DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

デーモン小暮閣下『夜中の学校 悪魔の人間学』について

http://books.yahoo.co.jp/book_detail/18820916

『悪魔の人間学』デーモン小暮 マドラ出版 1993年刊


「吾輩が、今回この講義を担当することになったデーモン小暮である。これから四回にわたって、どんなことについて話そうかなと、いろいろ考えた結果、この番組で人類以外のものが講義をするというのは吾輩が初めてらしいので、人類には想像し難い観点から、この社会、この世の中を分析していこうと思う。」


――という宣言とともに始まるデーモン小暮閣下の講義は、
しかし予想(と期待)に反して意外に常識的である。


本書は、テレビ東京の深夜番組・「夜中の学校」シリーズの一つとして行なわれた講義の記録である。
毎週金曜日、深夜0時40分から30分間、30人の生徒を前に4回にわたって講義する、という番組だ。
講師はデーモン小暮閣下のほかにも、
糸井重里淀川長治橋本治野田秀樹杉浦日向子荒俣宏、秋本康、川崎徹、中沢新一景山民夫養老孟司天野祐吉といったそうそうたる顔ぶれが揃っている。
ただ、「一回30分で4回」という制約があるせいで、
どれも、内容は濃いものの一部しか見せてもらえていないような、物足りない印象を受ける。
閣下自身も、第一回分に4枚のレジュメを作ってきて一枚目の四分の一しか話せなかったといっていたし。


本書のメッセージは非常にシンプルなものである。
すなわち、この世に絶対的なものなど存在しない。
たとえば絶対的な正義や悪などないし、
絶対的な価値基準もない。
一人一人が違う背景を持っているが、
誰が正しいなどとはいえないし、
勿論間違っているともいえない。
そのことを理解して生きろ、と、
そういうことである。


第一講は、聖飢魔Ⅱが文化交流としてスペインでライブをやった時の話。
スペインでのライブにあたって、当然彼らとしては自分たちがウケているのかいないのか知りたいわけだが、
そのためには盛り上がった状態がどのようなものか知らなければならない。
日本人は座席から立ち上がって腕を振り上げて、みたいな感じになるわけだが、
ではスペインではどうなのか。


で、なぜか閣下はスペインではなくロンドンでの例を挙げる。
ロンドンでは客がノッてくると、客がステージまで上がってきて、
客席に飛び降りる、という行動をとる。これを「ダイビング」という。
いきなり客がステージに上がってくるのだから、
日本的な感覚としては戸惑うところだが、
向こうではそれが普通なのだ。


そこから、異文化交流の際は、自分の価値観を一方的に相手に押し付けるのではなく、相手の行動様式、価値観、歴史的背景、慣習、そういうものを踏まえたうえで、
お互いのよいものをどのように力をあわせて創っていくか、が、
国際感覚というものなのだ、という結論を導き出す。


第二講は芸能界とロック界の話。
「吾輩の論理の秘密その一」(二はなかったが)として、
全体を通してのメッセージである価値観は相対的なものである、という思想を明かした上で、
芸能界とロック界もまた互いの世界の価値観が違うがゆえにすれ違いが起こる、という話。
ここでの芸能界とは、週刊誌やワイドショーが追いかける、「ザ・芸能界」のことを指す。
ザ・芸能界に属している演歌歌手、歌謡曲歌手、アイドル歌手というのは、
ザ・芸能界に記事にされることで宣伝してもらっているが、
別にロック歌手はそんなことはしてもらわなくてもかまわない(らしい)。
それなのにどうでもいいことで追いかけ回され、
そのくせ聖飢魔Ⅱが海外ライブをやっても全然宣伝しない。


これは有名税というやつで、
とにかくTVで紹介されると売れるには違いないのだが、
同時に有名人なりの苦労をして、自分たちの主義主張を曲げなければならないことにもなる。
ザ・芸能界はそれで売れるんだから仕方ないが、
ロック界としてはそんなものはいらない(らしい)から全然TVに出ない者もいるし、
そういうロック界の考えがわかってもらえない現状を憂えて、
敢えてTVに出て思想を語るものもいる、ということになる。
ロックとは閣下にとっては(多分他の多くのロック歌手にとっても)、歌である以上に生き方そのものなのである。
正直我々にはよくわからないが。


第三講では、アメリカで十万四歳から十万七歳の間ニューヨークで生活していた経験から、
文化が相対的なものに過ぎないことを述べる。
文化が相対的である以上、異文化に属するもの同士は話が合わないことも多いわけだが、
それは例えば日本と外国の違い、というだけではなく、
閣下が古典芸能の第一人者などと話していても感じることだという。
つまり人はそれぞれ生い立ちが違っていて、育ち方も何もかも全然違うのだから、
同じ言葉を使っていても全然違う時がありうる、という話。


そしてそのために現在孤立しているような状態にあるのが日本舞踊や歌舞伎で、
もっとナマのままの伝統芸能を知ってもらいたいのだが、
しかし一方でそういった問題意識を持っている人は非常に少ない。
それは例えば「家」の制度があるせいで、一定のレベルに達するとそれで満足してしまうシステムができているからである。
あまり伝統や歴史に縛られず、
システムを変える勇気が必要である、というのが、
この講のまとめである。


第四講は、今までの講義で示した実体験に即した相対主義的視点から、世界に目を向ける。
この講義が行われたのは1992年1月。
前年の91年には湾岸戦争ソビエト崩壊など大きな出来事が起こり、
その中で世の中の歪みが露呈された時期である――というのは、閣下ならずともよく言われることだ。
そしてその中でのアメリカの偽善性を語るのもよくあるやりかたであり、
閣下もその例に洩れない。
ついでに言えばそこではやはりアメリカが「悪」のように語られていて、
さっき正しいものなどない、と言ったばかりじゃないか、と突っ込んでみたくなったりもするのだが、
面白いのは、その「悪」を「善」に見せていたシステムとして、
「愛」を挙げていたことである。


確かに90年代初頭は「愛は勝つ」なんて歌を含めて、やたらに「愛」が喧伝されていた時代だった。
(まあ今でも「愛が地球を救う」なんて言葉が残っているくらいなので、あまり変わらないかもしれないが)
だが闇雲に「愛」を叫んでみても、
現実を知らなければどうにもならない。
一時的に貧しい人たちに手を差し伸べてみても意味がない。
もっと意味のあることをしなければ。


そして閣下は、本当の愛とは何か、を最後に提示する。
環境問題が世界の大きな問題の殆どに対する根本的な原因である、と述べた上で、
その環境問題を解決するための策は二つ。


①今後数年間のうちに20億人以上の人が死ぬこと。
②人間の生活を江戸時代のレベルにまで落とすこと。


前者に対しては、本当に愛で地球を救う気があるのならお前が率先して死ね、ということになるし、
後者に対しては、不要なものにつかっているエネルギーを貧しい人々と分かち合うだけの気持ちがあるなら、当分は大丈夫だろう、ということになる。
閣下によればこの二つの内のどちらかを選ばなければ未来はないのだから、
遊びでない真実の愛を今こそ見せてみろ、ということで、講義は終わる。


まあやはり自分に身近な事に関しては鋭い分析をしても、
話題が実生活を離れると少々話が飛躍してしまう、というのはありがちなことで、
残念ながら閣下もその例にもれない。
またその頃のエコロジー思想の影響も見えてしまうし、
結局のところ全体にありきたりな意見になってしまっているのだが、
デーモン小暮閣下がこういうことを語る機会というのは滅多にないし、
この思想が当時の社会思潮をかなり的確に、先端で捉えていたのは間違いないだろう。
今では主に相撲評論家として活躍している彼の知識人、常識人としての一面を垣間見ることができ、
なおかつ芸人としての彼の話術を堪能できる一冊であるといえる。
はまぞうの検索にもひっかからないけど。


ちなみにこの本では著者(講演者)は「デーモン小暮閣下」と書かれており、
しかしプロフィールでは特に敬語を使っていないようだったので、
当ブログもそれにならった。