で見られる、という事実にも上野は注目する。
この服従のメッセージが、いつでもあなたのモノになります、という性的メッセージになってしまうからである。
広告によく見られる女性のかがむ、ソファなどに寝そべる、或いは上目遣いに見上げる、という仕草は、
どれも皆その変形に他ならない。
彼女らは服従の姿勢を示すことにより、性的なメッセージを送り、
男性のみならず女性の注意を引いているのである。


こういった服従のポーズの変形は他にも沢山あり、
体を縦、横、斜めに傾ける(体が小さく見える)、
というものから、小首を傾げる、さらには膝を曲げるだけでも代用になる、という。


例えば、滝本竜彦大岩ケンヂNHKにようこそ!」(角川書店)。

NHKにようこそ! (4) (カドカワコミックスAエース)

NHKにようこそ! (4) (カドカワコミックスAエース)

小首を傾げている。
岡本倫エルフェンリート」(集英社)。
エルフェンリート 3 (ヤングジャンプコミックス)

エルフェンリート 3 (ヤングジャンプコミックス)

これを膝を曲げている服従の姿勢とするのはなんとなく無理がある気もするが、
収録された図版から判断するにこれでも十分性的メッセージになるようだ。
そうすると最近出た
ユリイカ12月号臨時増刊号 特集・BLスタディーズ」(青土社は、お互いに服従のメッセージを送りあっている構図、ということになる。


さすがにここまで来るとこじつけの感があるが、
では何故そうまでして服従のメッセージを発しなければならないのかといえば、
それは生き物にとって他者とは害を為す存在に他ならないからである、というのは本書のみならずよく聞く話だ。
だから人間に限らず、基本的にどんな生物も、それぞれの適切な個体距離というものがあり、
それより内側に他者が入るのを全力で避けようとするが、
性行為はその原則を破らなければならない行為であり、それゆえに他者を近づける気持ちと遠ざける気持ちが共に存在する、アンビヴァレントな状態となる。
服従の意志表示は、そのために個体距離を解除する仕組みの一つなのである。


それ以外の服従のサインとしては「笑うこと」が挙げられる。
再びデズモンド・モリスによると、
元々笑うことは犬歯を見せることであり、威嚇の一種であった。
それをお互いに行うことにより、無用の攻撃を避けようという挨拶のメッセージとなった。
それが変化して、サルの間では、戦いを避ける、
即ち服従のメッセージを示すための行動となった。
人間が笑うのもそれゆえに威嚇と服従の両方の意味を持ちうる。
基本的に人間が笑うのは未知の状況に直面したときであり、
その時人はそれによる異化作用を中和するために笑うのである。
逆に緊迫した場面を異化して和ませるために笑うこともある。
よく若い子は笑ってばかりだ、という話があるが、これは未知の状況に怯え続けているだけのことなのだ。


さて、かくして女性が笑うことは性的なメッセージになるわけだが、
そこでは男性と違い、歯を見せずに笑うことが奥ゆかしいとされる。
それは先の笑うことの威嚇性が関係している、と上野は言う。
男性には原初的な恐怖として「デンタル・ヴァギナ(歯のついた女性器)」のイメージがあり、
それを嫌うがゆえに女性にも歯を見せないことを望むのだという。
歯を見せないことが、笑顔から威嚇の意味を取り去るのである。
それでいくと江戸時代日本女性に流行った鉄漿(おはぐろ)は歯の存在を隠蔽するためのものであった、ということになる。
先ほどの「エマ」でも男性が歯を見せて笑っているのに対し、
女性は歯を見せずに笑っている。

エマ 9巻 (BEAM COMIX)

エマ 9巻 (BEAM COMIX)

ビームコミックス エマ 8巻(通常版)

ビームコミックス エマ 8巻(通常版)


こういった服従のサインは基本的に男女共通だが、
男女で意味の異なる仕草も存在する。
それは、手足を交差させる、というものである。
この姿勢は普通右のものは右手で取る、左のものは左手で取る、というのが合理的である以上、
機能的には意味のないポーズであるが、
しぐさの文法では、これは周りに対する防御の姿勢として解釈される。手足をナワバリを作って囲い込み、
周りの脅威から必死になって自分の身を守る――女性の場合、それは男たちに弱々しさ、
女らしさを感じさせる。
これは男女共通だが、女性が胸の前で手を組んだ場合、新たに胸を隠す、という機能が加わる。
それが性的なアピールとなるわけである。


対して男性の場合、腕組みの持つ意味は防御と共に攻撃の意味も持つ。
女性の肩や腰に手を回している場合と同様に、ナワバリの意味を持つからだ。


それだけでなく、男女共通のものとして、照れて頭をかく、顔を隠す、手を顎にあてる、
あるいは手でなくてもペンを口にあてる、
トランプや新聞、グラス越しにこちらを見る、
サングラスや眼鏡、帽子を身に着ける、髪を前にたらす、
等々、どれも自分と周りの間に遮蔽物をおいて自己を守ろうとする行動であるといえる。
またこれは防御であると同時に、
自分のほうから相手や世界を遠ざける攻撃的な意味をも持つ、と上野は言う。
これは自分を安全な場所に置いて状況に部分的に参加する、「安全な参加」の意志を現しているといえる。


これと似ているのがセルフタッチというもので、
話している最中に自分の服、髪の毛など体の各部、持ち物などをいじる、手を組む、もみ手をする、ポケットに手を突っ込む、というのがその例である。
これは他人とコミュニケーションをとっているように見えて、
実は自分のとのナルシスティックなコミュニケーションに耽溺しているのである。
「女がタッチする女のからだ自体が、いかに繊細で高貴で、傷つきやすいものであるかを、自分で確認しているしぐさなのだ。」(p.171)
これも逃避であると同時に攻撃でもある。
すなわち、
「ほら、ここに、こんなはかなくも貴重なものがあるのに、なぜあなたは手を出さないの?」(同)
というメッセージにもなりうるのである――と上野は言う。
反対に男の場合は自分のたくましさ、頑丈さを確認するためにセルフタッチを行うらしい。
この行動は自閉的であるがためにその人間の孤独感の強調にもなるが、
同時にそれはマスターベーションに近く、それゆえに性的メッセージになりうる。


と、すれば、
谷川流「<涼宮ハルヒ>シリーズ」(角川書店)は、セルフタッチの宝庫である。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)

髪に手をやる二人。
涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫)

遮蔽物である眼鏡を取ると同時に、腕を組んで防衛体勢を示している。
涼宮ハルヒの溜息 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの溜息 (角川スニーカー文庫)

ついでに言えば程度の差はあれ誰もが膝が曲がっている。
さて、これらは周りからの自己の防衛なのか、性的メッセージなのか。


とはいえ、こういった男女の差異は徐々に崩壊しつつある、と、上野は言う。
ファッションはユニセックスのものが普通になり、
広告写真を見ても、男女の位置関係が逆転した構図のものも多い。
先ほど挙げた「ラブ★コン」がその例である。

ラブ★コン (3) (マーガレットコミックス (3563))

ラブ★コン (3) (マーガレットコミックス (3563))

ラブ★コン (4) (マーガレットコミックス (3604))

ラブ★コン (4) (マーガレットコミックス (3604))


また他の例を挙げれば、かつて胸を張ったり、肩パッドなどまで使って肩を強調するのは男らしさの象徴のようなものであったが(軍隊の肩章もその一つらしい)、
本書刊行当時は女性の間でも肩パッドが流行しており、
先に挙げた漫画でも、別の巻では女性が胸を張ったり肩を強調して描かれている場合もある。

NHKにようこそ! (2) (角川コミックス・エース)

NHKにようこそ! (2) (角川コミックス・エース)

NHKにようこそ! (1) (角川コミックス・エース)

NHKにようこそ! (1) (角川コミックス・エース)

NHKにようこそ! 8 (角川コミックス・エース 98-12)

NHKにようこそ! 8 (角川コミックス・エース 98-12)

特に1巻と8巻では、肩の強調が強くなったことの現れ、ということになるだろうか。


だがこれは社会のユニセックス化のように見えて実は違うのだ、と上野は主張する。
ユニセックス化ということは、男が女に近づくか、女が男に近づくか、どちらかである。
上野によれば、そのどちらでもない。
女性に起こった変化は、女性が強くなった、ということである。
例えば媚びるために笑う女性の代わりに、睨みつける女性の写真が広告写真に増えた。
だがこれは男勝りになった――すなわち頭や体が男以上になろうとしているのではなく、
今まで女性性を隠して男性社会の中で地位を得てきた状況から、
女性が今まで以上に性に積極的になる、という事態を表している。
(つまりこの辺りから上野の本論に入っていくわけだ)
それは睨む、という行為も一つの性的なメッセージだからである。
なぜなら大抵睨む女性は上目遣いであり、しかも姿勢は防衛体勢になっていることが多い。
つまり、これは対等のものへの攻撃ではなく、劣位のものから優位のものへの負けの決まった卑屈な挑戦なのである。
ゆえにここからは「私は男を自分からいつでも受け入れる」というメッセージを読み取れる。
かくして女性が性に積極的になった結果、今まで以上に男にとって女が手に入りやすい存在となる。
今まで一方的に捨てられる立場だった男が、
逆に男の方から断ることができるようになる。
これは断られるのになれている男はともかく、
断られるのに慣れていない女性には厳しい時代になる。
だから女性が性に積極的になると非常に女性にとって厳しい時代になる――と上野は警告する。
ここまでくるとどう見ても完全に上野の独断の場である。


(ちなみにこの「睨む女性」の例としては、
たまきちひろ「ウォーキン・バタフライ」宙出版

Walkin' butterfly (1) (Ease comics)

Walkin' butterfly (1) (Ease comics)

同「愛羅武勇と言ってくれ!」
愛羅武勇と言ってくれ! (Miu comics DX)

愛羅武勇と言ってくれ! (Miu comics DX)

が挙げられるだろうか。
ここで後者は上目遣いでなく一見媚びていないようだが、
上野に言わせれば唇(女性器のメタファー)の強調、
腕を組む(ナワバリを作り、胸を隠すことにより強調)という点で、やはり性的メッセージを発していることになる。
また先に挙げた「NHKにようこそ!」は、
NHKにようこそ! (1) (角川コミックス・エース)

NHKにようこそ! (1) (角川コミックス・エース)

NHKにようこそ! 8 (角川コミックス・エース 98-12)

NHKにようこそ! 8 (角川コミックス・エース 98-12)

目線が1巻と8巻で上目遣いから相手と同じ高さに近くなっているという点で、
強くなったことを表しているのかもしれない。)


これは男にとって願ってもない話のように思える(そうか?)が、
このことは同時に一夫一婦制の崩壊した、性の自由競争の時代の到来をも意味する、という点で、
男にとっても厳しい状況にもなる。
そこでは性的魅力がなく女に捨てられる落ちこぼれに対する救済の手段はない。
(一夫一婦制はその意味では、すべての男に女を分配する都合のいい制度だったのだと上野は言う)
そして敗北者の鬱屈が攻撃衝動を生み出す。
結果、性の自由化が進んだ社会でも性犯罪がなくなることはありえない、と言える。
ゆえにその状況が進みつつある現代(少なくとも本書刊行当時)の都市型の性犯罪は、
特定の女性ではなく自分を相手にしない女性一般への恨みに基づいている。
ターゲットは実は誰でもよいのである。
性の自由化が性犯罪をなくす、などというのは現実を見ない楽観論に過ぎないのだ。


しかしどのような手段にせよ、結果として女性はますます社会に進出することとなる。
男と女の権力構図が逆転し、それが広告写真にも現われるようになる。
では男はどうなるのか。
こちらはますます軟弱あるいは横着になる、というのが上野の推測である。
何しろ女性が性的に積極的になり、自分から働きに出てくれるのだから、
男にとってこれほど楽な状況はない。
(先ほど言った落ちこぼれはどうなるのかという話もあるが、
これは多分上野に言わせれば犯罪者になるのだろう。)


つまり、女が強くなり男が弱くなる。
するとどうなるか。
当然女は夫に失望し、愛を子供に向ける。
そして溺愛されて育った息子は将来軟弱な夫になる――と、ここに悪循環が生まれる。


そして上野は男たちにこのままでいいのか、
この現状を認識して何か行動に出なさい、とけしかける。
このままでは女社会が到来することになるが、
女社会とは愛で支配する母性型社会だからだ。
対して父性型社会は力により支配する。
ゆえに葛藤を内に秘め、面従腹背、すなわち心と行動が異なる、ということもありうる。
母性型社会は面従腹背は許されない、殆ど内面の支配である。そしてその中では軟弱な人間しか生まれない。
のみならず、父性型社会は力で対抗できるが、愛に対抗するのはほぼ不可能である。
もはや反抗や葛藤はその存在すら許されない。
日本は今までも母性型社会だったが、
女社会が到来してそれが強化されるのはごめんだ、と上野は言う。


というわけで、ここらで男が「母としての女」への依存を断ち切り、
強くなる女に負けないくらいに男も強くなることが必要である、ということになる。
そうしなければ男女平等の社会など到底実現できないし、
この社会そのものも危うくなるだろう、と上野は結論付けるのである。


************


以上が上野千鶴子「セクシィ・ギャルの大研究」のあらましである。
言っていることは確かに面白いし、これを元に世の中を眺めてみると興味深い分析もできるが、こじつけめいたものや偏見を感じるところも多く、
実際に適用してみるとあてはまらない例も多々ある。
また、広告写真の傾向も、統計的に証明しているわけではないようなので、
多分に自分の論旨に合わせた恣意的な選択である可能性が高く、
お世辞にも信用できるとは言いがたい。
その辺りはやはり広告写真に現代人の欲望へのサブリミナルな作用を見出す、
ウィルソン・ブライアン・キイの「メディア・セックス」(植島啓司訳、リブロポート)に似ている。
どちらにせよスリリングだが眉唾なのだ。
実際、本書の続編に当たるとされる「スカートの下の劇場」(河出文庫)は、
小谷野敦「評論家入門」(平凡社新書)において、
トンデモ本として挙げられている。

スカートの下の劇場 (河出文庫)

スカートの下の劇場 (河出文庫)


ただ、強くなる女性、軟弱になる男性、という構図などは、
現在でも積極的に議論される問題であり、
そういう意味で「処女喪失作」たる本書にも上野自身の思想の萌芽が見出せる。
つまるところ本書は、広告写真に上野が自分自身を読み込んだ本であるということができるだろう。