DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

矢野隆『我が名は秀秋』B、早乙女貢『若き獅子たち(上・下)』A

【最近読んだ本】

矢野隆『我が名は秀秋』(講談社文庫、2018年、単行本2015年)B

 関ヶ原の戦いにおける家康の勝利に最大の貢献をした一人ながら、裏切り者として軒並み評判が悪い、小早川秀秋が主人公。

 司馬遼太郎の『関ヶ原』などでは、自分がやったことを全くわかっていなかった小心者のように描かれていたが、実は彼はすべてを見通した天才だった――という着想は、一見面白いものになりそうな気がするが、蓋を開けてみると何のことはない、

 「家康が最も恐れた男」

 「戦国の世に十年遅く生まれてきた男」

 「関ヶ原の戦いの行く末を唯一見通していた男」

 という、よくあるものになってしまった。

 普段は無気力な男なのが、戦場で「内なる獣」が覚醒して名将になるというのは、やや天才的に描かれすぎではあるものの、三国志のようで爽快である。2015年刊行ということだが、イメージとしては2014年の大河ドラマ軍師官兵衛』の浅利陽介演じる小早川秀秋が念頭にあったものだろうか。

 無気力で、自分の意志や感情もよくわかっていなかった彼が、小早川隆景という「父親」との出会いをきっかけに、秀吉への嫌悪や兄と慕う秀次を死なせた石田三成への復讐心に目覚めていく過程は、なかなか読みごたえがある。2016年の『真田丸』では小早川秀秋をまた浅利陽介が演じて、より人物が深められた感があるので、それを経ていればまた違った秀秋像になったかもしれない。

 これで大長編になれば面白いのに、さるにても残念なのは、なぜ秀秋が関ヶ原の戦いの直後、21歳の若さで死んでしまったのか。考えようによっては、秀秋の人生最大の失策は、関ヶ原の裏切りよりもその早すぎた死にあったと思わざるをえない。もし長寿と言わないまでも平均寿命まで生きていれば、その後の人生が地味でも、戦国の世を老獪に生き抜いた策士として、後世の評価も違っただろう。普通は歴史上の人物といえば、坂本龍馬高杉晋作など、早死にした方が評判が良いものなのに、若死にして評判を落とすというのは結構珍しいのではないか。

 本作でも歴史を曲げるわけにはいかず、なんとか「天才」という面目を保った死に方にしようと腐心しているが、やはり中途半端に終わった印象は免れない。今まで題材にされてこなかったのには、やはりそれなりな理由があることを思い知らされた。

 

 

早乙女貢若き獅子たち(上・下)』(新潮文庫、1991年、単行本1985年)A

  文久2年(1862年)の吉田東洋の暗殺に始まり、幕末の京に吹き荒れた暗殺の嵐を、慶応元年(1865年)の武市半平太の刑死まで上下巻1200ページで描く。

 作者が熱狂的な会津推しなので、薩長土をはじめとする志士たちの描き方に容赦がなく、ほとんど全員が血に飢えた殺人狂、無思慮、女好きときている。ほぼ同じ時期の同じテーマを描いた作品としては奈良本辰也の『洛陽燃ゆ』があるが、あれなどまだ、これに比べればインテリの思想闘争といった趣である。これを読んだら、幕末のロマンなどたちまちに壊れてしまうだろう。

 しかし単なる罵倒にとどまらず、妙に説得力があるのは、ちゃんと史料を調べたうえで書いていることや、会津びいきの作者の史観の一貫性、なすすべもなく殺されていく若者たちのパターン化されない描写の巧みさなどによるだろう。また、文久2年9月、攘夷志士暗殺に暗躍していた渡辺金三郎*1ら幕吏4名を土佐藩平井収二郎長州藩久坂玄瑞ら24名(!)が結託して石部宿で襲撃、3名を惨殺した事件など、恐らく「正義」的なイメージには不都合なため、あまり触れられない歴史的事件を詳細に描いているのは大きな特徴である。

 そしてやはり、死を迎えるまでのそれぞれのキャラクターの意識の描き方がうまい。知らぬ間に最悪の選択を重ね、いつの間にか逃げ道がなくなり、それでも何とか死から逃れようとするのに、遂に背後から致命的な一撃を食らう。その時にはもはや倒幕だの攘夷だのという言葉も忘れ、ひとりの無力な子どもに還って、ただ無為に死んでいく。吉田東洋に始まり、田中河内介、島田左近、佐久間象山などなど、有名人からマイナーな人物まで、それぞれに工夫を凝らして哀れに死なせていく執念がすごい。

 血に飢えたような殺し方、死ぬ者たちが思想も武士道も何もなくただただ無力に死んでいく無情さは、幕末の歴史という観点をこえて、太平洋戦争や連合赤軍事件で死んでいった者たちを重ね合わせているところもあると思う。

 実際、作中で

現代でも日本赤軍のような過激なグループの酸鼻を極めたリンチ事件は記憶に新しい。かれらは、かれらなりに、正義を信じていたのだろう。かれらのいう正義がどんなものか知らないが、狂信による人殺しということでは尊王攘夷のいわゆる勤皇の志士と称する連中も大差ない。(上巻p.385)

攘夷々々で、日本中が浮かれていた。恰も戦中の鬼畜米英の昂奮にひとしい。お祭り騒ぎが好きだし、附和雷同性が、事の是非も考えることなく、夷狄斬るべし、紅毛撃つべしと喚くのだ。(下巻p.155)

 というような言及も頻繁にあり、単に日本史におけるある時代を描くだけでなく、そこに何か普遍性を見出そうとする姿勢が感じられる。早乙女貢自身にはストレートな戦記小説や学生運動小説はないのだろうか。

 まともに死ねた人が一人もいなかったのが、上巻のラストでようやく会津藩新選組が京に現れ、そこから雰囲気が一変し、無秩序だった京にようやく秩序らしきものが現れる。近藤勇土方歳三が、作中では初めて、暗殺者を圧倒して追い払うことに成功するのだが、これには快哉を叫びたくなる。それはまるで「未開の地」に「文明人」が乗り込んできたような――物知らずな田舎者と描かれる会津が文明人の側なのだから変なものである。かくして、下巻はやりたい放題だった長州藩土佐藩が一転して追い詰められていく。しかしその後も、吉村寅太郎天誅組のように、蜂起直後に長州藩が京を追い出されるというタイミングの悪さのせいで支持を失い、孤立無援の中で味方の誤射で負傷して敗退し、華々しい死を飾るチャンスも逃して射殺されるなど、決して爽快感はない。司馬遼太郎などの娯楽性の高い幕末小説を読みなれてきた身には、冷水を浴びせられるような本である。

 

 しかし読んでいて閉口したのが、女性の描き方の酷さである。

 出てきた女性は全員強姦されていたような気がするほどで、働きにおいても、惚れた女にかまけて人殺しのチャンスを逃すものがいたり、真面目な志士が遊女に溺れて病気になってしまったり、愛する人の情報を漏らしたことが彼の死の原因になったり、男の逃走を家族の存在がはばんだりと、おおむね男の足を引っ張る役割しか与えられていない。この明らかな女性嫌悪はちょっと驚くべきものである。解説の藤田昌司は「強烈なエロチシズムも魅力」などと称しているがとてもそうは思えず、早乙女貢というペンネームが「若い女性に金品を貢ぐ」という意味だという割には正反対である。このあたり、誰か論じている人はいないのだろうか。

 まあこの辺にうんざりして読み飛ばしたから、分厚いわりに早く読み終わったともいえるが……

*1:この名前は全く知らなかったが、心霊番組界隈では有名らしいことを検索していて知った

大江健三郎『奇妙な仕事・飼育』A、ドット・ハチソン『蝶のいた庭』B

【最近読んだ本】

大江健三郎『奇妙な仕事・飼育』(新潮文庫、1959年、単行本1958年)A

 大江健三郎は初期作品が良い、というと大抵賛同が得られるのだが、本書を久しぶりに読んで、やはり名作揃いであると思った。それは何故か考えてみると――江藤淳の解説では、大江作品に共通するテーマは、大江自ら「監禁されている状態、閉ざされた壁のなかに生きる状態を考えること」と書いていたそうだが、それ以上に「つかの間のユートピアの生成とその崩壊」というパターンが全作に共通している、ということが挙げられると思う。

 舞台は様々である。死体洗いのバイトで出会った者たちと死体たちの連帯感、戦時中のある村に現れた黒人兵捕虜と少年たちの交流、脊椎カリエス患者の療養所で歩行できない少年たちの間に生まれた共同体など、色々と工夫している。しかしそれらで繰り返される、現出するユートピア空間の一瞬の美しさや、それがある日不意に失われる喪失感という物語は、多くの青春文学のフォーマットとなっているくらいに普遍的なパターンである(今思いつくところでは最近の『万引き家族』や『天気の子』もそれに沿っている)。

 正直なところ、いずれも途中で展開は読めるのであるけれど、わかっていながら我々はそれに対してなぜかいつも、手もなく感動してしまうのだ。そしてそれが一貫しているからこそ、大江の初期短編は今でも読めるものになっていて、ファンも多いのではないか。もっとも流石に大江自身は、第一長編の『芽むしり 仔撃ち』を集大成として、そのパターンからは脱して行っているように見える。それはあくまで大江自身のテーマが「監禁されている状態、閉ざされた壁のなかに生きる状態を考えること」であり、定型的なストーリーはその道具に過ぎないという証左であるのだろう。

 

 

ドット・ハチソン『蝶のいた庭』(辻早苗訳、創元推理文庫)B

 ジョン・ファウルズの『コレクター』の現代版を目指したものだろうか。気に入った女の子を誘拐してきて、人工的に自然を再現した広大な屋敷に監禁し、背中に蝶のタトゥーを彫り娼婦として愛玩し、その美しさの絶頂のときに死なせ、樹脂で固めた標本にして愛でる男。

 彼の「楽園」がいかにして崩壊に至ったのかを、事件を担当するFBI捜査官と、生き残った女性のリーダー格の取り調べの駆け引きのうちに描く。

 つまらなくはないが、少々読者の「良識」に頼りすぎていると思う。読んでいる間ずっと、ほら異常でしょう、残酷でしょう、恐ろしいでしょう、心が痛むでしょうと言われ続けている気分だった。それは主にFBI捜査官が、「供述」の切れ目で毎回「自分の娘がこうなっていたらどうだったか」といちいち思いを馳せるというシークエンスが入ることに、有体に言えば飽きてしまったというのが大きな原因である。それはまあ、現実にこんな事件が起こったらそう思うかもしれないが、フィクションの世界では、こういった「残酷」は特に珍しくもなく、インパクトの弱いものになってしまっている。著者がヤングアダルト小説の出身とのことで、そういうくだりを入れずにいられなかったのかもしれない。構成も凝っている割には大した真相があったわけでもなく、期待外れである。

滝口康彦『流離の譜』B+、水上勉『修験峡殺人事件』B-

【最近読んだ本】

滝口康彦『流離の譜』(講談社文庫、1988年、単行本1984年)B+

 歴史小説では、長州征伐の指揮官として大軍を率いて出征するも、高杉晋作大村益次郎に翻弄され、あげく将軍家茂の死に動揺してろくな戦果もあげずに兵を引き上げてしまった、おおむね愚将としてのみ名前が登場する、幕府老中・小笠原長行。本書は彼の生涯を描いた、500ページ近い大長編小説である。

 実は彼は幕府の崩壊後は榎本武揚と函館に行っており(ただし戦闘には加わっていない)、戦争終結後は隠居して明治24年に68歳で死んだなど、激動の歴史の裏でひっそりと生き延びていたというのは知らなかった。どんな形でも生き延びることが勝利であると信じる自分には、ケレンスキーやマレンコフのその後を知った時のような面白さがある。

 山内容堂に認められる英才でありながら、幼くして父を喪ったため家督相続権を持てず、藩政から離れて育ち、30代になってようやく藩主の嗣子として藩政にとりくみ、江戸にのぼって老中にまでなる。そこで取り組んだ仕事は、生麦事件の賠償金支払いを、反対を押し切って独断で(ということにして)強行することであった。そこが人生のハイライトで、その後は家茂の上洛を画策するが失敗し、長州征伐で醜態をさらし、責任をとって辞任して、以後は歴史の本流からははずれる。

 残念ながら小説としてはあまり面白くない――それだけ、こういう人物を小説の主人公にするには難しいということでもあろう。最初は権力に興味のない自由人ぶって登場するが、すぐに化けの皮がはがれる。まじめで正義感の強い性格は、根回しをするタイプでもなく不器用極まりなく、藩政につくや家老の嫌がらせを受けて全く対抗できないなど、読んでいてイライラする。

 何よりいけないのは、聡明だが粘り強さのない人物としては、徳川慶喜という「上」がいることで、結局のところ、慶喜が二人になったようなものでしかない。考えてみれば政治にかかわるまでの遊び人ぽい雰囲気も、『西郷どん』の慶喜を彷彿させるものであり、ある種のステレオタイプといえよう。

 本は分厚いが、要所で長行の視点を離れた歴史事項の解説がはいるし、それぞれ胸中に複雑なものをかかえる家臣団のドラマもあり読みやすい。ただ、そのドラマ部分はそれほど面白くはないし、どこまでが創作かもよくわからないので、歴史を知る興趣や小説としての面白さにはやや難がある。それでも小笠原長行という人物に光を当てた点は評価されるべきだろう。

 

 

水上勉『修験峡殺人事件』(角川文庫、1985年)B-

 火曜サスペンスのようなタイトルである。調べてみると、1984年には皆川博子に『知床岬殺人事件 流氷ロケ殺人行』というやはり火曜サスペンスのようなタイトルの作品がある。火曜サスペンスの開始は1981年らしいので、当時はタイトルのつけ方として流行ったのかもしれない。

 松本清張などと並んで社会派ミステリの第一人者として知られる著者だが、少なくとも本書に関してはそれほど良いとは思えない。

 舞台は主に和歌山の熊野川上流にあるダム建設地。ここに新たに水力発電所を建設することになり、近畿地方公益事業部の土木課長が監査のために出張するが、現地に着く前に行方不明になり、十津川峡谷で惨殺死体となって発見される。有能で尊敬される彼が、死の直前に女連れだったという目撃証言も入り、痴情のもつれか、ダム開発をめぐる村とのトラブルかで、刑事たちは迷いながらも真相を追っていく。

 序盤は課長と同行する予定だった部下が、尊敬する課長の行方を追うので、彼が課長の知らなかった一面を目の当たりにしていくことになるのかと思ったら、しばらくすると主役はあっさり刑事に移る。彼らは別に課長に思い入れも何もないので、浮気なんて考えられなかったはずの課長の意外な一面が明らかになっても反応が淡泊で、少々物足りなかった。

 捜査は「社会派」にイメージされるような地道な聞き込みがメインで、断片的に提示される手がかりを頼りに、芋づる式に人間関係をたどって真相に行きつくのだが、まあそのあたりは意外さはない。

 問題はこの作品の「社会派」たるゆえんである。凄惨な殺人事件が起こり、その動機の部分に、ダム開発や発電所建設による、地方の荒廃や利権争いといった暗部が見いだされる。これが、都市の人間の営みが地方を犠牲にして成り立っているという構図として示され、読者はいつの間にか、自分が犯行の一部を担っていたという罪悪感を抱くことになる――という仕掛けになっている。

 しかし本書で犯人がやっているのは、利権を握るための裏取引で私腹を肥やし、それがうまく行かなくなると家族ぐるみでの殺人と隠蔽を企て、途中で仲間割れによる殺し合いを始め、あげくの果てに大規模な山火事を起こして焼死するという、ストーリーに意外性を持たせようとするあまり無茶苦茶な行動になっており、元々に異常性があったとしか思えず、とてもではないが都市による開発がここまで狂わせたのだといわれても説得力がない。ために、普通の本格ものの動機の部分に、社会派的なテーマを代入しただけという安直な印象が残った。これが社会派を代表する作家の作品だというのなら、他も推して知るべしという気がする。

 解説は沼正三だったので驚いたが、意外に普通の解説だった。熊野が舞台ならではの土俗的な面(山伏が出てきたり)といった面に着目していたのが、少し沼正三らしいと言えるかもしれない。

アンナ・カヴァン『氷』B、池平八『ネグロス島戦記』A

【最近読んだ本】

アンナ・カヴァン『氷』(山田和子訳、ちくま文庫、2015年、原著1967年)B

 異常な寒さが続き、終末が予感されている世界を舞台に、ある少女と彼女を追って旅する男を描く。少女と呼ばれているが読んでいたら21歳ということがわかってちょっとイメージが狂うが、アルビノであることや、現実とも追う男の夢ともつかない幻想的な描写により、この世のものではないかのような美しい存在になっている。

 読書家の間では評価の高い作品だが、正直なところ途中で退屈になってしまった。描かれるのは、ストーリーというよりも「気分」である。ただただ「終末」の雰囲気と、少女を追い求める男の切実な希求が印象に残り、J・G・バラードの破滅三部作を読んだ後のような沈んだ気持ちが残る。

 少女を追う過程で、スパイめいた暗躍、軍から逃れるための活劇的なアクション、同じく少女を追う「長官」との謀略や駆け引きなどが描かれるものの、それらは断片的なものにとどまり、世界の全体像を明かしてくれるわけではない。どうせ最後まではっきりしたことはわからないんだろうと思うと、熱心に読もうとする気持ちも薄れてしまう。ネット上での感想を見ても、具体的にどこが魅力なのかはわからないままに絶賛されている印象を受ける。

 冷静に考えれば、異常な寒さが続くのと世界が終焉することは必ずしも結びつかないものの、終末を望む「私」の気分と世界の様相がぴったり一致しているというセンチメンタリズムに説得力を持たせる手腕はかなりのものである。しかしその果てに、少女を手に入れ、世界の滅亡と自身の死の想像に安らぎを見出すというラストは、あまりに自己満足に過ぎるとは思った。よくカフカ的世界観と評されているが、決定的に違うのはセンチメンタリズムの有無だろう。

 読んだときの気分にもよるのかもしれないが、正直自分がいま求めるのはこういう話ではなかった。

 

池平八『ネグロス島戦記』(光人社NF文庫、2007年、原著1990年(私家版))A

 レイテ、ルソンに続くフィリピン第三の激戦地ネグロス島にあって、奇跡的に生還した男の手記。

 実際のところアメリカ軍との戦闘はほとんど描かれない。太平洋戦争末期の1944年、ネグロス島に赴任した著者の陣地は、満を持して迎えたアメリカ軍との決戦にひとたまりもなく敗れて崩壊し、生き残りは立て直しを図りジャングルの中を敗走することになる。所属部隊の副官の当番を命じられた著者は、病気になった彼とともに置き去りにされ、その死を看取ったあとは独り友軍との合流を目指す。

 山を越えた先の陣地にたどりつくまでは、ひたすらジャングルの彷徨と、飢餓との戦いが描かれる。期間にして、1945年の6月から終戦をまたいで8月過ぎまでの2か月近く、分量の3分の1以上を費やして描かれるそれは、濃密な冒険小説めいて確かに読み応えはある。そうして死ぬ思いで合流したのに、著者が陣地に着いてみると既に戦争は終わっており、捕虜になっていた上官たちには、著者が臆病に逃げ回っていたものと誤解され、人々の前で殴り倒されてしまう。本書のハイライトは、その無情さだろう。味方の白骨化した死体ばかりの中で、あれだけ生きた人間と会うことを求めていたのに、出会ったとたんに人間関係はしがらみとなって著者を縛るのである。

 幸いに大きな怪我も病気もなかった著者は、重病人と重傷者ばかりのジャングルでは圧倒的に有利だったが、基地においては死人寸前の弱者でしかないのである。それを知った時、それまでいた地獄が、実は生を謳歌する自由の空間だったという劇的な転換が起こるのだ。

 実は著者自身は、山をぬけて友軍との合流を果たす寸前で筆をおいたのを、娘に請われて続きを書くことにしたというが、確かに思い出したくなかっただろう。本書は編集の過程でか、あちこちで詠嘆調の回想が入るのが鼻につくものの、厚さのわりに読みやすい良書である。

津本陽『わが勲の無きがごと』B、レス・スタンディフォード『汚染』B

【最近読んだ本】

津本陽『わが勲の無きがごと』(文春文庫、1988年、単行本1981年)B

 短いながら密度の濃い作品。ニューギニアに出征して帰還した義兄が戦争で何を見てきたのか――武道に優れた尊敬する義兄が、度を越した慇懃さと用心深さ、人間不信を兼ねそなえた得体のしれない人間に豹変したのは何故かを、義兄の遺した談話などを通して探る過程で、心的外傷や、戦争体験の記憶の変容といった問題を描く。

 途中から人肉食を示唆してきたので、そういうのは食傷気味だと思っていたのだが、読むうちに段々様子が変わってきて、持ち前の武道と強運と機転で勇敢に戦い抜いてきたと思っていた義兄が、実はかなり周到に味方の死を利用し、人肉食も計画的に厭わず行ない、その犠牲の上に生き延びていたことが明らかになってくる。その過程は、初期の作者の本分たるミステリ的なスリルがある。これはもしかしたら大岡昇平の『野火』(1951年)へのアンチテーゼ的な意図があるのかもしれない。ここにはキリスト教的なヒューマニズムや罪悪感は存在せず、生きるためには手段を選ばない強い意志のみがある。もっとも戦後はやはり罪悪感に苦しめられ続けてはいるが。

 しかしこの小説は短いがゆえの効率化はあって、義兄の談話からうまく虚偽を嗅ぎつけ、遺されたメモから芋づる式に判明した戦友を訪ねてあっさり「真実」*1を突き止めるあたりは少し安易にも思える。

 こんな凄惨な戦場を生き抜いてきた義兄が、海で波をかぶって鼓膜が破れ、平衡感覚を喪って浅瀬でおぼれ死ぬという呆気ない最期を迎える運命の皮肉こそが、どちらかといえば肝なのかもしれない。義兄の真実を知れば知るほどに、その落差が胸に迫る。

 

レス・スタンディフォード『汚染』(槇野香訳、創元ノヴェルズ、1994年、原著1991年)B

 本編よりも印象に残るのは、尾之上浩司による解説である。タイトルから「病原菌パニックもののブーム到来!」とテンションが高い。これが書かれたのは94年7月、6月に起こった松本サリン事件に言及してなおこの浮かれようである。この後95年1月に地下鉄サリン事件が起こり、社会も彼も冷水を浴びせられることになるわけだが、この時点の彼は何かカタストロフを待望しているようにすら見えてしまう。それは当時の社会の気分でもあったのではないか。

 本作が書かれたのは1991年だが、「7月18日 月曜日」から始まることから判断して、作中の年代は1994年である。邦訳が出た年と一致しているのは偶然か、あるいは翻訳の際に調整したのか。舞台はイエローストーン国立公園。実際に行ったことがある人は面白いのかもしれない。ここに迷い込んだ運送トレーラーが事故で大破するところから話が始まる。実はその中にはある企業が極秘開発していた細菌兵器があった。それが流出して次々に感染者が出る中で、企業の幹部たちは公園の封鎖と感染者の抹殺を指示する。

 国立公園が舞台なので被害者がレンジャーやキャンプの客にとどまり人数が少なく、大都市が舞台のようなスケールの大きさはない。しかし行動の短絡的な企業、送りこまれる破滅願望を持つ殺人狂、対抗するインディアンの戦士の末裔や大自然に潜む猛獣たちなど、悪と正義がはっきり対照されたうえで妙にキャラが立っていて、それぞれが見せ場を発揮しながら戦い抜いては退場していき、短くまとまっている。それがまるで神話や寓話のような不思議な読み心地である。超能力者が出てこないのが不思議なくらいであった。

*1:記憶や語りの変容を描いている割に、最後の場面で明かされる「真相」は疑う余地のないものとして描かれているように見える。証言が次々に覆されて行って真実がわからなくなるというポストモダン小説的な結末を予想していたのだが

柚木麻子『終点のあの子』B、ビル・グレンジャー『ラーゲリを出たスパイ』B

【最近読んだ本】

柚木麻子『終点のあの子』(文春文庫、2012年、単行本2010年)B

 都内にあるプロテスタント系女子高に入学した生徒たちの青春を描いたデビュー作「フォーゲットミー、ノットブルー」(オール讀物新人賞受賞作)と、その続編にあたる3作品を収録した連作短編集。「フォーゲットミー、ノットブルー」は、ごく平凡な女の子が奔放に生きる型破りな女の子に出会い、憧れと友情、そしてふとしたきっかけからの幻滅と破局へと至る物語。つづく「甘夏」と「ふたりでいるのに無言で読書」は脇役だった友人たちが主人公となり、最後の「オイスターベイビー」は「奔放な女の子」の4年後の現実を描く。

 同じ時期の出来事が、その場にいた人それぞれの内面から語りなおされることで、ある学校の、あるクラスの、あるクラスメイトたちの青春の姿が立体的に浮かび上がってくる。語り手のタイプも引っ込み思案、読書家、ギャルなど、定番ではあるものの、色々な視点や価値観を巧みに描き分けている。最近の学園もの同様にスクールカーストが重要なテーマになっており、中高一貫校で内部進学か外部からかということや、どの駅の近くに住んでいるかがそのまま校内のヒエラルキーにもかかわってくる――それどころか電車という小道具は全編を通して、タイトルにまで影響を与えている――という構図は、都会育ちの読者には共感のわく描写なのかもしれない。

 解説の瀧井朝世が絶賛しているように、観察力と繊細な描写は群を抜いている。自由で才能に溢れるクラスメイトに対する崇拝や羨望のような感情が、些細なきっかけから失望や憎悪に変わっていくような、感情や友情の不安定な揺れ動きが、この本に一貫した著者のこだわりであり、それは他の3作品にも共通している。そこにかつての自分自身を見出せるかどうかが、この本を気に入るかどうかの分かれ目だろう。

 ただミクロ的な描写は優れているものの、マクロ的な視点になると少し雑になっていた気もする。「フォーゲットミー、ノットブルー」の主人公の女の子は、クラス全体を巻き込んだ事件で友情が破れてからは、ずっと地味に埋没し、別の友人もできつつ、勉強に専念して生きていくという風に、一応その後もフォローされてはいる。しかし高校1年の出来事の密度に比してあまりにおざなりに流れている印象がある。それだけにこの物語で描かれる事件が大きなものだったということになるのだろうけれど、どうも物語に描かれない「外部」が時折ひどく薄くなることがあって、そこは気になった。あくまで細部の繊細さに比して、ということではあるけれど。

 

ビル・グレンジャー『ラーゲリを出たスパイ』(井口恵之訳、文春文庫、1985年、原書1983年)B

 おもにフィンランドヘルシンキを舞台に、陰謀あり、ロマンスあり、アクションありで、ジェームズ・ボンドの衣鉢を継ぎつつ荒唐無稽には流れない、正統派のスパイ小説……と言い切りたいところだが、過度に複雑に書かれているようなところがあってどうも読んでいてわかりにくい。

 全体の構図はむしろ単純かもしれない。鍵を握るのはトマス・クローハンなる男。アイルランド独立運動の英雄とされる彼は、独立運動アメリカの援助を得るためスパイとしてナチス支配下のウィーンで暗躍し、侵攻してきたソ連軍に逮捕されて収容所で死亡したとされていた。しかし実はひそかに生きながらえており、40年経った1984年、極秘に出所しての亡命をアメリカに打診してくる。アメリカの情報部Rセクションは主人公たるデヴェロー――コードネーム「ノヴェンバー」を派遣するが、この情報はソ連やイギリスにもキャッチされていた。どうやらトマス・クローハンには、世界情勢を揺るがすような秘密が隠されているらしいのである。かくしてイギリス情報部やKGBも動き出し、世界各地で熾烈なスパイ戦が始まる。

 で、この戦いが非常にわかりにくい。いくつもの組織がそれぞれ最低二つの派閥に分かれ、めいめいに殺し屋を送り込んだり政治的手段で交渉を妨害したりと様々にかかわってくるので、ある場所では凄惨な殺しが起こったが別の場所では職場をクビになる程度で済むなど、場当たり的な展開が続く。現地の警察もかかわってくるのでより事態は混迷をきわめる。あとまあ、アメリカの読者はアメリカ陣営に肩入れして読むのだろうが、日本人だとアメリカの名誉にかかわるといわれても少々実感に乏しいきらいはある。

 クローハンが何者なのか、末端のスパイはおろか上層部もよくわかっていないため、それぞれの国ごとに違う見解をもっており、少しずつ明かされていく「クローハンの正体」も二転三転するのでややこしい。実は本心からナチスを支持する反ユダヤ主義者だったとか、実はそれはアメリカの命令で演じたものであったのにアメリカは名誉回復に動かず黙殺したとか、実はそれがカムフラージュであり、ナチスに協力するふりをしてユダヤ人救済に尽力していたとか、その人望を危険視したイギリスの陰謀により投獄されたとか……次から次へと、公表されたら英米ソ各国に都合の悪いクローハン像が提出されたすえ、実はクローハンは暗殺されていて、今収容所にいるのは暗殺者がなりかわった偽物だという可能性までもが浮上してくる。

 さながらポストモダン小説のように真相は定まらず、最終的にはヒロインのジャーナリストが世界に向けて発表した「真相」が事実として確定されるあたり、マスコミが事実を作り出すというメディア論的なオチとも見える。データベースで「トマス・クローハン」と検索しただけで当局に捕捉されて転落のきっかけになったりもして(これが伏線となり、三谷幸喜の『振り返れば奴がいる』を想起させるラストはなかなか良い)、情報化社会のスパイ戦をうまく描いている。

 本書は特に、冬のヘルシンキの陰鬱な描写がよかった。

灰色の、陰鬱な、しびれるような日日がやってきた。これこそフィンランドの暗い冬なのに、そのきびしさを身にしみて感じている者はすくない。人びとは太陽でさえも、はるか彼方の別の太陽系に属している惑星ででもあるかのように眺めているだけであった。星のない夜は長い。夕暮れの灰色の雲の彼方に陽は沈んでいく。凍った港のかなたに拡がる浅い海、フィンランド湾を閉ざす雲は月光も星影のありかも遮ってしまうのである。(pp.9-10)

 クライマックスのロンドンにいたるまで全編こんな調子で、独特の暗い雰囲気を与えている。

 

 本書は実はシリーズものの3作目だったらしく、

『ノヴェンバー・マン』 The November Man (1979)矢野浩三郎訳、集英社文庫

『スパイたちの聖餐』 Schism (1981)井口恵之訳、文春文庫

ラーゲリを出たスパイ』 The British Cross (1983)井口恵之訳、文春文庫

チューリヒ・ナンバー』 The Zurich Numbers (1984)加藤洋子訳、集英社文庫

ヘミングウェイ・ノート』 Hemingway's Notebook (1986))加藤洋子訳、集英社文庫

となっている。作中を通してしょっちゅう前の事件の回想が入るので、順番に読むべきであったとは思う。

岬兄悟『あたしがママよ』B、清水一行『毒煙都市』A

【最近読んだ本】

岬兄悟『あたしがママよ』(角川文庫、1986年)B

 見事にワンパターンな短篇集である。まず、

  ①現状に不満を持つ人がいて、

  ②それを脱出する糸口としての超常現象が起こるが、

  ③最後にしっぺ返しを食らう。

 不満を持っている人の性別や境遇、物語の視点人物などを変えて工夫してはいるが、結局すべてはこのパターンに集約される。その代わりに冒頭から引き込む力があって、だいたい売れないバンドマンや作家が多いのだが、これは解説の高井信が、「岬さんの作品からSFを取り去ったら、これはもう、ほとんど私小説になってしまうのだ」と述べているように、①の「現状への不満」に、彼自身の鬱屈を反映させることで発端の部分に現実味を与えているのだろう。

 しかしワンパターンだからといって、つまらないのではない。むしろどれも面白い。パターン化というのは、それを言ったらドラえもんも同じことで、結局アイデア次第で面白くもつまらなくもなるということでもある。この場合、毎回巻き起こる超常現象がバラエティに富んでいることと、右往左往する人々がうまく描けているためどれも楽しめる。文章もシンプルで読みやすい。

 能天気なドタバタを予想していたら意外に暗い作品が多かったが、特に印象に残ったのは「瞑想昇天」。社会で瞑想がブームになり、主人公の妻や子もはまって、やがて瞑想に熱中する人々がカルト化して集まり、ついには集団で瞑想して天に昇っていくが、それから数日後……という話。思わぬブラックなオチで、「本当に悟っているのはだれか」という新宗教ブームへの批判として、現在にも通用する秀逸な作品である。

 岬兄悟は、当時はSFマガジンで増刊特集が組まれるくらいの人気作家で、10年くらい前まではブックオフでも1冊くらいは作品が見つかったものであるが、今ではそれすらも滅多に見なくなってしまった。寂しいものである。

 

清水一行『毒煙都市』(角川文庫、1979年)A

 タイトルから水俣病あたりをモチーフにした公害小説かと思ったら、少し違った。公害といえなくもないが舞台はなんと戦前、九州の地方都市で実際に起こった集団赤痢事件をモチーフにした、ノンフィクション的なパニック小説である。調べると「大牟田爆発赤痢事件」として有名らしく、ネット上にもいくつか情報がある。これは軍が秘密裏に開発していた赤痢爆弾が原因とみられているが、いまだ未解決で現在に続いているという。

 この小説を読むことで、篠田節子の『夏の災厄』が触れなかったものが見えてくる。疫病に見舞われた地方都市を描くパニック小説という点で二作品は共通するが、篠田が疫病(日本脳炎)の原因追究に主眼をおき、感染経路が突き止められたところでほぼ物語が終わるのに対して、清水は原因以上に、一体この事態の責任追及の様子を執拗に描く。もちろん軍は秘密兵器を開発していたなどと認められるわけがない。代わりに犠牲として選ばれたのが市の水道課である。後半、何者かの意志により水道課の過失がどれだけ否定しても次から次へと、あの手この手で執拗に調査される。このあたりはほぼサイコホラーである。内務省赤痢予防薬と称して赤痢菌の混入した薬を配布し、事件を攪乱するなどということまでしている。

 否定しても否定しても水道課への責任追及はやまず、あらゆる検査や権威を投入した果て、原因は上水道への赤痢菌混入と断定され、上水道の機構からありえないという反論もむなしく、課長が責任をとって辞任するという形で「解決」を見る。現実にも同様の経過をたどったらしく、遺族は今でも真実の解明を求めた告発を続けているらしい。Wikipediaの事件の記述はあたかも清水の小説のあらすじのようでもあり、清水がかなり詳しく調べて、かなり忠実に小説化したことが窺われる。当時はかなりスキャンダラスだったのではないか。

 戦前が舞台とはいえ作中では軍部はほとんど姿を見せず、何者かの思惑に翻弄される水道課員をはじめ、突発的な赤痢にわけもわからないまま子を失っていく親たち、事態を見極めようとする医者、秘密兵器開発にかかわっていた軍と企業の暗躍などが描かれ、あまり戦前という時代性を感じさせない。水道課長と軍上層部のささやかな「対決」が一応のクライマックスだが、理不尽な敗北のラストはやはり物足りないものがある。現実の事件に材をとっている以上しかたのないことであるが……

 『夏の災厄』も小松左京の『復活の日』もそうだったが、この手の話で一番面白いのは、序盤の誰も気づかないうちに疫病が広がっていき、それに人々が気づくまでである。のどかに晴れていた街や公園がにわかに曇ってくるような不安の正体を、読者たる自分のみが知っているという優越感とそれをどうにもできない無力感、やがてくるカタストロフへの緊迫感など、作家の力量はここでこそ発揮される。

 徳間文庫版も出ているようだが、やはり角川文庫版が、生頼範義の表紙で良い。爆煙に包まれる工業都市を背景に、亡くなった幼い娘を抱いて怒りに震える父親を描き、黙示録的な迫力がある。