宇津田晴『俺の立ち位置はココじゃない!』B、梨屋アリエ『スリースターズ』B
【最近読んだ本】
宇津田晴『俺の立ち位置はココじゃない!』(ガガガ文庫、2017年)B
男らしくなりたいのに「姫」と呼ばれている少年と、女らしくなりたいのに「王子様」と呼ばれている少女が出会い、「理想の自分」を目指して協力して奮闘するコメディ。
文章力の賜物というべきか、どれだけ努力しても姫と王子様扱いされて空回る前半のドタバタが良く書けていて、後半でいくつかの事件を経てそれぞれが男らしく/女らしく活躍しても、率直に言って「似合わない」と思ってしまった。この辺作者がマジメに1巻で一段落させようとしたために、よく言えば正統派、悪く言えば無難にまとまってしまったように思える。どうやら2巻で終わってしまうらしいが、かなり手堅い(新人かと思ったら少女向けラノベで既に実績のある人だった)ので、前半のノリをそのままで不憫キャラとして投げっぱなしで終われば、もっと続いたのではないか。
梨屋アリエ『スリースターズ』(講談社文庫、2012年、単行本2007年)B
裕福ながら両親の愛に飢え、葬式に紛れ込んで得た死体写真の投稿ブログを主宰する弥生。
貧乏で親の愛が得られずに運命の愛を求め、恋人をつくっては別れを繰り返す愛弓(あゆみ)。
非の打ちどころのない優等生として生き、親や教師の期待やクラスメイトの妬みに押しつぶされそうな水晶(きらら)。
境遇の全く異なる3人の中学生がネットを通じて出会い、最初は集団自殺しようとするが失敗し、「スリースターズ」というグループを結成して社会を破壊するための自爆テロを企てる。
あらすじをまとめるとそういう風になってしまうが、爆弾が登場するのは最後の方だし、おそらくティーンズ向けの小説なのでもちろんテロが実行されるわけではない。物語の3分の2以上は3人が出会う前の、それぞれが居場所を失うまでに充てられる。これがすごく上手くて、周囲のひとりひとりが軽い気持ちで心無い言動をした結果、もはや修復不可能なくらいに3人を孤立へと追い込んでいく様は、見ていて胸が痛い。そして彼女らの直面した問題に対して、必ずしも十分な答えは出ない。ただ、もといた社会から逃げ出して、自爆テロのために予期せぬ迷走を繰り広げた末、愛弓は新たな愛を見出し、水晶は価値観の違う人たちに出会って自分の全く知らない世界があることを知り、再び歩みだす勇気を得る。物語は彼女たちが弥生もまた立ち直らせようと決意するところで唐突に終わる。未来は決して明るくはないが、どこか希望を感じさせるラストである。
しかし改めて考えると、実際のところ3人の未来はどんなものなのだろうと思ってしまう。3人を追い詰めていった社会は、これから対決することが困難に思えるくらいに強大で残酷に描かれる。弥生については解決を見ず、親の愛を得られず死体写真に自分の生を見出す心の空虚が埋められるかどうかはわからない。愛弓の母親は親としての役目を放棄して姿を消し、その友人は恋人を取られたと勘違いしてクラスに悪い噂をばらまいている。水晶を縛ろうとする母親は反抗する娘を屈服させるために包丁まで持ち出すし、彼女の成績に嫉妬するクラスメイトは被害者意識すら持ってクラスを煽動して孤立させる。そんな人たちに、いったいどうやって抵抗できるのだろうか。もしかしたら彼女たちは、一時間後には再び社会への絶望に囚われているかもしれない。ネット上の感想をみても、未来を読者の想像にゆだねるラストは賛否両論のようだ。解説の雨宮処凛は、作品を絶賛し共感を示したあとで3人の未来について述べる。
少女たちは、きっとすぐに忘れてしまうだろう。
スリースターズのことも、それぞれのことも、お風呂に薔薇の花を浮かべた夜も、さよならパーティーも、自爆テロ計画を立てた短い日々も。
きっと一年も経てば、この日々のことは幼い頃の記憶よりもあやふやで白昼夢のような手触りになっているだろう。そして三人はもう連絡なんかとっていなくて、お互いの顔も思い出せないのではないだろうか。
少女の一年とは、そういうものだ。
そして、おそらくそれぞれが恋におちて、失恋をして、傷ついて、そんなことを繰り返して、気がついたら三人は彼女たちが「つまらない」と思っていたような大人になっているだろう。(p.484)
ここに示されているのはおそらく「良い未来」ではないだろう。けれどそうすることでしか、三人は生き残ることはできないというのが雨宮の結論だ。雨宮処凛の自伝的要素を含むとされる小説『ともだち刑』(2005年)の主人公は、中学時代のイジメをうまく切り抜けられなかったことで、美大を目指す予備校に通う現在も、心の傷を抱えてうまく社会と折り合えないでいる。その雨宮ならではの、批判的な結論といえる。
たとえ過去が真っ暗で、ひょっとしたら未来も暗いものかもしれないが、いまこの現在は輝いてそこにあり、それはきっと心の支えになるであろう――という形式の物語は、テンプレートとしてよくある。それは物語としてみた場合美しいのだが、必ずしも現実に対して有効な答えを与えてはくれない。答えを出す困難さは、多くの物語が挑んでは壁に阻まれてきたように見えることからも察せられる(たとえば同じように社会から外れてしまった少女と少年が犯罪を通じて出会う作品として、松岡圭祐の『マジシャン』(2002年)とその続編『イリュージョン』(2003年)があるが、これも完結編として予告されている『フィナーレ』はいまだに刊行されていない)。本作でも、500ページ近く読んで、答えは得られない。そういうことが主眼の物語ではなかったかもしれないが……雨宮の解説に見るように、すでに答えはほぼ決まっているのに、それを明言することをややはぐらかされた気分になったのは事実である。