DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

【最近読んだ本】

W・R・ダンカン『女王のメッセンジャー』(工藤政司訳、ハヤカワ文庫、1984年、原著1982年)B

「女王のメッセンジャー」(queen's messenger)というのは、イギリスで機密書類の運搬を担った国際的なネットワークのことである。実在する組織で、現在も存続しているらしい。

 中心となるのはこの組織に属する運搬者――メッセンジャーたち。その一人が香港からイギリスへ機密書類を運ぶ途中に突然失踪し、MI6のエージェント・クライヴが行方を捜索することになる。それと並行し、問題の機密書類を送り主であり、以前から貴重な情報を無償で提供してきた謎の男――チャーリー・エクスカリバーが東南アジアの密林を彷徨する。二つの物語を軸にMI6、KGB、CIAが熾烈な駆け引きを繰り広げることになる。主な舞台がバンコクというのが、当時としては珍しい趣向だろうか。

 刊行が1982年で、作中で鄧小平がシンガポールに接近して情勢が変わる見込みが語られている(「中国人の天才首相がシンガポールの町をすっかり掃除しちゃう」だろうというセリフがある(p.104))ことから、ほぼ同時代を描いていると思われるが、序盤は最新の国際情勢解説というより、東西の諜報機関が入り乱れての頭脳戦といった趣である。

 だが後半になると話がやたら陰惨になってくる。暗殺やマインドコントロール、拷問などにより次々に人が死に、その中には何も知らない民間人も含まれる。結構よいキャラもいるのだ――主人公をなぜか慕って色々助けてくれる現地のタクシードライバーの若者や、彼の友人の用心棒、あるいは消えたメッセンジャーの目的を探るために誘拐された娘など、いずれもプロのエージェントを相手に気丈に立ち向かうが、組織の駆け引きの犠牲となりあまりにも無力に殺されていく。中には憤死に近い死に方をする者までいて、ずいぶん後味が悪い。このあたりはジェームズ・ボンド的なスパイ小説へのアンチテーゼといえるかもしれない。

 徒労とも思える心理的・身体的な凄惨な戦いの果てに明かされるチャーリー・エクスカリバーの正体は、アメリカ人脱走兵という社会派的なオチ。全く予測できなかったが、密林の中をさまよって現地人や仲間や敵と遭遇していくのを読んでいる内にピンと来る人もいるのだろうか。とはいえ暗い展開が続く中では、この意外感は救いにはならなかった。

 物語として質が高いのは確かだが、カタルシスが犠牲にされてしまっているのは残念。

 

 

松本次郎『熱帯のシトロン』全2巻(太田出版 fコミックス、2001年)A

 ベトナム戦争の時代。写真家志望の青年・双真(ソーマ)は、クスリの幻覚の中で見た女の姿を追って、三月町という奇妙な町に迷い込む。「ソーダ」という幻覚剤が蔓延し、代々の巫女が支配するこの町で、ソーマは女の正体を求めてさまよう。しかし近く訪れるという「カーニバルの日」を目前に、町の実権を握る謎の男・ウサギへのレジスタンスの反乱が起ころうとしていた……

 松本次郎の描く埃っぽい退廃した町は、山本直樹『レッド』や藤原カムイ大塚英志アンラッキーヤングメン』の端正な絵より、あの時代の雰囲気に合っているかもしれない。序盤のハードボイルドな雰囲気は、河野典生石原慎太郎あたりに通じるものも感じる。

 しかし現実と幻想が混じりあうサイケデリックな展開に入れば、それはもう松本次郎としか言いようがない展開に突入する。セックス、ドラッグ、バイオレンスの、自分は行きたくないが何度でも読み返したくなる世界。読み返すたびにさりげない伏線が色々見つかるのがうれしい。

 読んでいる間は行き当たりばったりなカオスに見えるが、最後は意外にきれいに終わる。このセンチメンタルなラストは松本次郎ファンには好みが分かれるとは思うが。

【最近読んだ本】

ジョエル・スワードロウ『コードZ』(河合裕訳、1981年、原書1979年)A

 時は1975年、アメリカ大統領ジェラルド・フォードは、テロへの迅速な対応のため、大統領直属のテロ対策エージェントを設置する。コードZと呼ばれるそれは、ひとたび指令が下されるや超法規的権限でもって事態の解決に向かうことになる。そして1977年、ハッチキンズ大統領の時代。イギリス、ドイツ、ノルウェーへ向かう3機の旅客機に爆弾が仕掛けられたとの情報が入り、コードZ担当官のダニエル・ホーガンが初の出動となる。

 最初は失敗したかなと思った。著者はジャーナリストとのことで、ほとんどの著作はノンフィクションである。解説でもリアルな国際情勢を評価していたから、通俗的な国際情勢本に時々ある、シミュレーション小説のような退屈なものを予想したのである。実際、コードZ担当官たるホーガンは、CIA所属で学位をいくつも持ち、公表されていない特許も大量にあるエリートである。自宅には執事がいるというスパイでは珍しい金持ちでもある。彼がハリウッド映画のヒーローさながら、国務長官と対立しながら見えざる敵に立ち向かうわけで、序盤は頼もしく安定感があったため、教養と機転と行動力を武器にこの調子で圧倒して終わるのかと思っていた。

 だが奮闘むなしく一つ目の爆弾が爆発し、そこから俄然面白くなってくる。突如としてホーガンの屋敷が爆破されて誘拐されたのを皮切りに、謎の美女の暗躍、政府内部に入り込んだ内通者、裏で事態を操る黒幕、ブルーカラーに化けて街に潜む殺し屋など次々に現れめまぐるしくなる。

 ストーリー展開は、どちらかというと素人っぽいかもしれない。敵側の有能な工作員があっさり切り捨てられたり、思わせぶりなキャラが特に見せ場もなくあっけなく死んでしまったり、死んでないと思っていたらいつの間にかいなくなっていたり、そもそも初任務で何の実績もない"コードZ"ホーガンが異様に敵組織に警戒されて、彼をターゲットにした対策がいくつも講じられたり。しかしその分後半の展開はめまぐるしく予想できないものになっている。

 それを支えているのが、著者独特のアイロニカルな視点である。たとえば一個目の爆弾を処理するために呼ばれた、地元にいた「爆弾処理のエキスパート」。地元では英雄となっている彼であるが、彼が活躍していたのは第二次大戦中の話で、その後は「大戦の英雄」の名声のみ得て平穏な生活をしていた。そしてこの男は、呼ばれて出てきたのは良いが、知識は当時のままで全くアップデートされていないから、これ見よがしな導線を躊躇なく切るという、今どき我々でもしないような暴挙に出て爆発・即死してしまう。たったひとこと確認しなかったばかりに、大戦を爆弾処理に従事しながら強運で生き抜いて、その後送るはずだった平穏な余生が消し飛んでしまう――というのはあまりにブラックなジョークだが、こうした「ちょっとした選択やすれ違いが取り返しのつかない結果を生み出す」という「哲学」が全体を通底し、物語を魅力的なものにしている。特に終盤、あるキャラがその死を悟った瞬間、数秒間の後悔と時間を巻き戻そうと苦闘する意識の描写は圧巻である。一方で重要なキャラが話の上でのみ殺されていたりもするが……

 黒幕の正体は(多分)はっきり明かされずに終わり、少し続編を期待させる終わり方だったが、書かれずに終わったようで残念である。

 

 しかし、最初から伏線張ってた「ロンチェック」なる謎の言葉、明かされると大したものではなかったのだが、さすがに航空会社のスタッフはわかったんじゃないだろうかと思った。

 

 

群竹くれは『城と天才と私 初恋の価格は国家予算!?』(ビーズログ文庫、2014年) B

 土木ファンタジーラノベ……とでもいうか。そんなジャンルは他には葦原青の『遙かなる虹の大地』とか、思い切り範囲を広げて小川一水の『第六大陸』くらいしか思い浮かばないが。

 イタリアあたりを連想させる商業都市国家で舞台で、その都市の実権を握る銀行家の娘が、ダ・ヴィンチあたりを意識しているのであろう天才青年と組んで、新しい都市の建設計画をたちあげる。

 都市計画の発案から議会の承認を得て建設が決定するまでを描いていて結構面白い。面白いといっても欠点がないわけではなく、何しろラノベ的な時間スケールなので、ひとつの都市建設が一年くらいで実現されてしまう。たった数ヶ月でそれまで存在もしなかった都市建設が始動してしまうというのはちょっと非現実的に過ぎるし、都市の主要な輸送手段が馬だったのを水路による輸送に移行するため、湿地を干拓して水路を張り巡らした都市を造ろう――というアイデアを、主人公の天才青年が出すまで誰も思いつかなかったのかとか、その後の調査や計画完成が1ヶ月程度で終わっているらしいとか、まじめに考えると他にも色々突っ込みどころはあるのだろうが、建設計画を議会を運営する商人たちに認めさせる過程の根回しがドラマとして描かれていて、そちらを楽しむものだろう。

 むしろ難点はコメディパートの寒々しさで、主人公の少女が腐女子の男性恐怖症で、理想の恋愛シチュエーションをこっそり小説に書いている(その小説を天才青年に見られて、それを人質にされて青年の夢に手を貸すことになる)のだが、その辺の描写がひどすぎて読むのが恥ずかしくなる。

 どうも数年と待たずに都市は完成するらしく、その後の物語も構想はあったらしいのだが、続編は出ず。

【最近読んだ本】
三好徹『旅人たちの墓石』(徳間文庫、1982年、単行本1977年角川書店)B
 舞台は1973年のチリ。「赤いアジェンデ」政権に対するピノチェト将軍のクーデターを背景にした国際サスペンス小説である。解説で、アジェンデ大統領はカストロから贈られた小銃で自殺したという説がある、などと言っていたので、その真相に日本人がかかわるのかと思ったら、さすがにそれはなかった。それどころか、日本人のみならず当事者のチリ国民さえもチリ・クーデターにおいては傍観者に過ぎず、東西冷戦のせめぎあいの中で翻弄されるだけである。
 主人公の新聞社特派員がクーデターの勃発を目の当たりにする中で、背後にあるCIAの巨大な陰謀の存在に気づいていく――という筋であるが、変にひねらないで混乱のサンチャゴ市街を描いてほしかった気がする。クーデターの気運高まる市街で頻発する暴動、生死の危険をかいくぐる大冒険、そのさなかでの美女とのロマンスといったスペクタクルが、すべてアジェンデ政権の腐敗を過剰に印象付けてクーデターを正当化するためのCIA演出の芝居であったというバカバカしいオチは、考えてみれば五木寛之の『蒼ざめた馬を見よ』と同型であり、おそらくこのパターンの物語は当時たくさん書かれたのであろう。
 結局のところ、国際社会の背景には常に米ソの争いがあり、ラテンアメリカも日本も、どのような理想を持とうとも彼らの都合で押しつぶされていくだけという無力感。主人公がその中で「真実」を垣間見るがのが、この状況でのせめてもの「抵抗」ということになるのだろうか……


御園生みどり『姫の婿取り はじまりはさかしまに!』(ビーズログ文庫、2015年)A
 戦国時代の小国を舞台に、婿探しをすることになった領主の孫娘(実は男)と、それに現れた求婚者の剣士(実は女)が繰り広げるラブコメディ。心理描写が丁寧で、その分進みが遅い印象があるものの、一巻でうまくまとめている。求婚者のライバルイケメンがダークサイドに堕ちたあげくかませ犬として終わるのがちょっと哀れだが、全体的には平和に落着する。ヒロインは領主を裏切った婿の子で、男の子として生まれると殺される運命にあったので母が領主にも内緒で女子と偽って育てたとか、かなり凄惨な殺し合いが裏にあったりするし、作中でもあわや合戦になりかけたりもするが、波乱を迎えながらうまくおさめてみせている。
 男装・女装ものラノベとして見ると、二人とも何年も男装/女装して生きてきたせいで、むしろ女/男に戻った時に戸惑いを感じているのが面白い。ふつうは異性の体になったことへの戸惑いを感じる話が多いのを考えると新鮮である。
 続編が読みたいと思ったが、作者はこの一作でえんため大賞特別賞を受賞したきりで沈黙したらしいのが残念。古本で買ったため特典ペーパーがなかったのだが、内容は何だったのだろうか。後日談だったらぜひ読みたいものだが。

【最近読んだ本】

篠田節子『神鳥 イビス』(集英社文庫、1996年、単行本1993年) B
 イビスってなんだっけ? と思ったらトキ(Ibis)のことだった。タイトル通り、当時は日本産は最後の2羽が残るばかりとなっていたトキがテーマとなっている。
 明治35年に27歳の若さで夭逝した女流画家・河野珠枝の遺作「朱鷺飛来図」は、牡丹の花に集まる美しいトキの姿の背後に地獄のような光景を描き出していた。具象画ばかり描いていた彼女がなぜそんな空想画を描いたのか? 通俗的な恋愛事件として語られる凄惨な死の背後にはどんな真相が隠されているのか? 興味をもったバイオレンス作家とイラストレーターの男女コンビが謎を探る幻想ホラー……と思っていたら、後半はバイオパニックホラーになって驚いた。先日の『絹の変容』に続けて読むと、肉食殺人カイコの次は大型人食いトキということで、やや芸のない気がする。作風多彩なのにこれを続けて読んだのはハズレだったかもしれない。
 文章に詩情がない、というのが『絹の変容』の感想だったが、この場合それが良い方向に働いていると思う。トキの絵も、夏に冬山に迷い込むという展開も、具体的に描かれるせいで、「これは本当のこと」という逃げ場のない感覚に襲われる。これが変に詩的だったら、結局幻覚を大げさに描いていただけなんじゃないかという感想のほうが強くなりそうだ。
 キャラクターがいまいち好きになれないのでちょっと入り込めないところがあるが、即物的に描かれた幻想小説という前半からそれに強引に割り込んでくるバイオホラーという、あまりない読み味の作品である。


ジョン・ガードナー『人狼を追え』(村杜伸訳、ハヤカワ文庫、1979年、原著1977年)C
 1975年、IRAアイルランド共和国軍)によるテロの不安に揺れるロンドンで、ある情報が政府に激震をもたらす。1945年のナチス崩壊の際、一人の少年が混乱の中を脱出していた。コードネーム「人狼(Werewolf)」と呼ばれるその少年は、ヒットラーユーゲントの一員とも、ゲッベルスの遺児(史実ではゲッベルスとともに姉妹たちと一家心中)ともいわれ、英国情報部の監視のもとでナチス残党により育てられていたが、庇護者の死後は行方不明となっていた。その少年が30年の時を経て、イギリスの田舎に真面目な勤め人として妻と幼い娘を連れて居を構えたことが判明し、彼の正体やイギリスに帰化した目的をさぐるため、英国情報部が暗躍を始める。
 主人公はその極秘作戦の中心にあって男を追い詰めていくことになる。といっても身体的に痛めつけるのではなく、男が購入した家が幽霊屋敷であるという噂を利用し、ポルターガイストや意味ありげな落書きでナチスの亡霊を演出するという子供だましなのだが、そんな方法でも、平和に暮らしていた一家は手もなく騙されて精神的に追い詰められていく。次第に主人公は男はナチスとは無関係なのではないかと疑い始めるのだが、上司は手を緩めることを一切許さず、やがて破滅が一家を襲う。手違いで娘が死に、ノイローゼとショックで男が自殺し、すべてが手遅れとなったとき、彼が現在はナチスとは一切関係をもたない、善良な男にすぎなかったことが明らかとなる。
 一切救いのない、陰鬱な話である。確かにナチスは歴史上まれにみる悲劇を起こしたが、平和に生きようとする彼ら一家をあらゆる手で追いつめていく英国政府は負けず劣らず酷い。組織が一度目的を定めればそのために非人間的でもあらゆる手段が使われ、とめることは誰にもできない。主人公は唯一それに疑問を持つが、しかし振り返れば最も彼ら一家の崩壊に働いたのは自分なのである。睡眠中の男にテープレコーダーでヒトラーの音声を流して彼のトラウマを呼び覚ますといった馬鹿らしい作戦がまた、悲劇とコントラストをなしている。もしかしたら、当時の英国政府への批判が根底にあったりするのかもしれないが……個人的には、とても楽しむ気にはなれなかった。
 この作品と同時期にはアイラ・レヴィンの『ブラジルから来た少年』(1976年)という、やはりナチスの後継者を扱った作品がある。さすがに70年代ともなるとナチス残党も高齢化し、「ナチス帝国復活」という冒険小説ごのみのネタもストレートには扱えず、色々とひねりが必要になってきていたことをうかがわせる。レヴィンはクローンという最新テクノロジーにより、ヒトラーの復活というオカルトを実現しようとしてみせたが、ガードナーはナチス崩壊時に脱出した少年というやや現実的な解決を与えている。しかし彼を脅す方法が録音機器などを使ったポルターガイストや亡霊の再現という「テクノロジーによるオカルト現象」がメインとなるあたり、やはりナチス=オカルトということなのだろうか。

【最近読んだ本】
大藪春彦野獣死すべし』(新潮文庫、1972年、発表1958年)A
 大藪春彦を初めて読んだのだが、動機なしでただひたすら殺戮が続くことに驚いた。
 主人公の伊達邦彦は戦前の満州ハルピン生まれ。敗戦の引揚げ時に中学生、大藪春彦が1935年生まれなのでほぼ同年と考えてよいだろう。学生時代は不良たちの争いに加わる一方読書にも熱中し、のちに学生運動や演劇、美術、サッカーや射撃など種々のスポーツに打ち込み、大学と大学院で英文学を専攻(卒論は「ハメット=チャンドラー=マクドナルドにおけるストイシズムの研究」)、その後大学院生となって作中の現在に至る、となると、発表時の1958年に大藪自身が23歳でほぼ同時代を描いているといえるだろう。
 こんな経歴の伊達邦彦が、出てくる人をとにかく殺しまくる。冒頭の警官殺しを皮切りに、チンピラや実業家、果ては仲間まで死なせ、暴力と金の果てしない連鎖の果てに何があるのかと思ったら、1500万円の金を得てアメリカに留学して終わるというので呆然とする。
 じゃあこの殺戮は学費を稼ぐためだったのか? と思ってしまうのだが、読んでいる間は酔ったような奇妙な快感があるのだ。
 これは動機や打算によらない純粋な暴力の姿を描こうとしたものと考えるべきだろう。実際、続編の「復讐編」では、タイトルどおりに父と妹を奪った企業への復讐という動因をもつことで、主人公の意志も超えて暴力が連鎖する凄惨なものになっている。
 平井和正が『夜にかかる虹』で文体を絶賛していたのでどんなものかと思っていたが、なるほど簡潔で非情ながら詩的でもある。これは病みつきになる。


スターリング・シリファント『鋼鉄の虎』佐和誠訳、ハヤカワ文庫、1985年、原著1983年)B
 『タワーリング・インフェルノ』や『ポセイドン・アドベンチャー』など数々の名作映画の脚本で知られるシリファントの初の小説。……なのだが、英語のwikiを見てもシリファントの小説については言及がない。あまり売れなかったのだろうか。
 この小説を読んでいる間ずっと、「ポストコロニアル文学」という言葉がぐるぐる頭の中を回っていた。
 舞台はニューカレドニア。一見楽園のようでいて、メラネシアの民とフランス人政府の間の対立が激化しつつある、80年代初頭のこの島を訪れたのは、ベトナム帰りの元特殊部隊隊長ジョン・ロック。この島を事実上支配する実業家の依頼で、彼はこの島に高度な通信システムを建設する事業を妨害する動きの調査を始める。目をつけたのは、テロも辞さず政権掌握をもくろむ共産党と、メラネシアの民を統合して呪術的な力で植民者の排除を目指す先住民たち。しかしその陰には、どちらにも属さない巨大な計画が進行していた――
 ということなのだが、主人公はのっけから謎の武装集団にマシンガンで襲撃されても、たった一人で反撃して全滅寸前まで追い込むようなタフガイであり、現地の実力者や警察にも何故だかモテモテ、実力者の姪娘とは恋仲にまで発展する。見ていて安心感が半端ではない。彼が、襲撃者を撃退したり偉い人との小洒落た会話を楽しんだり入れ替わり立ち代り現れる女性たちとロマンスを演じたり、それに水を差すように時折不気味な呪術的なサインが現れたりと、手際よくローテーションを繰り返すうちにページは進み、ラストで「真相」が明らかになるが、それがどうだったかというと……印象は薄い。
 なにしろ520ページと厚く、450ページあたりでようやく真相が明らかになるのだが、それなりに面白いもののストーリー中の重要性がよくわからないエピソードが連続しているせいか、真相にたどり着くまでに疲れてしまうのである。読み返してみると、フランス人実業家がクーデターを起こしてメラネシアの民にニューカレドニアをすべて返し、呪術的な文明を復活させようという計画を、ジョン・ロックが神の使者を名乗り部族の戦士を倒すことで精神的に潰えさせる(あまりのショックに実業家が自殺してクーデターは頓挫。無視して実行すればよかったのに)という結末は、植民地主義批判と呪術文化をうまく組み合わせていてそれなりにうまいと思うのだが、読んだときはあまり感心しなかった。大して伏線も張らずに真相が明かされた印象があるし。
 ただこれは、読者である自分が日本人であるというのも多少は影響しているのかもしれない。メラネシアの伝統や文化が重要なファクターとなっていながら、名前を与えられているのはほぼフランス人ばかりという究極の独善の中で、たった一人のアメリカ人がすべてをひっくり返すというのは、アメリカ人読者の夢の体現とも考えられる。
 個人的には、かえって個々のエピソードに魅力を感じた。たとえばバザンという警部。作中きっての良識派で、警察の人間にしては一匹狼の主人公に惚れこんで何かと助けてくれるのだが、亡くなった奥さんのことが忘れられず、「生きている」ふりをして生活しているという闇を抱えている。ジョン・ロックが彼の家を訪れると、テープレコーダーに吹き込んだ奥さんの声を再生して、さもいるように装っていた(ジョン・ロックの問いかけへの返事のテープを的確に再生したのはどうやっているのかわからない)という、狂気に近いエピソードがあった。もしかして『サムライフラメンコ』の終盤エピソードみたいになるんじゃないかと思ったが、実のところバザンも妻が死んだのはわかっており、茶番だと承知した上でやっていることを認めていて、特にストーリーの本筋にかかわってくるわけではない。なんでこんなエピソードを入れたのかわからないのだが、妙に印象に残る。
 あるいはベトナム戦争帰還兵ということで(?)、色々トラップの話が出てくる(ベトナム戦争を意識させる、須賀しのぶの近未来戦争小説『キル・ゾーン』もトラップの話が良く出ていた)。良かったのが、ロックが拠点にしているボート(これの名前がタイトルの由来となるスチール・タイガー=鋼鉄の虎)に戻ったら、洋式便器のフタを開けると中に毒蛇がとぐろを巻いている、というもの。水を流そうとしてコックをひねると仕掛けられた爆弾が爆発するという周到な二段トラップが地味に恐ろしい。昔読んだホラー漫画でトイレのフタを開けたらスズメバチが大量に飛び出してくるというものがあったが、それに匹敵するインパクトである。とはいえ何しろ主人公は凄腕なので、先に気づいて何とかしてしまうのが残念といえば残念。捨て駒になるキャラを用意できなかったものだろうか。他のトラップとして、爆弾の偽装に使われるからバゲットパンを買う禁止令をロックが警察書に出すというエピソードもあり、喜劇的な割には本当に犠牲者が出て、その悲劇性のギャップが面白い。
 ちなみに本書の翻訳出版は1985年2月。同じくニューカレドニアを舞台にした映画『天国にいちばん近い島』の公開が1984年12月15日ということなので、そのブームのさなかに出版されたことになる。wikiによると映画版はあえて政治的メッセージは描かなかったということだが、当時映画と本書をあわせて読んで、落差を意識した人もいたのだろうか。
 本作はジョン・ロックシリーズの1冊目で、続編にはBronze Bell(青銅の鐘)、Silver Star(銀の星)(いずれも未訳)と並んで、作品リストには真珠湾攻撃をテーマにしたPearl Harvor(真珠の港)というのがあるが、まあ無関係かな……こんなのが真珠湾にいたらどうなってしまうのか興味があるが。

【最近読んだ本】
早乙女貢奇兵隊の叛乱』(集英社文庫、2015年、単行本1970年)A
 吉田松陰が神格化された現代では貴重かもしれない、維新史の暗部を描く異色作品。なにしろ執念で『会津士魂』全13巻(1970〜1988)・『続会津士魂』全8巻(1989〜2001)を書いて会津の正義を訴えた早乙女が長州を書くのだから容赦がない。
 普通奇兵隊というのは、創設した高杉晋作とセットで語られ、高杉を中心にその活躍がいきいきと描かれ、高杉の死とともに物語からフェードアウトしてしまうのが常である。
 対して、ここでは高杉は一登場人物に過ぎず、むしろ歴史の片隅に葬られていった隊士たちにスポットライトがあてられている。特に前半は、赤根武人、立石孫一郎、世良修蔵など、あまり脚光を浴びない人物が中心に据えられているし、彼らを描く過程で、高杉の伝記小説などでもあまり詳しく触れられない教法寺事件(奇兵隊結成初期の奇兵隊士と長州藩士の衝突事件)などもかなり詳細に語られるのはうれしい。
 高杉との対立の末に奇兵隊の主導権を握るも、その後の度重なる政変の中で孤立し捕われ処刑された赤根、他藩とのつまらない衝突の罪滅ぼしのため手柄を立てようと幕府への反乱を起こし、あっという間に鎮圧され歎願も受け入れられず抹殺された立石、誰も行きたがらず押し付けられた奥州鎮撫総督をそうとも知らずに喜んで受け、みすみす暗殺されることになった世良。あるいは奇兵隊と相対し、まったく新しい戦法に歴史的な醜態をさらした小倉藩小笠原長行やその部下の島村志津摩たち。長州嫌いの早乙女なのでお世辞にも好意的とはいえないが、いずれも愚かながら、人生にめぐってきた一瞬の栄光をなんとか掴み取ろうとして失敗した憎めない人々となっている。
 その中で高杉晋作はどうかというと、「切れ者で融通無碍な精神が、しばしば人の意表を衝く」としながらも、いたるところで直情径行、独善的、分裂症的、無思慮、幼稚単純と手厳しい。言うだけ言って「これは社会性の欠如というより一種の天才的性格である」というフォローになっていないフォローでとどめをさす。

高杉晋作の行動をふりかえってみても、深遠な思想から発した行動や、政治理論とはかなり懸隔があるようだ。常に突飛な思いつきが多く、政治理念に裏付けられたものではない。しばしば、無謀で狂的な行動が、それが無謀であるがゆえに、意表を衝いて成功し、局面打開に思いがけず幸いしている。(p.170)
 女も革命も、かれには遊びだったとしか見えない。道具でしかない。結果としては討幕に功があったのは事実である。幕府という勢力に挑む楽しさが、かれを動かしたに過ぎない。師松陰の復讐も、攘夷も、晋作の青春を彩る片々たる事件にすぎなかったのだ。(p.174)

 こんな批判が数ページにわたって続いたりする。たとえば大河ドラマ『花燃ゆ』では、師の松陰を慕い優秀な久坂に劣等感を抱くごく平凡な青年としての高杉が描かれていたが、本作ではそのような影は微塵も見当たらない。「一種の狂人としての高杉」の集大成といえるだろう。
 こんな風だからあまり人気がなかったのか、作者もあまり楽しくないのか、後半はやや駆け足で俯瞰的に維新後の残党の動きを追う。脱退騒動を経て政府の懐柔策や弾圧を受け弱体化し、明治3年に木戸孝允らの策謀で反乱首謀者の主だったものが処刑され、奇兵隊が完全消滅したところで終了。大楽源太郎、富永有隣、河上彦斎前原一誠などなど、奇兵隊と関連をもって表舞台から消えていった人は他にもいるのだが、ひとこと程度で消えていくのが少々不満。
 その中で台頭してくるのが山縣有朋である。仲間を仲間とも思わず、彼らの死体を踏み台にしてのし上がっていく悪人として描かれ、だいぶ恨みがこもっている。解説の葉室麟も「司馬史観」とならぶ「早乙女史観」があるのではないかと言っているが、実際かなり筋の通った罵倒が展開される。
 しかし教法寺事件など、奇兵隊士が事態を何も知らない無抵抗の藩士をよってたかって斬りつけるなど、想像以上に凄惨な殺し合いで驚かされる。1969年刊行という時節柄か、志士に対する幕府の弾圧を学生運動に対する官憲による弾圧に比していたりしていて(脱走した隊士をことごとく斬首したのを「これで良かった」などと広沢真臣が書簡で述べているのに対し、「先般の大学騒ぎでのゲバ棒検挙のあと某大臣が言っていたのとよく似ている」と皮肉っている)、奇兵隊士と学生たちを重ね合わせるようなところもある(「大学生の鬱屈した感情も諸隊兵士に似通っていないか」との記述もある)。そう考えると詳細に描かれる奇兵隊内部の争いも、それを通して学生運動内ゲバを描きたかったのではないかと思えてくるのだが、今となっては知る由もない。


篠田節子『絹の変容』(集英社文庫、1993年、単行本1991年)B
 篠田節子のデビュー作。最初からのこのレベルというのもすごいが、この話が第3回小説すばる新人賞受賞作というのもちょっと驚く。
 虹色に輝く絹をつくりだす野生のカイコが発見され、主人公が二人の仲間を得て養殖や絹の製品化に挑むが、それが思わぬ悲劇を巻き起こす――という話で、バイオパニックホラーとでもいうべきか。中編というべき長さで、要点をコンパクトにまとめてスピーディーに物語は進み、なにか寓話めいた読み心地である。
 自然界で圧倒的に弱いはずのカイコの幼虫が肉食化し、アレルギー性をも備えて人間たちを襲うさまは、西村寿行の『蒼茫の大地、滅ぶ』や『滅びの宴』あたりを想起させる。西村の場合はイナゴやネズミが人間に反逆するが、大発生したイモムシがカーペットが移動するかのように行進して八王子の住宅地を蹂躙するヴィジョンは、人間より圧倒的に弱いはずのものが人間を圧倒する瞬間の恐怖を伝えるに十分である。
 獲得形質が遺伝することになっているなど科学的な欠点は措くとしても、小説として難点を言うなら、文章にあまりに詩情がない。たとえば虹のような光沢を持つ絹を、まっさきに「レーザーディスクのような」と言ってしまうのは、確かにわかりやすいけど、即物的にすぎて夢がない。どうせ言わせるのなら、絹の商品化を主導する男に「夢のない感想」として言わせるべきだったのではないか。
 ために、イモムシの襲来もどこか淡々として、西村ほどのインパクトがないと思う。むしろこの場合はカタストロフより前――かつて絹織物で財をなし、今は包帯工場を経営しているかつての名家の若旦那が道楽ではじめたカイコの研究(このあたりのディティールが良い)が、やがて人や金を動かし成功の希望をみせつつ、一方ではきたるべき悲劇の兆候もあちこちに芽生えながら、いつしか事業が彼の制御できないものへと巨大化していく――という、その破滅への予感こそが魅力だろう。カタストロフ後はもう、なるようにしかならないという諦めが読者にも伝わってくる。
 どうせ冬がきてみんな死ぬんだろ、と思っていたらそうはならず、あくまでバイオテクノロジーにこだわったラストをむかえて、それにラブロマンスもかかわってくるあたり、エンターテイメントとしてサービスは良い。やや小粒感は否めないが、のちのベストセラー作家への萌芽を充分感じさせる良作である。

猿の惑星 創世記』(ルパート・ワイアット監督、2011年)B
 『猿の惑星』のリブート映画として、サルがどのようにして人間に代わって地球を支配するに至ったかを一から描くということだったらしいが、結局は普通のパニックホラー映画になってしまった印象。
 元祖『猿の惑星』は、原作者ピエール・ブールが戦時中に日本の捕虜になった経験が反映されていると言われており*1、『続・猿の惑星』でいったん完結したあとの『新・猿の惑星』『猿の惑星 征服』『最後の猿の惑星』は、恐らく黒人の公民権運動が背景にある。いずれも自分たちにとって異質で格下だったものがやがて同格になり、遂には支配関係が逆転すらしてしまうという恐怖を描き出していた。
 対して本作は、実験動物のサルの一部が制御不能になって暴れ出したという程度にとどまっており、いずれ彼らが自分たち人間にとって代わるほどの存在になる――という風にはとても思えない。その原因として、発達するサルと対比される、退化して無気力に生きる人間が描かれなかったことが挙げられると思う。元祖『猿の惑星』が人類文明の崩壊に説得力を与えていたとすれば、実は知能を持ったサルたちよりも、ロボトミーでも受けたかのように退化した人類のショッキングな姿だったのではないかと気づかされる。そう考えるとリブート版が、人間の滅亡の原因を主に未知のウィルスとしているのは、あまり良い選択とは思えないのだが。
 しかし映像はすごかった。見ている間はてっきり本物のチンパンジーにやらせているのかと思ったものである。

*1:原作自体は、人間が地球の支配者になっているのは偶然の結果に過ぎないという文明批評的なもので、実際のところどうなのか疑問であるが