DEEP FOREST/幻影の構成

読書記録。週2冊更新。A:とても面白い B:面白い or ふつう C:つまらない D:読むのが有害

津本陽『わが勲の無きがごと』B、レス・スタンディフォード『汚染』B

【最近読んだ本】

津本陽『わが勲の無きがごと』(文春文庫、1988年、単行本1981年)B

 短いながら密度の濃い作品。ニューギニアに出征して帰還した義兄が戦争で何を見てきたのか――武道に優れた尊敬する義兄が、度を越した慇懃さと用心深さ、人間不信を兼ねそなえた得体のしれない人間に豹変したのは何故かを、義兄の遺した談話などを通して探る過程で、心的外傷や、戦争体験の記憶の変容といった問題を描く。

 途中から人肉食を示唆してきたので、そういうのは食傷気味だと思っていたのだが、読むうちに段々様子が変わってきて、持ち前の武道と強運と機転で勇敢に戦い抜いてきたと思っていた義兄が、実はかなり周到に味方の死を利用し、人肉食も計画的に厭わず行ない、その犠牲の上に生き延びていたことが明らかになってくる。その過程は、初期の作者の本分たるミステリ的なスリルがある。これはもしかしたら大岡昇平の『野火』(1951年)へのアンチテーゼ的な意図があるのかもしれない。ここにはキリスト教的なヒューマニズムや罪悪感は存在せず、生きるためには手段を選ばない強い意志のみがある。もっとも戦後はやはり罪悪感に苦しめられ続けてはいるが。

 しかしこの小説は短いがゆえの効率化はあって、義兄の談話からうまく虚偽を嗅ぎつけ、遺されたメモから芋づる式に判明した戦友を訪ねてあっさり「真実」*1を突き止めるあたりは少し安易にも思える。

 こんな凄惨な戦場を生き抜いてきた義兄が、海で波をかぶって鼓膜が破れ、平衡感覚を喪って浅瀬でおぼれ死ぬという呆気ない最期を迎える運命の皮肉こそが、どちらかといえば肝なのかもしれない。義兄の真実を知れば知るほどに、その落差が胸に迫る。

 

レス・スタンディフォード『汚染』(槇野香訳、創元ノヴェルズ、1994年、原著1991年)B

 本編よりも印象に残るのは、尾之上浩司による解説である。タイトルから「病原菌パニックもののブーム到来!」とテンションが高い。これが書かれたのは94年7月、6月に起こった松本サリン事件に言及してなおこの浮かれようである。この後95年1月に地下鉄サリン事件が起こり、社会も彼も冷水を浴びせられることになるわけだが、この時点の彼は何かカタストロフを待望しているようにすら見えてしまう。それは当時の社会の気分でもあったのではないか。

 本作が書かれたのは1991年だが、「7月18日 月曜日」から始まることから判断して、作中の年代は1994年である。邦訳が出た年と一致しているのは偶然か、あるいは翻訳の際に調整したのか。舞台はイエローストーン国立公園。実際に行ったことがある人は面白いのかもしれない。ここに迷い込んだ運送トレーラーが事故で大破するところから話が始まる。実はその中にはある企業が極秘開発していた細菌兵器があった。それが流出して次々に感染者が出る中で、企業の幹部たちは公園の封鎖と感染者の抹殺を指示する。

 国立公園が舞台なので被害者がレンジャーやキャンプの客にとどまり人数が少なく、大都市が舞台のようなスケールの大きさはない。しかし行動の短絡的な企業、送りこまれる破滅願望を持つ殺人狂、対抗するインディアンの戦士の末裔や大自然に潜む猛獣たちなど、悪と正義がはっきり対照されたうえで妙にキャラが立っていて、それぞれが見せ場を発揮しながら戦い抜いては退場していき、短くまとまっている。それがまるで神話や寓話のような不思議な読み心地である。超能力者が出てこないのが不思議なくらいであった。

*1:記憶や語りの変容を描いている割に、最後の場面で明かされる「真相」は疑う余地のないものとして描かれているように見える。証言が次々に覆されて行って真実がわからなくなるというポストモダン小説的な結末を予想していたのだが