DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

荒巻義雄『エッシャー宇宙の殺人』B、阿刀田高『楽しい古事記』A

【最近読んだ本】

荒巻義雄エッシャー宇宙の殺人』中公文庫、1986年、単行本1983年 B

 人の見る夢が創り上げた街・カストロバルバ。人と人の意識が融合し、空間がねじ曲がる、エッシャーの絵画そのもののような世界で起こる殺人事件に、夢探偵・万治陀羅男が挑む――という幻想ミステリ。どんなものかというと、たとえば「物見の塔の殺人」では、2階から落ちると1階に着地するわけだから、結果的に「1階の床の上に墜落死体がある」という奇妙な事件が起こることになる。

f:id:nukuteomika:20120713140223j:plain

エッシャー「物見の塔」

 なにしろ夢の世界なので、事件は論理のみならずフロイトや集合無意識、神秘主義思想などを動員して解釈され、万治陀羅男がそうして事件を解決する過程もまた夢分析によって読み解かれる。こういった物語の多重性や、オカルト思想そのものが具現化したような街というアイデアは面白いものの、物語は意外にまっとうに進む。著者のミステリ観によるものか、あまり曖昧なところは残さずに謎は解き明かされるし、なにしろフロイトが援用されるから、真相は恋愛やら浮気やら、愛欲の構図ばかりで俗悪ともとれる。だからといって安易な官能に流れるのかというと、主人公の万治陀羅男はあくまでストイックに、傍観者に徹している。奔放なイマジネーションの広がりというものを期待して読むと、やや物足りない。

 しかし読み終えてみると、この世界にお別れすることに妙な寂しさがある。幻想小説らしくない、過度な飾りのない即物的な文体は、かえってカストロバルバという奇妙な街を実体感をもって読ませてくれるのだ。ふと、もしかしたら自分の今夜の夢で訪れることができるのではないか、という思いに囚われる瞬間がある。カスタネダの「夢見の技法」を読み返してみたくなる。

 とはいえ夢はいずれは覚める。最後の事件の解決により、万治陀羅男は自身の心の問題をも克服し、夢から覚めることが暗示されて終わる。この連作はこの一冊で終わりのようで、読者から見るともったいないところ。できればドラマ化でもマンガ化でも、ビジュアル化して読んでみたいという思いがある。思いがけないリバイバルが起こる昨今、再評価を望む。

(しかし、せめてエッシャーの絵の図版くらいはつけてほしかった気がする…単行本にはあったんだろうか?)

 

阿刀田高『楽しい古事記』角川文庫、2003年、単行本2000年 A

 古事記をちゃんと最後まで紹介している。しかも短い。珍しい。もちろん省略はあるが、そういうところは「ここはつまらないので飛ばす」と言ってくれるので、あとで知識を補う上でも便利である。日本書紀との比較、現代の見解も並べてポイントをおさえているし、読者が退屈してくると著者の思い出ばなしや紀行文に脱線するといった風に語り口も自由自在で、さすがはベテランの文章と思わせる。それを通して、この世代の人間が基礎教育として皇国史観を叩きこまれてきたことも、さりげなく語られる。そういう毒というかトゲというか、少し苦いものも含んだ、オトナの読み物である。

 この「オトナの読み物」という雰囲気の出し方が、やはり阿刀田高はうまい。神話を語り、「本当かなあ」と疑問を投げかけて、学説や自分の考えを披露し、最後に「まああんまりうるさいことは言わずに楽しみましょう」とフォローしてみせる。言いたいことは全部言った上でカドが立たない、いかにもオトナの余裕である。そりゃあ今は80代だから大物感も当たり前か、と思うと、実際のところ40代のエッセイでもそんな風で完成されている。ブラックユーモアの大家はダテではないのだ。読むときは素直に大物感を追体験して、読み終えた後ふと振り返って、著者の意地の悪さを味わう、というところに、阿刀田エッセイの醍醐味がある。