DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

ざら「ふおんコネクト!」を3巻まで読んだ。
予想通り自分には苦手な作品だった。
簡単に内容をまとめれば、複雑な家庭環境の三姉妹と彼女らに何かと関わってくる少女・ふおんを中心に描かれるスラップスティック・コメディということになるのだろうか。自分の周りでは萌四コマの名作と言われている。
一言で言えば、サイバーパンクであった。
この作品世界の倫理――やって良いことは何なのか――は基本的に、各キャラの能力とハイテク機器の双方を駆使して実行可能な行動と、範囲がほぼ一致している。つまり彼女らは可能なら何でもやるし、できないことはしない。
それはほぼ、サイバーパンクSFの多くを貫く倫理そのものである。巽孝之はかつて、サイバーパンクが、高度にテクノロジーの発達した未来を描きながら、従来の科学文明批判のイデオロギーから脱して、テクノロジーを文化や風俗として描いている点を評価していたが、その世界での倫理もやはり、科学技術的で可能であることは何でもやる、ということだった。たとえばブルース・スターリングの「スキズマトリックス」においては、人間は身体のダメになった部分をほぼ全て、機械に置き換えることが可能である。だから、主人公は怪我をしたら傷口に人工皮膚を貼り付け、安物だからそれは肌色ではなく赤色だったり青色だったりするのだけれど、まあいいか、と、まったく頓着しない。そこには現代の人間が感じるような、自分固有の身体が失われていくことへの葛藤ははるか彼方に置き去られている。
とはいえ「ふおんコネクト!」の場合、その倫理はそこまで徹底しておらず、たとえば3巻の紙新聞の存続をめぐる騒動の回では、「可能だからやる」とは異なる基準の倫理によって物語が収束させられる。それは「可能だからやる」がこの世界ではサイバーパンクのような文化や風俗ではなく、各キャラ固有の能力でしかないことの表れでもある。
しかし最も重要な違いは、サイバーパンクSFの多くが、拡張された身体でもって常に外へ、外へと敵を求めていく傾向にあるのに対し、「ふおんコネクト!」は仲間内で閉じたコミュニティを形成し、すべての物語はその内部で展開する、ということである。その結果、キャラクターの縦横無尽な行動は不可避的にそれぞれのプライバシーを侵害し、それぞれのキャラの隠された部分――過去やコンプレックス――を容赦なく暴き出していくことにならざるをえない。もちろんそういった「攻撃」を受ければ、それぞれがそれぞれの可能な範囲で「防衛」することになるが、敗北した場合、高い能力のぶつかりあいの末暴かれた秘密は、物語の都合上、そうして暴かれるに足る重みを持ったものでなければならず、それは既にあったものとして事後的に形成されていくことになる。今のところそれは、どこかで聞いたような物語の引用の組み合わせでしかないけれど、物語の構造としては、非常にキャラクターに対して冷酷であると僕は思う。
もちろん大部分は読んでいてごく普通に楽しめたのだけれど、時折非常に無神経に感じられるときがあって、そこが僕には引っかかって、そこが苦手である。まあその内色々読み込んでみたい作品ではあるのだけれど。