DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

グレアム・マスタートン『黒蝶』B、ロバート・コーミア『チョコレート・ウォー』B

グレアム・マスタートン『黒蝶』(務台夏子訳、ハヤカワ文庫、2001年、原著同年)B
 イギリスでは有名な作家だそうだが、日本ではほとんど知られていない。解説の著作リストをみると赤川次郎ばりの多作なので、よくあるB級ホラーかと思いきや、単なる読み捨てではなかった。
 遺体現場の清掃人であるヒロインは、特徴的な黒い蝶に現場でたびたび遭遇することに気づく。古代アステカの伝説によると、それは愛する人を殺させる呪いの蝶だという。無職の夫の暴力、息子の非行、別の仕事での男女関係など、トラブル続きの彼女は、一家惨殺、幼児虐待、異常性欲といった凄惨な「現場」をこなしていくうち、次第にその蝶に魅了されていく。
(以下ネタバレ)
 かなり最初のほうで、夫を殺すことになるのは見当がつくので、いつどうやって殺すのか、いわば「臨界」はいつ来るのか、というところに興味が向くわけだが、ソローキンのようなスプラッタを期待していると裏切られる。ヒロインの主観に寄り添いながら、感情描写を徹底して排した、まるで彼女の背後から観察しているような特異な文体を読みすすめると、いつの間にか殺人は終わっていて、彼女が後戻り不可能な地点をとっくに過ぎてしまっていたことに気づく。読者にとって、悲劇は既に取り戻しようもなく終わっていたという形で提示されるのだ。
 ベストセラー作家の作品がここまでカタルシスと無縁というのは驚くべきことで、これが特異的なのか、この作風で売れているのか? これが訳されたのは映画化に合わせたものの、その後頓挫したらしい。だが叙述のテクニックを存分に駆使した本作が、果たして映像化できただろうか。それこそB級の、最初から最後まで感情的に叫びまくるような凡作にしかならなかったのではないだろうか。短めの作品だが、小説という特性を生かして忘れがたい。
 しかし気になったのは、執拗なまでのメキシコへの憎悪である。夫はメキシコ人移民の労働者に職を奪われ、息子はメキシコ人移民を憎んで暴動を起こして大けがをする。ヒロインは彼らの憎悪に反発するものの、最終的にはメキシコ(アステカ)の古代の呪いにより破滅していく。全体としては「メキシコによってアメリカの一家族が崩壊する物語」になっているあたり、形を変えたヘイトスピーチと取れなくもない。wikiで経歴をみてもメキシコとのかかわりは見いだせないにもかかわらず、ここまで露骨だと、他作品がどうなのか気になるところだ。

ロバート・コーミア『チョコレート・ウォー』(北澤和彦訳、 扶桑社ミステリー、1994年、原著1974年)B
 その高校には「ヴィジルズ」という組織があった。生徒たちが運営する、秘密結社にも似たそれは、時に教師以上の権力をふるい、学校を支配していた。
 「異様な権力をもち暗躍する生徒会」、ということでは、麻耶雄嵩『あいにくの雨で』やアニメ『レッドガーデン』などを思い出す。いずれもパターンとして、子どもたちが大人顔負けの冷徹で無機質な組織を作りあげるが、スパイや仲間割れ、独占欲といった「人間の感情」が入りこみ、やがて組織は支配者の思惑をこえて、権力闘争や崩壊の危機になだれこんでいく――という話が多いようだ。本作も例外ではなく、不相応な力を手にした子どもたちの残酷な戦いを見ることができる
 この物語は、とにかくプロットが強い。毎年学校のチャリティでチョコレート販売を「自主的に」生徒たちがやっていて、それをひとりの生徒がきっぱりと拒否するというものだ。体制への反抗というおおきな主題と、それがチョコレート販売をめぐる対立によるものという「落差」が、かえって鮮烈に、政治や権力というものの実体をナマの形で浮かび上がらせる。
(以下ネタバレ)
 いちおうジュヴナイルのはずだが、定型はおおきくはずしている。ひとりの生徒のささやかな反抗は、やがて学校内に波紋をひろげていくが、しかし結局は圧倒的な組織の力の前に滅んでいく。彼の姿に感動して、生徒たちが立ちあがるとか、組織や教師が改心するとか、そういったアツい展開は望むべくもない。ヴィジルズと反抗する主人公以外は基本的に彼らをとりまくモブでしかなく、都合のよい仲間や事件が全部をひっくりかえすといった奇跡はおこらず、結末に希望はない。勧善懲悪的な枠ぐみは、ささいな挿話から全体にいたるまで、周到に排除されている。
 ただ、恐ろしく現実みのある陰湿なイジメが続いた末、クライマックスがいきなり全校を巻きこんだボクシングの試合になるのは、とつぜん活劇的な世界に放りこまれて拍子抜けであった。このあたり、作者も終わらせ方に悩んだのでは? 10年後に続編の『果てしなき反抗』(これから読む)を書いたのは、本人も結末に納得できなかったのではないだろうか。